棋士・伊角慎一郎の日常 2








それから、ちょくちょくと緒方先生に呼び出されるようになった。
オレに断る術などない。
ボンネットとフェンダーの借金もあるし、何より過去をバラされるのは怖い。


族の方はOBに連絡を取ったが、オレは一人で集団を守るために
パトにつっこんで死んだか逃走中だかという話になっているらしい。


「伝説の男だぜ」


先輩は笑っていた。
そんな格好いいものではないのだが、まあこのままフェイドアウト出来るのなら
それも悪くない。

これで緒方先生に出会わなければ何もかも上手く行った訳だが
出会わなければパクられていたから贅沢は言えないか。
とにかく一難去ってまた一難、だ。

とは言え、緒方先生は無茶は言わない。
変に金や犯罪を要求されたらどうしようかと思っていたが、結局は偶に呼ばれて
碁や酒の相手をさせられるだけの事だ。
なので問題ないと言えばない。
パニクって殴り倒して逃げたりしなくて良かった。

事故の傷も何とか癒え、オレは棋士としての日常に戻っていった。




「伊角さーん!」


棋院の階段で声を掛けられ、振り向くと金色の前髪が揺れていた。
少し・・・アキラを思い出す人懐っこい笑顔。


「メシ!」

「え?」

「メシ。食いに行かねぇ?」

「ってまだ夕方だけど・・・」

「すんげー集中するとやたら腹減らねー?」


言われて腹に手を当ててみる。
確かに・・・改めて自問してみるとこの時間にしては驚くほど空腹だ。


「不思議だな・・・どうして動いていないのにこんなに腹が減るんだろう」

「さあ。頭使ったからじゃない?」


どうでもいい会話をしながら階段に向かう。
もう、幹部会の時間だの集会だのを気にしなくていい分色々と気が楽だ。


「まぁ取り敢えずさ、マックでいい?」

「おまえ、ワンパターンだな」


そして、族の神経質なまでの年功序列。はっきりとした上下関係。
そこでは年下がオレに対してタメ口をきくなんて考えられない。
が、正直オレとしてはこうやって気軽に付き合える方が有り難かった。


「・・・進藤?」


階段を降りきった所で、丁度開いたエレベーターから降りてきた人物に
声を掛けられる。
塔矢アキラだ。
例の事件以来初めて顔を合わせたので、内心少し狼狽えてしまった。

進藤が塔矢をマクドナルドに誘う。
彼がいるからと言って、行き先を変えるつもりなどないのだろう。
塔矢アキラがファーストフード・・・似合わないし、やんわり断る所を想像したが
意外にも「お邪魔でなければ」と軽く承諾した。


店内ではやはり塔矢は不慣れなようだった。
それでも進藤のアドバイスを受け、何とか注文を済ませる。
それぞれ金を払い終わって商品待ちをする時、進藤が


「オレ待ってるから先行って席取ってて。窓際の禁煙席な」


と言うので、塔矢とオレは奥に移動した。
適当な四人掛けの席に向かい合わせで座る。

そう言えば塔矢と食事(と言っていいか微妙だが)をするのは初めてだ。
同じ門下でなければつい院生仲間で寄ってしまうし。
何となく、彼がものを食べるところが想像できない。
雲の上の人…接する機会が少ないだけに、そんな印象を持ってしまっているらしい。


塔矢名人の息子である彼は、当然ながら名人の元で幼い頃から碁の英才教育を
受けてきた筈だ。
緒方先生とも沢山打ち、研鑽を重ねてきたのだろう。


「あの、・・・」

「え?ああ、悪い。こうして話すのは初めてだったね。オレは進藤の院生時代の
 友人で伊角。キミの事はよく知ってるよ」

「恐れ入ります・・・」


塔矢「アキラ」・・・緒方先生は一体何を心配していたのだろう?
この生真面目な少年がオレ達と一緒に夜の街を突っ走っていたと?
少しでも彼を知っていたら有り得ない事だと分かるだろう。
そういうオレもまあ、人のことは言えない外見だとは思うが。

とにかく、にも関わらず、あんな事故現場で咄嗟に「アキラ」という名前だけに
反応してしまう程緒方先生は彼を気に掛けているのだ。
師匠の息子なら、弟弟子なら当然・・・か。いやそうか?

人にも拠るだろうが、普通はまず自分の思い過ごしだと思うんじゃないか。
それに緒方先生というのは特にそういった、変に他人の世話を焼いたり
無駄に義理堅かったりするタイプではないように思う。
族でもあるまいし。

そこまで考え、ふと塔矢に緒方先生の事を聞いてみようかと思ったが
丁度進藤がトレイを持ってやってきた。


「待たせたな」


塔矢に微笑み掛けてからオレに向かって「ポテトがなかなか来なくってさ」と
説明する。
それから塔矢側に座るかオレの方に座るか少し迷うような様子を見せた後
オレの隣に座った。

塔矢は、窓の外を見ていた。


食事中、何を話していいか分からなかったしこの二人が普段どういった
会話をしているのか興味があったので、黙っているつもりだった。
けれど進藤がオレにばかり話しかけて来るので、結局いつも通りに
院生の噂話やお互いの近況報告になってしまう。

塔矢はついて来られなくて楽しくないのではないかと思ったが
控えめに微笑みながらオレ達の話を聞いていた。


「そうだ、この間の二次予選見たぞ」

「そうなの?ありがとー!」

「いい一戦だったけれど・・・残念だったな」

「うん、本当に」


進藤は心底悔しそうな顔をする。


「あ、塔矢の方はおめでとう、だな。次も頑張ってくれよ」

「ありがとうございます」


その一戦で進藤を打ち破ったのは、目の前の塔矢アキラだった。
彼はいつも通り隙のない・・・本心の見えない笑顔を浮かべる。
けれど嬉しいのは間違いないだろう。
この二人の対局は、お互いにとって多分とても意味のあるものだ。


「公式対局では若獅子戦以来か?因縁のライバル対決だったな」

「そんな・・・」

「うん、絶対負けられねーと思ってたのに負けちゃった」

「・・・やっぱりキミのあの妙な所でツケるクセだよ」


碁の事になって、やっと塔矢が話に入れる。
でもその意外とフレンドリーというかフランクな物言いに少し驚いた。
見たことも聞いたこともない一面だが、塔矢は進藤に対してはこうなのか?


「は?関係ねーだろ?」

「前から言っているが、ああいった局面でキミが選ぶ手は決まってるんだ。
 自分では意識してないかも知れないけど」

「るっせーな!んな事言うならオマエだって、」

「まあまあ!」


思いがけず言い争いが始まりそうだったので慌てて止める。
けれど内心、仮面の剥がれてきた塔矢アキラをもう少し見ていたい気もしていた。


「・・・二人はプライベートでも結構打ってるの?」

「あ・・・」


そこで水を向けて見たのだが、進藤の方が「しまった」という顔をする。
おや、つっこんで欲しくない所だったんだろうか。


「えっと・・・うん、まあ。でも森下先生に知られたらマズいからさ、
 和谷とかには黙っててくれる?」

「いいよ」

「塔矢は・・・・・・」


言いかけて口を噤むので、塔矢もオレも首を傾けて待ってしまう。
進藤は口を切った事を少し後悔するような表情をしたが


「・・・特別、なんだ」


やがて塔矢の方は見ず、真っ直ぐにオレの目を見つめて言った。
・・・参ったな。
なんだろう、何故か自分が女の子に告白でもされたかのように
照れくさくなってしまう。


「あの、塔矢がいなきゃ、碁を始めて・・・じゃなくて続けてなかったし、」

「そうだな。オマエは院生になった初日から塔矢アキラはオレのライバルとか
 言ってたもんな」

「だからぁ、その話は」

「そうなんですか?」


進藤は顔を顰め、塔矢は目を見開く。
そうか、院生仲間では有名な話だが、塔矢自身は知らないのかも知れない。
笑いながら頷き、そこで悪戯心が湧いた。


「だから、進藤が北斗杯に出て何とかキミのライバルと言えるような
 立場になった時にはオレも我が事のように嬉しかったんだよ」

「伊角さんやめてよ〜」

「まるで、長年の恋が成就したみたいに、」

「・・・・・・」


オレとしては本当に軽い冗談のように言ったつもりだが、二人は可哀相な程
固まってしまった。


「・・・しかも、身分違いの恋、みたいな?」


先にぎこちないながらも笑顔を取り戻した進藤が巫山戯た口調で言ったが
その声は僅かに震えているようだった。

オレは、気付かないフリをした。




そしてその日の夜も緒方先生に呼び出された。
忙しい身だろうに、オレなんかを相手に飲んで楽しいのだろうか。

もう通い慣れた道を通ってマンションのエントランスで部屋番号を押す。
無言で開けられたガラス扉を通ってエレベーターに向かう。
昼間の会話ではないけれど、まるで人目を忍ぶ愛人か何かのようだと思った。

・・・実は最初、彼がオレの身体に興味があるのではないかと疑っていた。
肌に触れられた時の何とも言えない違和感、どこがどうとは言えないのだが
どうもセクシャルな匂いがしたような気がするのだ。

それで少し警戒していたのだけれど、それ以来二人でいてもそのような気配はないし
偶に部屋に女物の香水の残り香がある。

ちゃんと女が、いるのだろう。
それで何故オレを呼びたがるのかがやはり分からない。
堂々巡りの思考の中、今日もオレはその部屋の呼び鈴を押す。


「来たか」


扉が開いて、煙草の匂いの空気が流れ出す。
おまけにだいぶ飲んでいるようだ。
一言で分かるほど呂律が回ってないし、仕草の一つ一つが
どこか投げやりだ。


「お邪魔します」


中に入ると案の定ローテーブルの上にウイスキーのボトルが乗っていた。
氷はあるが割るための水はない。
一人でロックなんて、何となく身体に悪そうな飲み方だ。


「今日はオマエと・・・そう、王座の二次予選の検討がしたくてな」

「二次予選・・・」


それならば別のタイトル戦の最終戦の方が先ではないか、と思ったが
別にオレが言うべき事でもないので言わない。


「ああ。少し面白い顔合わせがあったから・・・こっちに来い」


いつもより少し舌足らずな口調の緒方先生が誘ったのは、入ったことのない
玄関横の扉。
意外と広い部屋で、気取らないスチールラックが壁一面に設置してあり
沢山の本や碁関係の資料が入っていた。
PCデスクもあるし、ここが書斎というか彼の仕事場なのだろう。
碁関係のものは全てここに集めてあるから他の場所には見当たらない訳だ。


「これだ」


取り出された棋譜は、薄々予想していたが塔矢アキラと進藤のものだった。
昼はあの後話題を変えてしまって彼等自身とその内容について話せなかったが
確かに面白い一局だったと思う。

そうでなくとも彼等の対局は常に注目される。
同い年のライバル同士。
その対照的な個性や来歴だけではなく、拮抗した棋力と勢いは
いつも幅広い世代の棋士に刺激を与えるのだ。


「ああ、オレも見ましたよ。彼等が対局すると、お互い他の相手には見せない
 珍しい一面を見せてくれますね」

「・・・そうだな」

「正直、彼等の力には嫉妬します」

「嫉妬、か・・・。オレもだ」

「?・・・ご冗談を。棋聖があんな若手に嫉妬してるなんて言ったら嫌味ですよ」

「本当さ」

「公式戦で彼等に負けた事はないでしょう?」

「ああ・・・、ない」


言いながら、酔いが回ってきたのか緒方先生はチェアの肘掛けに
だらしなく凭れて眼鏡を持ち上げ、鼻の付け根を揉んだ。
疲れているようだ。
棋譜の検討をしたいと言っていたが気が変わったのだろうか。

ならばこちらも少し無駄話をしてみよう、といつにない事を思いついたのは
相手の酔態にオレも気が緩んでいたのかも知れない。


「・・・今日、初めて塔矢・・・アキラくんとゆっくり話をしました」

「・・・ほう」

「偶々の機会なんですが。彼は、その・・・」


とは言え、話し始めてから、昼間の印象を何と言葉にして良いか迷う。
彼の笑顔。
彼の仮面。
彼の素顔。
彼の、誇り。


「今まで、彼の碁に魅力は感じても彼自身に興味はなかったんですが」

「・・・・・・」

「彼はその・・・とても強くて、」


その精神のしなやかな美しさを、口語でどう表現していいか分からない。
・・・昼間あの後、『塔矢がいなければ今の自分はなかった』と進藤が語ったのを受けて
塔矢にも聞いてみたのだ。


『もし、塔矢名人の息子に生まれていなければ。
 今ほどの環境に恵まれていなければ、今の塔矢アキラはなかったのではないか?』


塔矢は進藤との関係から話が逸れたからかホッとしたような顔をした後
涼しい顔をしてこう答えた。


『それはないと思います』

『え?どっちが?』

『例えば北斗杯に来ていた社くんなどはご家族に碁を反対されているようですが。
 ボクならば、関係のない話だと思います』

『・・・・・・』

『例えどんな環境に生まれても。家族に理解してもらえなくても
 碁石が買えない程貧しくても、手が不自由だったとしても』

『碁を、打っていると?』

『のみならず、今の場所に居ます。どんな事をしてでも』


今の場所・・・十代でリーグ入り常連に名を連ね、北斗杯で大将を務め、か。
なんて傲慢な、人並み外れた環境を有り難く思わないのか、と普通なら憤りたくなる所だが
彼の澄み切った目を見ているときっと本気なんだろうな、と思えた。

潔い。というか凄絶というか。
族っぽく言うなら「気合いが入っている」という言葉が一番相応しいかも知れない。

彼が、元名人の息子である事を嫌がっている訳ではないだろうが
慢心していないのは確かだ。

きっと悔しいのだろう。塔矢ジュニアと言われる事が。
そして自分の棋力のなさを自分以外の何かのせいにしている連中が
歯がゆくてならないに違いない。



「・・・ほう、アキラくんがそんな事を言っていたか」

「はい。その・・・何ていうか、精神的に・・・」

「そうだな。彼は、美しい」


緒方先生はオレが躊躇って使えなかった言葉をあっさりと口にした。
酔っているからかも知れない。

それから、深く俯いて頬杖をついた。


「アキラは・・・どんどん美しくなる。これからもどんどん強くなるさ。
 オレなんか置いてな・・・」


ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかの独り言を言い・・・
やがて居眠りを始めたようだ。


最初、「アキラ」という言葉を耳にしただけでオレを助けた先生。
指に絡めた黒い髪。
女で満たされず、呼び出されるオレ。


・・・自分が塔矢アキラと似ている所が少しでもあろうとは思わなかったが
緒方先生にすれば、彼と同世代の棋士で自由に出来るのはオレだけなんだろう・・・。

塔矢アキラを抱きたいとまで思っているかどうかは分からないし
もしそうだとしても身代わりになる事なんて出来ないが。


これからはこの人に呼び出されても鬱陶しがらずに、出来るだけ早く来よう。

そう思いながら、眠る緒方先生に毛布を掛けた。
リビングに戻るとウイスキーの氷は殆ど溶け掛けていた。







−続く−








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