白と黒の石 2 数日後は雨だった。 ヒカルは辟易しながら、空を飛ぶ。 ミズ族は、一滴以上の水がある場所ならどこにでも行ける。 今日のような日は、どこにでもサイがいるようなものだった。 ……町の向こうの山の主に、悪戯を仕掛けてやろうと思ったのだ。 なのに、雨が降ってきたと思ったら勝手に体が動き、 気づけば山の主に真正面から対峙していた。 山の主が目を見開いた気配に、「わあああ!」と叫んで逃げ帰ってきたが…… 「サイ、コノヤロー!」 口にすると、空中にサイが現れる。 ……何を怒っているのですか?…… 「おまえオレの体乗っ取っただろ!」 ……ヒカル違います!体に入り込むなんて、私そんな事出来ません…… 「じゃあなんだ、あれはオレが自分で行ったってのか?」 ……そうですそうです…… 「うまい事言っておまえ、スキを見てオレの体乗っ取るつもりだな!」 ……知りません。勝手にそう思ってなさい、もう!…… 言い争っていると、町の上空に来た。 この雨の中、ほとんどの家が窓をぴったりと閉じているが微かな灯りも見える。 件の青い屋根の家だった。 開いた窓からはアキラが頬杖をついて外を見ている。 ……ああ、あの子は強くないのに、体に障ります……ヒカル?…… ヒカルはサイを無視して、まっしぐらに窓の前に降りていった。 「よっ!元気になったんだな」 子どもが、切れ長の目を大きく見開く。 「キミは、」 「お。オレの事覚えてるんだ?」 「……やっぱり妖魔だったのか」 「妖精って言って欲しいな」 「命を助けてくれたんだってね。ありがとう」 「どってことねーよ。元気になったみたいで良かったな!」 ヒカルの様子に、アキラが怪訝な顔をする。 自分の命を救ったのは、もっと神秘的な何者かだと想像していたが 目の前にいるのは空を飛んでいるとは言え、あまりにも普通の子どもだった。 「その、手を……見せてくれないか?」 ヒカルはフワリと窓に寄り、素直に手を出す。 手に取ってまじまじと見てみたが、妖魔らしい鉤爪も水掻きもなかった。 「な、なんだよ!」 あまりにも見つめたので、ヒカルは気持ち悪そうに手を振り払う。 「……ボクは本当は、あの日死ぬ筈だったんだ。 命を吹き込めるなんて……キミは、イゴの神なのか?それともイゴの神になるのか?」 「だはははっ!オレが?イゴの神?考えた事もねーよ。 あの命の石だってサイに貰ったもんだし。おまえ案外面白い奴だな」 「……笑うような事じゃないだろう」 「まあ、ちょっとなってみてもいいかなーって思わなくもないけどね」 「ちょっと……なってみても?」 「うん、オレあっちの森の主みたいなんに愛されてるし? そいつの力借りてちょいちょいっと戦って、山一つ貰えたらなって」 「その言葉……全ての妖魔を侮辱する言葉だぞ!」 アキラの剣幕に、ヒカルは思わずのけぞる。 「な、何だよ!大げさな奴だな。 こないだだって、別に死ぬほどの事じゃなかったらしいじゃん。 あの男に聞いたぞ」 「あの男って……オガタさんか?」 アキラの顔が青褪める。 「知らないけど、多分ミズ族だな」 「……あの日、ボクが死に掛けていたのは本当だ。 自分で……命を絶つつもりだった」 ヒカルは一瞬口を噤む。 生きていけないと、思ってしまうような事をされたのだろう。 命を助けた事も、余計な世話だと思われているかも知れない。 だが、ヒカルは天邪鬼でもあり、謝るつもりは全くなかった。 「オガタってのか、あのお目付け役。 人間に使われるなんて、大した事ねー奴だろ?」 「……あの人を悪く言うな。ボクを守ってくれる人だ。 ボクが、自分で自分の身を守れるようになるまでは、ね」 冥い目をして、激情を抑えかねているように声を震わせるアキラに、 ヒカルは思わずそのまま逃げ出してしまった。 ヒカルには、アキラが何故怒っているのか分からなかった。 ただの人間の子、そう思っていたのに妙に妖魔の肩を持つような事を言う。 「サイ……オレ、何かしたかな? アイツ人間なのに、どうしてあんな事で怒るの?」 ……ヒカル、あの子の知り合いなのですか?…… 「この間命を助けたい子がいるって言っただろ?あいつなんだ」 ……そうですか……あの子は、山の主の息子です…… 「まさか!」 ……母親は人間みたいでしたけどね。 今はまだ弱いですが、この後獅子に化けるか竜に化けるか…… 山の主も、森の主であるサイも、勿論神ではない。 全てを、命さえ自由に司る権限を持つ「イゴの神」という存在は伝説であった。 誰も会った事がない。本当にいるのかどうかも分からない。 だが、それに一番近いと言われているのが山の主やサイであった。 そうでなくとも少しでも腕に覚えのある妖魔や妖精は、いつかなりたいと、 思わずにいられないのが「イゴの神」だ。 「あいつも、イゴの神を目指してるのかな……」 ……そうかも知れませんね…… 「なんか、オレも負けてらんねーって気がする……」 ……ねぇヒカル……。本格的に修行をしませんか?…… 漫然とサイに甘えて日々を過ごしていたヒカルが、「生き」始めた日であった。 しばらくして、きれいな人間の子が時々森に迷い込んでくるという噂が立った。 『また来てるらしいぜ』 『今日こそは姦っちまうか』 森の妖魔や妖精の囁きが耳に入り、ヒカルは顔を顰める。 遠くに沢山の枝が折れる音、小さな悲鳴を聞いて走っていってみると やはりというか、服を破られたアキラが妖魔に囲まれ、追い詰められている所だった。 「おまえら何やってんだ!サイに言うぞ!」 「ヒカルだ!サイ様のご威光のヒカルだな」 憎まれ口を叩いて妖魔たちが消える。 後に残されたヒカルを、何故かアキラは強く睨みつけていた。 「……助けてくれなんて、言ってないぞ」 「別に恩着せるつもりなんかねーっての!何しに来たんだよ」 「……」 「サイか?サイに会いに来たのか?」 「まぁ……そうだ」 「じゃあこっち来いよ。あ、この木、オレのねぐらね」 その日、アキラはサイに会い、命の石の礼を言った。 ヒカルの身辺に異変が現れ始めたのは、その頃からだった。 「サイ……ごめん」 ……どうしました?ヒカル…… 「おまえに貰った扇……なくしちゃった」 ……あれは!……とても大切なものだと…… 「ごめん!どうして無くなったのか、全然分からないんだ。 ねぐらの周りも、結界張ってたし」 サイは、少し首を傾げて水面を見つめていたが、 やがて顔を上げた。 ……これまでに、他になくなったものは?…… 「ある。えっと、木の実で作った腕輪、人間の町で拾った匙、 髪を縛っていた細い布」 ……他には?…… 「え……他には扇だけだよ」 サイは眉を開いたが、また少し考えてゆっくりと口を開いた。 ……あの扇の秘密を知って盗んだわけではないようですね…… 「そう?ていうか、サイは泥棒が誰か分かったの?」 ……少なくとも扇に関しては、追跡できます。 他のものは分かりませんが、恐らく同じ人でしょうね…… 「誰だよそれ」 ……アキラ……です…… 「!あんにゃろー!ぜってー許せねえ!」 ……ヒカル、待ってください!…… 「んだよ!」 ……盗まれた品の事をよく考え、落ち着いて話してください。 本当に返して貰わなければ困るのは、扇だけでしょう?…… 「関係ねーよ!勝手に人んち入ってるってだけで気持ち悪いだろ!」 ヒカルは今度こそサイを振り切り、空中に舞い上がる。 真夜中だったが夜行性の妖精であるヒカルには、宵の口だった。 「おい!アキラ!起きろ!ここを開けろ!」 町に飛び、いつかの青い屋根の家の、いつかの窓を叩きながら小声で言う。 さすがに、他の人間に起きられて姿を見られるのは厄介だった。 しばらくすると、ガタガタと音がして内側から木の窓が開く。 「キミ……どうして……」 「扇」 「え……?」 「扇、返せよ。サイから貰った大事なもんなんだ」 「何の話か……」 「ネタは割れてんだよ!腕輪とか匙とか布きれとか、くだんねーもんも盗んだの おまえだろ? 何。なんかの能力?見せ付けたいの? いつでもおまえんちに入れるって、何の脅迫?それ」 「……」 「それともアタマの病気?くだんねーもんでも、盗れるもんは盗らずにいられねーの? どうせなら金になるようなもん盗れよな、気っ色わりー」 「……」 黙ってヒカルを睨んでいたアキラが、突然ヒカルの手首を掴んで 部屋に引きずり込んだ。 「な、」 「ヒカル。……ヒカルって言うんだろ?キミの名前」 「……そうだけど」 「男の部屋に、夜中に来るなんてどうかしてる」 「はぁ?だってオレ妖魔だもん。当たり前だろ?」 そう言いつつ、微かに震えた声に気づいたのか、アキラは小さく笑って ヒカルをベッドに押し付けた。 「……そういう事かよ」 「そうだ」 「自分がされた事を、オレにやりかえすのか?」 「……」 「いいぜ、やれよ。オレはおまえと違ってそんな事では折れない。 自分を可哀想がって、他に八つ当たりなんかしない」 「っ!」 アキラは、何も言い返さず覆いかぶさってヒカルの上着の下に手を差し込んだ。 幼い肌を撫で上げ、微かに膨らんだ胸を掌で覆う。 妖魔であるヒカルに元々貞操観念などなかったが、 発情の欠片すら知らない体を、無理に開かれる事が辛くない訳はない。 自分と同じ年くらいに、しかも少女のように見えていた少年が、 未成熟ながら十分に男であった事に驚きながら、ただ他人事のように 痛みに耐えていた。 ヒカルは、たった数日前に出会った美しい少年の腕の中で 少女から女になった。 ……彼女がもし、アキラが腕輪や匙や布を盗んだ理由を知っていたなら。 ただヒカルの肌に触れていた、それだけの理由であった事を知っていたなら。 毎夜、それらの品を崇拝するようにそっと唇を当て、 ただただ祈るように押し頂いていたと知っていたなら。 命を救われた事を、心の底から感謝していると知っていたなら。 二人の関係は違った物になったかも知れない。 だが、実際はヒカルはアキラの想いに気づかず、 アキラもヒカルに少々幻滅しつつ、 二人は体を重ねながら、喧嘩友達ともライバルともつかぬ関係を続けていった。
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