梅雨やすみ 1
梅雨やすみ 1








その日珍しくスマホのディスプレイに表示されたのは、緒方さんの名前だった。
緒方さんから電話を貰うのは、今年の春の棋聖戦の後以来だ。




前年、塔矢からやっとの思いで奪還した本因坊。
それを、何と去年桑原先生に奪われた。
米寿だぜ?
タイトルホルダーの史上最高齢を、また自分で更新したっていうね。
マジで妖怪かも。あのじいさん。

オレはと言えば、それ以来不調が続いていたが、今年の棋聖戦では緒方先生から
タイトルを奪った。

その後の、祝勝なんだか嫌味なんだか分からない酔っ払った電話が
ここ数年で唯一貰った緒方さんからの電話だ。



正直、また酔って絡んで来るのかな〜と思って「はい〜」ってちょっと面倒臭い声で
出てしまったんだけど。


『進藤か……アキラくんが交通事故にあった』


その一言で、息が止まった。
交通、事故って。

頭の中で、パトカーや救急車のパトライトが回る。
オレの目も回る。

……っていやいや。交通事故って言ってもピンからキリまでだろ。
実際、そんな救急車が出るような大袈裟な事故なんてものは、滅多にない。


「え……自転車で引っかけられたとか?」

『いや。ダンプの内輪差に巻き込まれた自転車の子を助けようとして、
 自分が巻き込まれた』

「う……」


『嘘だ』
その一言すら、口から出て来ない。
止まりかけていた思考が、完全に停止する。
腹の底と、手足が、一気に冷える。

夢?現実?
縁起の悪い夢を見るなぁ、オレも。

そうやって笑えば、目が覚めそうな気がしたけれど。
覚めない、これは現実だというのもどこかで分かっていた。


『双宅病院のICUに搬送された。塔矢先生は今ヨーロッパだが、
 オレはこれから奥さんと芦原を連れて行く。
 おまえはどうする?近くにいるなら拾ってやるぞ』


高い所に立たされた時みたいに、足の裏と掌ががむずむずして力が抜ける。
こういう時に、ドラマみたいに「電話を取り落とす」んだろうな、と思ったけれど
変な汗のおかげでスマホは掌にぴったりと貼り付いていた。


「いや……オレ、今日八王子の方に居るんで」

『ああそうか。謝辰さんの所だったか』

「はい。もう終わりましたけど」

『まあ……用事がなければ来ると良い。
 よく考えればおまえは門下生でもない、しな……』

「いえ。行きます」


緒方さんが何気にオレを身内扱いしてくれたのは嬉しいけれど。
それはこんな機会じゃない方が良かったに決まってる。






電車の中でももどかしくて先頭車両まで走って、ああ、意味ないやって気がついて、
双宅病院の最寄り駅の降り口はどの辺だったっけって考えながらうろうろして。

取り敢えず座って、早い電車に乗り換え出来ないかなって検索して。
このまま乗り続けるのが一番早いって分かった途端、オレは放心した。


……塔矢との付き合いは、十数年前、オレが小学校六年生、十二歳の時に遡る。
後で聞いたら塔矢の方は十一歳だったらしい。
それにしては、今思ってもマセたガキだった。

大袈裟じゃなく、こいつのせいでオレの人生は変わった。

勿論その前に佐為と出会って囲碁に会ったのも大きいけれど、
塔矢に出会わなければオレは自分で碁を打とうなんて考えてないと思う。

で、佐為に代わりに打たせて、ちょちょっとタイトルなんか取っちゃって。
凄く駄目な人間になっていたんじゃないだろうか。

そう思うと塔矢は恩人だけれど、塔矢に出会わなければ佐為を失っていなかった訳で、
その辺は長い間オレの心の中の棘として引っかかってた。
今となってはそれで良かったし、佐為もそれで喜んでくれてるだろうな、って
思えるようになったけどね。

限りない恩と、深い恨み。
生涯のライバル。

そんなこんなで十代の頃、オレの中で塔矢の存在は物凄く大きくて、
自分の存在を越える程だった。




駅を出ると、小糠雨が降り始めていた。
コンビニで傘を買う暇も惜しんで、タクシーを探す。
歩いても十分で行ける距離だけれどそんな事言ってられない。

病院の玄関を飛び込み、外来が終わって人気のない受付で叫んで
塔矢の居場所を尋ねる。

エレベータの中で足踏みをして、扉が開いた途端に走って、


「せっ……緒方、せんせ、」


ICUの前に居た数人の中に緒方先生の顔を見つけて、
まず「連絡ありがとうございました」だよな、と分かっていながらも
オレは息が上がってまともに喋る事も出来なかった。


「塔、」

「落ち着け。少し前に意識が戻った」

「そ、」


力が抜けて膝を付いてしまいそうだったが、さすがにそれは
みっともないだろうと何とか堪える。


「そうですか……良かった」


硝子張りの治療室の中を覗くと、ベッドを取り囲む沢山の医療機器。
それらに傅かれるように、頭にぐるぐる包帯とネットを巻いた塔矢が横たわっていた。
手足や体に、異常はなさそうだ。
医者が何か調べ、話している。


「……進藤棋聖ね?アキラの為に、ありがとうございます」


横から塔矢のお母さんが、丁寧に頭を下げてくれた。
久しぶりに会ったけど、この人も今思うと若いよな。
昔はおばさんって呼んでたけど。


「いえ……びっくりしちゃいましたけど、命に別状無くて良かった」


美人で上品なかーちゃん。
昔は塔矢は完全に母親似だと思っていたけれど、こうして見比べると
今は貫禄みたいなのが出て来て、むしろとーちゃん……塔矢元名人に
似てきたような。

髪が伸びて、苦み走って目が鋭くて。
今も囲碁界のプリンスって呼ばれてるけど、塔矢のとーちゃんも
若い頃は「囲碁界のプリンス」だったんだろうか。
なんてね。はははっ。

オレは塔矢が生きていた事に安心して、なんかもう、笑い出したい気分になっていた。
長い間自分の半身とも言える存在だったんだ。
塔矢が居ない世界なんて想像も付かない。


その時、ICUの扉が開いて、険しい顔をした白髪の医師が、塔矢のお母さんを
目で呼んだ。


「はい」

「あの、ちょっとお話が」

「大丈夫ですよ。ここに居るのは家族同然の近しい人ばかりです」

「そうですか」


って言って貰ってもオレは塔矢門下でも何でもない。
どちらかと言うと、この場に居て良い人間じゃない。よな?


「あの、オレ、失礼します」

「あら、来てくれたばかりなのに」

「いえ。無事な顔を見たら安心しました。
 明日またお見舞いに来て良いですか?」

「勿論、ありがとうね」


明日はちゃんとお見舞いを持って来よう。
こんな時でも一切取り乱さない塔矢のお母さんに、背筋が伸びる思いだった。





翌日はイベントの仕事でバタバタして終わった。
終わる頃、あー、雨の中病院行かなきゃ、と面倒に思ってしまってちょっと愕然とする。

いや、なんか塔矢元気そうだったしさー。
昨日の今日だから、別に行かなくても良い……って言うか、
行ったら逆にしつこいって言うか。

でもお母さんに行くって言っちゃったから、行かないとなぁ。

とか思ってしまった罪悪感を抱え、オレは水羊羹を買って昨日の病院に向かう。
ICUに行ったら誰も居なかったから、ナースステーションで聞いたら
一般病棟に移ったって事だった。

ああ、本当に大した事なかったんだ。
来なくて良かったかな−。

なんて、昨日緒方先生に電話を貰った時の喪失感を考えると、
罰当たりだけど。

折角来たんだから、調子良さそうだったら一局打って帰ろう。

そんな事を考えながら教えられた病室に向かうと、
途中の喫煙室の透明アクリルの壁の向こうから緒方さんに手招きされた。


「あ、こんにちは」

「まあちょっと来い」


えー。オレ煙草吸わないのに。
勘弁して下さいよ副流煙。


「聞いてるか」

「はい?」

「アキラくんの容態だが」

「いえ、何も。そんなに怪我はなさそうでしたけど?」

「体は良いんだが……記憶が混乱しているらしい」

「え……それって」

「俗に言う『記憶喪失』だ」

「また……っすか」


塔矢が、記憶喪失?
まあそういうのって、いつまでもそのままって事は少ないらしいから
すぐに治るとは思うけれど。

でもやっぱり心配だ。
ていうか棋力はどうなんだろう?


「どの位の期間抜けてるんですか?」

「長いぞ。色々話を聞いてみると、ほぼ十年くらいらしい」

「……」

「本人は冷静に見えるが、内心かなり混乱していると思う。
 見舞いに行くなら、その辺りを気遣ってやってくれ」

「分かりました……」


十年……十六、七歳辺りから、か。
と、考えて、愕然とする。




これまで誰にも言った事はないが、オレはその頃……塔矢と付き合っていた。
塔矢の存在が大きすぎて、思春期のオレはそれを多分、恋と勘違いしたんだ。

恐らく塔矢も同じで、その頃オレ達は、お互いが一番大事で、
お互いしか目に入ってなかった。

で、思春期だから、そりゃヤる事もやってたし、って言うか、今思えば
よく体が保ったなって思うくらい、猿みたいにヤッてた気がする。

オレはともかく、あの、塔矢も。
しかも奴はケツの穴を提供する方だったし。

あの頃の事は、オレにとってもだけど、塔矢にとってはそれ以上に
黒歴史になってるだろうな。


それからしばらくして、オレ達は二人とも冷静になって、こんな事は
まともじゃないって気がついた。
って言っても性欲が抑えられる訳も無く、ずるずると寝てはいたけれど。

でもその内、お互いタイトル戦に絡み出して忙しくなって。
塔矢には気の早い見合いの話が来たり、オレもあかりと付き合い出したりして、
何となく自然消滅して行った。

というか、はっきりと別れ話なんかして、次に会った時気不味くなるとか、
恋人同士だったって事を再確認したりするのが嫌で、逃げたんだ。
でも、そのやり方は正解だったと思う。

何となく、碁会所以外で会う約束をしなくなり、棋院でする立ち話も、
当たり障りのない内容になって行って……。

二十歳くらいの時、棋院のエレベータで二人きりになった時、


「あかりが生理が遅れてるって言うんだ……出来てたらどうしよ」


と、何気なく言うと、塔矢は


「それは……大変だな。でもある意味おめでたいね。
 責任を取るしかないだろうが、今の君なら取れるよ」


そう真顔で答えた。

その時オレは、オレ達の仲は終わったんだな、とはっきり認識した。
塔矢もそうだろう。

あかりの事は、口から出任せの嘘だった。






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