白と黒の石 1
白と黒の石 1








ヒカルは、ふと眉を顰めてくんくんと鼻を動かした。
ここしばらく雨が降っていないのに、微かにただよう雨の香り……
いや、似ているけれど違う。

病の臭い?

眼下を見ると、真っ暗な人間の町で、一つだけ微かな灯りが漏れている窓があった。
何故か気になって下降する。




夜が更けると、人間の町であってもそこは妖魔の世界だ。
自由に空を飛び、悪戯をする妖魔や妖精を恐れてどこの家も戸も窓も堅く閉じているが
実際はわざわざ人間界に来て悪戯をするような気まぐれな妖精は
ヒカルくらいであった。

だからこそ、偶に窓を開いたまま酔いつぶれて寝ている人間などを見ると
何か悪ふざけをせずにいられないのだが。


今宵開いていた窓の主は、酔い潰れたわけではなく、うたた寝をしてしまったようだ。
小さな部屋の中にはベッドがあり、真っ黒い髪を切りそろえた子どもが寝ている。
そこに父親らしき男性が突っ伏してこれも眠っていた。

あるいは、病の子の為に、妖魔に侵入される危険を冒してでも
新鮮な空気を取り込むつもりだったのか。

自分と同じくらいの年頃の見た目に、ヒカルは興味を惹かれて
するりと窓から入った。
父親は起きない。


火は、嫌だな……


枕元で揺れる、一本の蝋燭の炎。
妖魔は、というかヒカルの属するソラ族は火が苦手だった。
だが、その小さな炎のお陰で子どもの様子がよく見て取れる。

子どもは、血の気が引いた顔を上に向けていた。
まるで作り物のようだとヒカルは思う。
紅すぎる乾いた唇が、生命の最後の足掻きのようだった。

この唇が色褪せる時、この子の命も尽きる。
そんな気がした。


「人間って、簡単に死ぬよな」


ヒカルが小さく呟いた時。
不意に、子どもが目を開けた。

きれいな子だ、とヒカルは思う。

子どもは顔を動かす気力もなく、目の動きだけでヒカルを認めた。
だがそこには驚いたような色もなく、逆に、眼の淵と口の端だけで
微かに微笑んだようにも見えた。


「……!」


これまで。
人間に追われた事はあっても、微笑まれた事はない、
ヒカルは目を見張ってそのまま後退し、窓から抜け出して森へ向かって
一目散に飛んだ。




「サイー!サーイーーー!」


森の奥の泉で、ヒカルは力いっぱい叫ぶ。


……何ですか?光の子……


滾滾と沸き続ける清涼な水。
その中から現れたサイを、ヒカルは毎日のように見ているのに、毎日美しいと思う。
手や髪に触れる事も出来るのに、一滴の水にも濡れていないのが不思議だった。

そのサイは、いつもヒカルを光の子、天に愛された子、と呼ぶ。

永遠に近い命を持つミズ族の中でも特に古の知恵を持ち、どの種族にも
分け隔てなく接し、助けるサイは、この森の実質的なリーダーでもあった。

普段はいがみ合ったりお互いに馬鹿にしあったりしている妖魔の種族も
時には動物でさえ、サイに掛かれば円満にならざるを得ない。

そんなサイにも一つ弱点があり、
それがこの、ヒカルだった。

ヒカルには両親がいない。
それを哀れんだのか、他に理由があるのか、サイはこの鼻抓み者をよく可愛がり
ヒカルが引き起こす相次ぐトラブルを解決し、取り成してきた。

サイがいなければ、実際ヒカルはこの森にいられない。
だが、サイと話せば皆「しょうがないな……この悪戯っ子は」という気分になるから
不思議だった。


……今度は何ですか?また火蜥蜴のカップを割りましたか?
それとも、シルフのアカリの集めたエーテルをぶちまけましたか?……

「ちげーよ!いつもんな事してねーよ!
てゆうかアカリは、あれはあっちが悪いんだ!」

……では、何でしょう?……

「人間の子が、死に掛けてるんだ。助けてくれ!」


そんな事か、とサイは、扇を口元に当てて眉を顰める。


……ヒカル……

「街の、端っこの方の青い屋根の家だ」

……ヒカルってば……

「多分、今夜中に死んでしまう。急がなきゃ!」

……ヒカル!聞いてください……


今まで数度……こんな事があった。
ヒカルは、蛇に飲まれそうになっていたカエルを引っ張り出した。
狼に食べられそうになっていたウサギを助け、血がどくどくと流れるままに
この泉の前に持ってきて、その命を救えと言った。

そんな所がヒカルの愛すべき質だとサイは思うが。


……以前、ウサギを助けた時に、これで最後だと言いましたよね?
腹が減って死にそうな時に、漸く捕らえた獲物を横取りされた狼の気持ちを
考えなさいと言いましたよね?……

「……聞いたけど」

……命は、我々が軽々しく扱って良い物ではない。
一つの命を救えば、必ずあなたの知らない所で別の命が犠牲になるのです……

「じゃあ、じゃあ、どうしてサイに生き物の命を救う力があるんだよ!」

……分かりません。天に試されているのかも知れないとも思います……

「今回はぜってー違う。あの子を助けても、誰も犠牲にならない。
あの子の父親が喜ぶだけだ」

…………

「オレには親はいないけど、おまえが親代わりみたいなもんだから分かる。
あの子が死んだら、きっとあのお父さんも悲しくて死んじゃう」

……ヒカル……

「あの子とあのお父さんが死んだら、おまえのせいだぞ!どーするんだよ!」


ヒカルは、俯いて泣いているように見える。
どうせまた嘘泣きだと思いながらも、サイは心が乱れた。
もし、私に何かあったら、ヒカルも後を追ってしまう程悲しんでくれるのか……と。


……珍しいですね……あなたは、人間を嫌っていたのに……

「うん。追い掛け回してくる人間は嫌いだけど、あの子は違う」

……どうしてですか?……

「オレに向かって、笑ってくれたんだ。
自分が死に掛けてるのに、力を振り絞って」

…………


それで、サイは落ちた。
静かに掌を上げると、水の中から白く光る小さな石のような物が現れる。


……これを飲ませてあげなさい……

「サンキュ!サイ!恩に着るよ!」


石を奪い取ると、ヒカルは町に向かって飛んでいく。
サイは、小さくため息を吐いた。
あの命が、以前ヒカルが助けたカエルの命であった事
いつか伝えねばならないだろうと思った。





ヒカルが戻ると、青い屋根の家の窓はまだ開いていた。
こっそり覗いたら、父親らしき人もまだ突っ伏している。

するりと入り込んだが、子どもは今度は目を開けない。
微かに瞼が動いたところを見ると、意識はあるが、目を開ける気力が
残っていないのかも知れなかった。


「おい、」

「……」

「おい、これ飲め。治るから」


子どもの、乾いた唇は開かない。
むしろ、意図的に少し引き結んだように見えた。


「おまえ、このままだと今夜中に死ぬぞ?これ飲んだら、死なずに済むぞ」


ヒカルの言葉に、唇が力なくわななきながら微かに開いた。


「おい。何をしている?」


その時、背後から声を掛けられたかと思うと振り向く間もなく手首を掴まれた。


「っ!」


子どもの、父親だと思っていた人だった。
こうして見てみると思ったより若い。


「アキラくん、それは飲むな!」


言ったが、半分意識を失ったような子ども……アキラは、いやいやをするように
微かに首を振りながら、喉を鳴らした。


「バカな……」

「大丈夫だよ、サイがくれた命の石なんだから」

「サイ……?」


男は眉を顰めたが、その間にもアキラの顔色はどんどん良くなって来ていた。


「この子アキラっていうんだ?あんた、この子の父親なら、命を助けたいだろ?」

「オレは父親じゃない」

「そうなの?じゃあなんなんだ?」


男は、ニヤリと笑うとまだ眠っているアキラの頭を持ち上げ、その唇を
ぺろりと舐めた。


「まあ、アキラの父親につけられた、お目付け役兼教育係といった所だ。
彼はこんな見た目だからな、色んな人間や妖魔を惹き付けてしまうんだ。
その虫除けといった所だな」

「……へぇ。その虫除けが、随分色んな事教えてるみたいだな?」

「ああ。今日はオレが少し無茶をさせてしまったせいで熱を出した。
別に死ぬほどの病じゃないさ」

「……」


ヒカルは嫌悪感に思わずぶるっと震える。
この男は人間じゃない、人間だとしたら逆に怖すぎると思った。
体を固くすると、男はあっさりとヒカルの手を放す。


「心配しなくとも、おまえみたいな胸もないガキには興味ない」

「あっそ!残念だな、オレが女だって一発で見破ったのはあんただけなのにな」

「ソラ族というのは性が変わる事もあるんだろう?
五年後男に変わるか、胸が大きくなっていたら相手をしてやる」

「その時はこっちがお断りだ!」


ヒカルは大きく舌を出して、空高く舞い上がった。










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