そして俺は途方に暮れる 前編








どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。

恋に、歳の差など関係ないというのは本当だ。
例えそれが一方通行であっても。





「・・・先生?緒方先生?」


窓の外にやっていた視線をふと戻すと、伊角が悪戯っぽい目でこちらを見ていた。
そうだ、今日は珍しくお互いまとまった時間が取れたので、自宅まで呼んで
こうして打っているというのに。


「ああ、すまない」

「いいですけど。今度から対局時計使いましょうか」

「・・・・・・」


生意気な事を言うようになったな・・・。
そう言って笑いながら髪をくしゃくしゃと掻き回したいと思ったが、
オレ達の仲でそれは少し早いような気もする。
そんな事を考えている内に機を逸し、結局オレは薄く微笑んだだけで
次の石を置いた。


ぱち。


「・・・すみません」

「何が」

「いえ」


謝るのならオレの方だろう。
折角相手が心の距離を少しでも縮めようとしたのに、それを無下にしてしまったのだ。
あの程度のやり取りなら、年下の彼の無礼さより、年上のくせに傷つけるような真似をした
オレの方が罪が重い。

けれど今更追随をするのも性に合わない。
伊角が盤面に目を戻して長考に入ったのを機に、また窓の外を眺めて
回想に戻った。





先程考えていたのは、去年の若獅子戦の事だった。
塔矢アキラ三段と、進藤ヒカル初段の戦い。

アキラは三段とは言え、あの若さでタイトルにも手を掛ける強者だ。
認めたくはないが、このオレも苦戦させられた。

だから一般的に考えれば初段の進藤など敵ではない。
けれど、この二人の勝負の行方は全く予想出来なかった。
進藤も、アキラ以上に段数と真の棋力に開きのある若者なので。

実際彼等の対局はタイトルホルダーのオレでも刮目するようなものだった。
若獅子戦とはよく言ったもの。
互いのテリトリーを巡り、激しくぶつかり牙を立て合う二頭の牡。

眩しかった。

アキラは幼い頃から知っている。
その努力も、力を付ける様も、一番近くで見てきた。

けれど進藤は・・・。

焦がれた「sai 」に近しい人物というだけではない。
子どもの囲碁大会などにも出ず、全くの無名であったというのに
突然天から舞い降りてきたような輝かしい才能。

オレはどこかで、未だに憧れているのだろうか。

平凡で何の努力もしていない少年が、偶然手に入れたステッキ一本で
魔法使いに変身する夢物語。
あるいは、超人に突然指名されて地球を救い始めるスーパーヒーロー。

・・・馬鹿馬鹿しい。

そんな事がある筈はない。
進藤とて、生来の素質とそれなりの努力の積み重ねで今の地位を手に入れたのだ。
実際、院生時代の最初、彼の成績は惨憺たるものだったと聞いている。

目の前の男から。

伊角がぱち、と音をさせて石を置いたのを聞き、オレはまた盤上に意識を戻した。





その伊角が院生になったのは、十の時だという。
物心ついた頃から祖父と打っていて、順調に置き石を減らして行った。
そして互先になった頃、院生試験を受けるように勧められ、プロというものを
意識するようになったらしい。

なるほど、と言った平凡な経歴だ。
なるほど、「おじいちゃん」に作って貰った基礎なのだろう。

実は院生の頃の伊角の棋譜も、いくつか見たことがある。
九星会の知人にコメントを求められたのだ。

強いな、と思った。
クセのない素直な棋風だ。
頑張っているな、とも思った。
しかし逆に言えば、それしか思わなかった。

小学生の時の進藤のように、大いなる未来を予測させるような面白みは
感じられなかったという事だ。

ずっと一組に居ながら、なかなかプロになれなかったというのも何となく分かる。
どこかに甘えがある。
情けがある。
何が何でも勝つ、という気合が足りない。

気の毒だがこの子は、どこかで「化け」なければプロにはなれまい。
よしんば何かの偶然でなれたとしても、そこから先は厳しかろう。

そんな事を思った。
実際口にしたかどうかは覚えていない。

とにかくオレにとっては、数いるプロ棋士を目指す子どもの一人に過ぎず
進藤が院生になるまでは名前も知らなかった程だったのだ。

それが今や。

ぱち。


「ううむ・・・」


思わず呻きが漏れる。
目を上げると、伊角も酷く真面目くさった顔でこちらを見ていた。
進藤なら、ニヤリと一つ笑って「よそ見してて勝てる程オレ甘くないよ」とでも
言いそうな所だが。
伊角はあくまでも真っ直ぐな目をしていた。





初めてちゃんと言葉を交わしたのは、プロになる少し前だったと思う。
それも進藤絡みだった。
ヤツが長い間不戦敗を続けている時に、棋院の駐車場で声を掛けて来たのだ。
そのまま車に乗せて、ずっと二人で進藤の話をしていた。

オレの方からは
進藤の連続不戦敗が始まる前、最後に対局したのは自分かも知れない、
そんな話をした。
そしてその時は、だからこんなに進藤が気になるのだと自分でも思っていたのだ。

なので伊角に関しては、同じ院生仲間とは言え熱心な事だと、
可笑しくも微笑ましく感じた位だった。

そう、オレはその時、何も分かっていなかった。
伊角の心も、己の心の闇にも。



そんなオレにカタルシスが訪れたのは、遂に気付いてしまったのは、
進藤が棋院まで行ってアキラに碁をやめないと宣言したと聞いた時。


『追ってこい』


アキラはそう返事をしたそうだ。

さぞや、満悦だっただろう。
さぞや、得意だっただろう。

それまで進藤を追っていたのこそアキラだったのだから。

オレは自分でも訝しく思う程苛々とした。
どうして、アキラを進藤に引き合わせるような事をしたのかと。
その時になってそんな事を思った。
どうして、あの時。

ホテルで手合わせした時、何故押し倒してしまわなかったのか。


そう。
オレは、いつの間にか進藤ヒカルに強く惹かれていた。


恋に、歳の差など関係ないというのは本当だ。
例えそれが一方通行であっても。

性別も関係ない。

ただ、オレは、進藤が欲しかったのだ。



ぱち。



「・・・あ」

「どうした?」

「いえ・・・」

「そればかりだな。遠慮せずに言うがいい」

「・・・今の手、少し・・・少し、進藤を思い出しました」

「・・・・・・」





初めてこの男と深く関わったのは・・・そう、大雨の夜だった。
ヘッドライトの中、白く光る千の槍。
に、貫かれるように突然現れた人影。

その虚ろな表情のせいなのか、一瞬全身血まみれに見えた。
勿論一瞬だけで、迷いなくハンドルを切ってその人物を避けたのだが
すぐにブレーキを踏んでバックしたのは、どうも見知った顔に見えたから。
まさかとは思ったが、プロ棋士が何か事件に巻き込まれてマスコミを賑わせるのは
歓迎しない。


「おい」


窓を開けると湿った夜気と、数知れない大粒の飛沫がドアの内側を濡らした。


「・・・・・・」


相手のぼんやりとした目に、みるみる内に光が戻る。
近くで見ると、やはり知った者だったらしい。
向こうも驚いたような顔をしていた。
そして反対側に駆け出して行くのを、そのまま見送ってしまおうかと思ったが
数メートル先でばしゃりと転んだのを見て、溜息を吐いて車から降りた。

傘を差し掛けると、漸くこちらを見上げた仔犬のような目。
いくつかの房に別れてぴったりと顔に貼り付いていた濡れそぼる髪。
その唇は白く震えていた。


「おい、おまえ、」


もう一度声を掛けるとアスファルトに手を突いてゆっくりと立ち上がり
そのまま肩を震わせはじめた。
もたれ掛かって来るかと思って少し身構えたが、伊角はあくまでも仁王立ちのまま
ひたすらに俯いていた。



結局そのまま放って置く訳にも行かず、車に乗せた。二度目だ。
シートに水が染むのを気にしながら、近くのビジネスホテルの駐車場に入る。
そのまま部屋を取って放り込んで帰ろうかとも思ったが、何となく気になったので
ツインルームにした。

男二人・・・しかも自分で言うのも何だが真っ当な勤め人でなさそうな中年と
真面目そうな、しかし全身濡れそぼった若者。
断られたらどうしようかと思ったが、やる気のなさそうなフロントは殆ど無関心に
キーを渡してくれた。




「・・・で?」


取り敢えずシャワールームに押し込み、腰にタオルを巻いただけの格好で
髪を拭きながら出てきた所で問い詰める。
服は一応干したが、朝になっても気持ちよくは乾いていないだろう。


「どういう訳で傘も差さずにあんな所で立ちすくんでいたんだ」

「・・・・・・」

「かなり危なかったぞ。轢き逃げされても文句は言えない」


伊角は無言でベッドに腰掛け、長い間やはり俯いていたがやがてぼそりと
口を開いた。


「・・・酔って、いました」

「ほう、そうか。ならもう醒めたな?」

「はい・・・」


この青年が、自分を失うほど酒をあおったというのはとても似合わない気がした。
同時に、恐ろしく想像がつく光景でもある。
何かあったのだろう。
酒で全て忘れる・・・そんな事が可能かどうか、試したくなるような事が。

けれど経験上分かるが、それは絶対に無理な話だ。
彼も今、嫌と言うほどそれを思い知っているだろう。

いずれにせよ、オレには関係のない話だ。

そう、思ったのに。


「・・・失恋したんです」


急に言われて、煙草を落としそうになる。

そんな、プライベートな女々しい話をされても困る。
聞いて慰めて欲しいのなら家に帰ってママに甘えるがいい。

と、言いたかったのに言えなかったのは、彼に関心があったからではない。
・・・突然自分の境遇を、言い当てられたような気がしたから。


「それも、男に」

「・・・・・・」

「黙っているのがどうしても耐えられなくなって・・・好きだと言いました」

「・・・・・・」

「彼は、彼は・・・とても申し訳なさそうな顔をして。そして、他に好きな人がいるから
 オレの気持ちに応えることは出来ないと」

「・・・・・・」


ああ・・・・・・。
コイツは、オレだ。
若い頃のオレ。
愚かだった頃の緒方精次。

今なら、安易に告白なんかしない。
特に叶う見込みのない恋ならば。
自分を制御してみせる。

けれど、次に伊角の口から出たのは、予想外の言葉だった。


「しかも、その相手も男、だ、そうです・・・」


瞬間、オレの知る限りの伊角の人間関係が一気に浮かぶ。
そして彼等のそのまた近しい者たち・・・。

いや実際、二階層目まで浮かんだのは、一組だけだったのだ。


「彼がノーマルだと・・・性癖が合わないから叶わないのだと、思えれば
 まだ救われるのに・・・」


伊角はまだ、俯いたままぼそぼそと呟いていた。
相手の正直さが、誠実さが、悲しいと。

その相手の、翳りのない円い瞳が目に浮かぶようだ。

・・・恐らくオレ達は同じ人間に失恋をしている。
彼はそれを口に出して。
オレはおくびにも出さず。

殆ど両膝の間に沈み込みそうな程頭を垂れた伊角は泣きそうに見えた。
まるでそれはオレの心象風景。
泣かなければいいのに、そう思った。

だから、その顔を持ち上げて口付けをした。






−続く−






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