サイレント・ファンタジー1
サイレント・ファンタジー1










夢を見ているのだろうか。



鏡に映った自分・・・塔矢アキラの胸。
何故かその辺りの皮が伸びている。
伸びた上に、中に水が入っているのか、膿でも溜まっているのか、
たぽたぽと丸く膨らんで肩の皮を引っ張るので、重くて仕方がない。

一晩寝て朝起きたらいきなりこんな事になっているなんて、何の病気だろう・・・。

しかし体調としては悪くない。
それより何より今日の対局に集中しなければならない。


緒方さんは、少しでも他のことに気を取られていて勝てる程甘くない。



取り敢えずこの胸の腫れは気にしないでおこう。
両親が旅行中で良かった。
帰ってから医者にでも見せればいい。

と、ふと思い付いて着ていく予定のワイシャツに袖通してみた。

胸のボタンが、少しきつい・・・。

力を入れたら弾けてしまいそうな、不格好な皺の出来た袷目に
倉田さんじゃあるまいし、と思ってからああすみません、失礼しました、と心の中で頭を下げる。
しかしやはりどう考えてもあまりにも不自然だ。
どうしよう・・・。

・・・そうだ!母の箪笥に晒があったな。
任侠映画で見た女博徒のようにきつく晒を巻けば、誤魔化せるだろう。

一つ問題が解決したので心も軽く、ボクは手洗いに向かった。



何となく・・・尿意もおかしいような気がしていたんだ・・・。
いつものように、あるべきものが重くなるような、蓋さえ取ればすぐに出せる、
という感じではなく、もっと奥の方がというか上の方が疼くような・・・。

何気なく男子用便器の前に立って下着の前をくつろげたボクは、
そこに当然あるべきものがないことに酷く戸惑った。

男性としての器官が、異常に萎縮している・・・というか、萎縮しすぎて
身体にめり込んでいる・・・?

今日は緒方さんとの公式戦での初対局。

ボクはめり込むほど彼を恐れているのか?
いや、恐れてなどいない。
どちらかと言えば武者ぶるいがする程だ。

ということは、この異常な萎縮も病気か・・・胸の腫れと関係あるのかな。
これではまるで・・・女性みたいじゃないか。

溜息を吐きながら、ボクは大便用の便器に移動した。
下着をどこまで下ろしていいのか分からなかったので、一応足首まで下ろした。

座って小用を足すなんて、思いがけず女性のような体験が出来てしまったな・・・。
その時のボクは、その程度にしか思っていなかったのだ。






・・・これが、タイトルホルダーの公式戦というものか・・・。


幼い頃から父を始めとしたレベルの高いプロ棋士と打てる、という
僥倖に与り続けていたボクは、自分が強い、と思っていた。
勿論並外れて恵まれた環境を無駄にしないように並み外れた努力もしてきたつもりだ。

だから・・・自分でも知らない間に自惚れていたのだろうか。
ボクは、最年少でタイトルを獲る資格があるはずだ、と。

いや、実際途中までは良かった。
この勝負は貰った、と本気で思った。


「おまえはオレより下だ。」


ああ。返す返すも、思い出しても・・・。






負けたなりにコメントを求められ、出来るだけ冷静に答えたつもりだが
よく覚えていない。
取材の人が帰って、記録係の人と一緒に廊下に出ると丁度勝者の取材も終わった所らしい。
喫煙所で、カメラマンが不遜な態度で煙草を吹かしている緒方さんに頭を下げている。

こちらに気付いたようなので軽く頭を下げると、緒方さんも手を上げた。
他の人たちが気を利かせたように「それではお先に。」と行ってしまったので
仕方なくボクは歩み寄った。


「今日は本当にありがとうございました。良い勉強になりました。」


負けた碁をいつまでも引きずらない。
反省は必要だが後悔はしない。
頭の切り換えの早さはプロ棋士に必要な絶対の条件だとボクは考えている。


「ああ、良い勉強に、な。」


ぷかぁ、と煙を吐く緒方さん。
感じが悪いな、と思ったが、無論顔には出さなかった。


「これからどうする。もう少しきちんと感想戦をするか。」

「いえ、」


そうだ・・・すっかり忘れていた。


「これからちょっと病院へ行くので。」

「病院?どこか悪いのか。」


緒方さんが眉を顰める。
そうか、ボクが今日の負けを体調不良のせいにするとでも?
見くびらないで下さい!


「いえ、体調はいいのですが、ちょっと気になる事があって。」

「どうしたんだ。」


今度は本気で気がかりなような、「兄弟子」の顔を取り戻した。


「朝から胸が腫れているんです。」

「胸?」

「ええ。原因が分からなくて。」


無表情に煙草を灰皿に押しつけ、ちょっと見せて見ろ、と立ち上がった。
無造作に胸元に伸びてくる大きな手に、少し怯えが走る。
何、なんだっていうんだ。
女の人が男に胸を触られるのとは違うんだから、怯えたり嫌がったりする必要はない。

思わず引けそうになる腰を精神力で戻し、ボクは出来るだけ平静な顔で
緒方さんが触るに任せた。

スーツの襟から忍び込んで来た手はワイシャツ越しに、晒越しに腫れた胸を撫で回す。
慎重に触ったり、軽く揉んだりして・・・立てた指の僅かな爪が乳首辺りをカリ、と
擦った時に、得も言われぬ感覚に、思わず息を呑んだ。


「おまえ、これ・・・。」


緒方さんも目を開いて、息を呑んでいる。


「女性みたいで少し恥ずかしいですね。すぐに治る病気ならいいんですが・・・。」

「その・・・下の方は、どうなんだ?」


視線が下に落ちる。


「下?」

「ああ。ええと、足の間はどうなっている?」


そこまで言うのは恥ずかしいが・・・聞かれて嘘を吐く事も出来ない。
それにこの病気に何か心当たりがあるかも知れない。


「それが、実は下も変なんです。小さくなっているというかめりこんでいるというか。」

「それは、立ったまま用が足せない程か。」


朝の光景が甦る。


「ええ。正にそんな感じです。不可能ではないかも知れませんが、
 試してみる気にならない程です。」

「アキラくん。」

「はい?」

「それは・・・病院に行くのもいいが、身体が完全に女性化している、と言うのではないか?」

「まさか!」

「いや、古い綺譚にごく稀に成人近くなってから性別が変わる者の話があったと思ったが・・・」

「平成の御代ですよ。有り得ません。」

「有り得ないからこそ、恐らく研究材料にされるだろうな。
 これは現代のオカルトだよ。医学界が、いや全世界が揺れるな。」

「バカバカしい!」


それでも何となく、不安になってきた。
今日は病院へ行くのはやめよう。
明日になったら治っているかも知れないし・・・。


「ボクは女性じゃありません。」


でも他言無用にお願いします。もう少し一人で様子を見てみますので。
頭を下げ、背を向けてからボクはうかつにも、


「ああ、進藤にも絶対に言わないで下さい。」


付け加えてしまった。後で思うと一生の不覚だった。


「進藤?」


緒方さんは胸をまさぐっている時から続いていた、何処か茫洋とした表情を引き締めて
ニヤリと笑った。

進藤にそんなに知られたくないのか・・・。

心の中で舌なめずりしているのが見えるようだったが、
まあそれを告げ口するような人物ではないので、ボクはそのまま踵を返した。





そうか・・・今ボクの身体は限りなく女性の身体に似ているのか。

考えてみれば、それで体調が悪くない以上そんなに悪い事でもない。
進藤は胸の大きな女性が好きだ・・・。


もしかしたら、彼に対する想いが強すぎて、こんな身体になってしまったのかも知れない。


尤も出来れば進藤の方が女の子になってくれたら・・・可愛いだろうな。
いや、一見も中身も今のままか。
だったらもっといい。

ボクは今のままの進藤が、好きだ。
彼の容姿も、フレンドリーな雰囲気も、勿論囲碁の才能も・・・全て愛している。
彼が女性だったら、押し倒してしまう程に。

今までこの気持ちを封印してきたのは、ひとえに彼が男であるからだ。
いくら何でも男を肉体的にどうこうしようと思うほどボクも酔狂じゃない。

・・・と、今まで思っていたが。


もしかして自分でも気付かない心の奥底で彼と繋がりたいと、強く願っていたのだろうか。


だから神さまが・・・と言っても女性っぽい身体をしていてもボクは男なんだから
どうしようもないじゃないか。
それ以前に気持ち悪がられそうでこんな事とても言えやしない。

皮肉だ。神さまじゃなくてきっと魔女だな。


『見事王子の心を射止めることが出来たなら。』


口を利くことも出来ず、それでも王子の心を射止める事が出来たなら、
永遠にそのままの姿でいられるよ、人魚姫・・・。

と言っても実際このままでは大変困るのだが、進藤にキス一つ貰えるのなら、
ずっとこの姿でもいいだなんて。

少しでも思ってしまう、ボクは恋に病んでいる。
と自分でも思う。






「とーや?」


丸い瞳が覗き込む。


「・・・え?」

「何ボーっとしてんの?」

「して、たか?」


急に至近距離にあった愛しい顔にどぎまぎしてしまう所を見ると、していたのだろう。
さり気なく周囲を見回してみたが、夕飯時も近い碁会所には客もまばらだ。


「最近おまえちょっと変だな。」

「え。どこが。」


あれ以来「女体化」は治っていない。
このいい加減肩が凝りそうな、股間が頼りないような身体を何とかしたいが、
幸いにも悪化もしそうでもないので何となく放ってある。

それに今でも何となく信じられなくて、どこか夢を見ているようなんだ。


「ん〜、何となくかわいげが出てきたというか。」

「はぁっ?どういう意味だ!」

「上手く言えねえよ!なんかこう、なんかそう思うんだから、仕方ねえじゃん!」


いつものたわいない諍い。
ボクは実はこの時間が結構好きだ。
他の人と喧嘩したら、きっとその人とは一生縁が切れる。
でも、進藤だけは、どんなに言い争ってもきっと一緒に歩いて行ける、そう信じられるんだ。

だけど、だからこそ、言わない。
自分がこんな奇病に罹っているなんて。
そんなハンディを背負っているだなんて、進藤だけには言えない。


その時、入り口のドアが開いた。


「あらぁ!緒方先生!こちらではお久しぶりですね。」


市河さんの弾んだ声。


「ああ・・・近くに来たもので少しだけ。」


続くかと思った会話は続かなかった。
そして、コツ、コツ、と近づいてくる足音。


「緒方先生、おっひさしぶり〜!」


進藤が頓狂な声を出す。
背後で止まった音に、ボクも仕方なく振り向いて、立ち上がった。


「こんにちは。先日は。」

「ああ、掛けていてくれ。」


言葉に甘えて座り直すと、肩越しに顔を近づけて


「最近、どうだ?アキラくん。」


どうだと言われても・・・と思ってから、その角度が丁度ボクの胸の辺りを
覗き込む具合になる事に気付いた。


「・・・相変わらずです。」


いささかぶっきら棒に返事しながら、何となく襟を掻き合わせる。


「そうか。お、これが今日の進藤との対局だな。」

「うん。これは負けたけど、一戦目は勝ったんですよ?」


進藤が、思わしくなかった盤面を見られたくないのか慌てて石を集める。


「丁度終わった所か・・・アキラくん、この後オレのマンションに来ないか?」

「え・・・でも。」


男が男に夜自宅に来いと誘われても、構える必要は全くない。
だが仮にもボクは今、女性に似た身体を持っていて、
しかも相手は女癖に噂のある人物となると・・・少しは警戒心が湧く。
何となく断りたい気分だったが、


「あ、オレももうそろそろ帰らねーと。今日はスキヤキなんだ〜。」


進藤の脳天気な声がそれを邪魔した。


「・・・分かりました。」





緒方さんのマンションは初めてではないが、久しぶりではある。
子どもの頃は寄せて貰ったりしたが、今では彼にも「プロ棋士」「父の弟子」として以外の
プライベートな生活もあるという事が分かっているので、近頃は自分からは訪ねていなかった。


「何がいい。飲み物。」

「あ・・・と、何でも。手間の掛からないもので。」

「ビールでいいか。」

「それは困ります。ノンアルコールでお願いします。」


緒方さんは低く笑うと、ペットボトルのお茶とグラスを持ってきた。


「久しぶりだな。こうして二人で話すのは。」

「はい・・・。」


笑顔が不気味だ。
用件があるのなら、さっさと済ませて欲しい。


「それで。ご用は何ですか?」

「無愛想だな。」


緒方さんは喉を反らせて笑うと、おもむろに立ち上がってボクの隣に座った。


「え?」

「まあオレとしても余分な手数は踏みたくない。」


驚いて身動きも出来ないままに、ソファに押し倒される。
面倒くさそうに眼鏡を外してローテーブルの上に置いた緒方さんの顔が、ボクの首に近づいてきて。


「ちょ、ちょっと待って下さい!どういう事ですか!」

「こういう事だ。」


乱暴、と言ってもいい位の勢いで無骨な手が無造作にボクの股間に触れる。
思わず喉の奥で「ひっ!」と引きつった音が出た。


「な、な、ボクは男ですよ?」

「違うだろう?」

「いくらちょっと見が変わっても男には違いありません!」

「その辺はこれからゆっくり調べるさ。」

「ボクは、」


塔矢アキラですよ?あなたの弟弟子ですよ?
・・・と言いたいが、それは
「塔矢行洋の息子ですよ。手を出してもいいんですか?」
と同義語のようで、言うに言えない・・・。
言えるものか。そんな脅すような。卑怯な。


「・・・あなたの周囲にいるような女性とは、違うでしょう。明らかに。」

「おまえがどこまでオレの交友関係を知っているというんだ。」

「知りませんが、ボクが仮に女性だとしてもあなたの好みではないとは思います。」

「好みさ。」

「嘘だ。」

「本当だ。新車だからな。」

「しん・・・。」

「処女が、好きなんだ。処女が痛がって泣きわめく様を見るのが好きなんだ。」

「・・・へ、変態!」


ぞぞうっと総毛立つ。
同性としてもおぞましいが、彼の下で泣きわめいている自分を想像すると気が遠くなりそうになる。
何を考えているんだ、大体ボクに女性としての器官なんかあるはずがない。
今はちょっと萎縮しているだけで・・・でも実は少し怖くてその奥を確かめたことはないが。


「冗談だ。痛くないようにするさ。処女からセックスに対する恐怖を取り除いて回るのが
 自分の使命だと思っている。」


・・・違う方向でも、やっぱり変態だ。
幼い頃からずっと見ていて何処か変な人だとは思っていたが、ここまでだなんて。


「珍しい物にも弱くてな・・・それにさっきも言ったように、新車は好きだ。
 中古車もこなれていて悪くはないが、真っ白な新雪を踏みしだくのはやはり楽しい。」


その足跡をボクに付けるつもりか?
バカらしい!


「あなたの趣味に口を出すつもりはありませんが、ボクはお断りします。」


きっぱり言ったのは、本気で抵抗すればそんな無体な事は出来まいと
まだ何処かで高を括っていたからだ。

だがそこで、怒った顔か口惜しそうな顔をすると思った緒方さんは顔を上げ、
ニヤリと口の端を歪めた。
息が掛かる程耳元に寄せられた口。低い囁き声。


「進藤には、知られたくないんだろう?」


・・・・・・最・低。

人の一番の弱点を、そうと分かっていて抉るなんて。
なんて、なんて男だ!


緒方さんはゆっくりと身体を起こして、ソファの反対側にもたれ掛かった。
そして。


「・・・脱げ。全部。」







−続く−





※え。リクもので続くって。



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