無鬼論 2 【塔矢アキラ】 「来月なんだけどさ、」 いつもの如く碁会所で、進藤が唐突に口を切った。 つい先日の本因坊リーグの検討がほぼ終わった頃だ。 これは絶対に落とせない一局だと、思っていたが負けた。 でも悔いはない。 ただ強い、と思う。 進藤は強くなった。 そのスピードがボクの予想を上回ったのだ。 また負けたくない、と思う。 次は負けない。負けられない。 「来月?」 「もう棋院に予定言った?」 「いや、まだだが」 「んじゃ二週目の週末空けられる?出来れば金曜から」 「不可能ではないと思うけど」 「んじゃ空けとけよな」 「は?何故キミにそんな事を言われなければならないんだ!」 「いいじゃん。オレ、後二回勝ったら本因坊だぜ?お祝いお祝い」 「何を……!」 通常のリーグ戦ならともかく、自分が負けた一戦の事で威張られるのは 腹が立つ。 こういう所が。小学生時代と変わっていないというか、他人の気持ちを 慮んばからない、彼の子どもっぽい欠点だ。 「馬鹿らしい!二週目は仕事を入れる」 「何だよ!二週目『は』って。さっき不可能じゃないって言ったじゃんか!」 「たった今不可能になったね。ボクが仕事をしたくなったんだから」 「うわ。サイテー!サイテー!ヒトが頼んでんのにわざわざ仕事入れるのかよ!」 「それが他人にものを頼む態度か!」 「あーそう!頼み方で決めるわけ?何様なわけ?」 「何様?その言葉、そっくり返す!」 「何、オレが『二週目空けて下さいお願いします』とでも言えば空けるのかよ!」 「ああ言ってみろよ」 「やーだね!誰が!」 結局そのまま進藤は、「帰る!」と喚いて帰ってしまった。 いつもの事だが、しばらくは胸のムカムカが取れない。 自分が悪いのか、彼が悪いのか、もう一度最初から会話を反芻してみる。 客観的に考えても、ボクも悪いがどう考えても彼の方が子どもっぽかった。 けれど自分にも非がないと言えない所がまた気持ちを波立たせる。 ボクにあんな不条理な発言をさせた進藤に、また腹が立った。 「もう、進藤くんてば……」 市河さんがボクの気持ちを代弁してくれた。 つもりだろうが、ぬるくて余計に苛々としてしまう。 「市河さん、ゴメン、ボクも帰るよ」 「あら、そうなの?」 可も不可もない笑顔を浮かべて荷物を受け取る。 大人の人相手ならこうやって、簡単に気持ちを切り替えて笑うことも出来るのに。 何故彼に対する時だけあんなに、考えるより先に口が動いてしまうんだろう。 家に戻ってお風呂に入り、寝る前にPCを起動させるとその進藤の携帯から メールが入っていた。 金曜日の朝十時、二泊出来る用意をして銀の鈴の前に来い。 誰が……! ボクは見なかった事にしてメールボックスを閉じ、するつもりだった棋譜の整理も やめて、電源を落とした。 けれど棋院で予定を言う時、思わず二週目の金曜日から三日間、 休みを取ってしまった。 勿論進藤に(二泊という事は旅行だろうか)付き合うとは決めていないし、 かと言って他に予定もないのだが、早い時点で選択肢を減らすのは気が咎めた。 今後先方から謝ってきてちゃんと頼んでくるという可能性も皆無ではないし。 なのに。 「あ、進藤三段と何か予定があるんですか?」 「え?どうしてですか?」 「昨日進藤さんが来たんですよ。同じ日に休みを取って、塔矢さんもこの日 休みだと言っていたから」 「は…いえ、」 曖昧に答えながら、心の中で歯がみする。 どこまで図々しいんだキミは! また、その思惑通りに休みを取ってしまう自分も迂闊だ。 例え進藤がこの場にいなくとも、「あれ?進藤三段と予定があるのでは?」と 事務局の人に言わせたかった。 こうなったら絶対に行くものか! それからは棋院で進藤に会っても目を合わせなかった。 進藤は最初は戸惑っていたようだが、二回三回と重なるにつれ向こうも 怒ったように殊更に無視をしてくる。 こんな事は始めてではないが、また「塔矢七段と進藤三段の不仲」と 噂が広まった。 棋院で話さなくてボクから連絡をしなければ碁会所での待ち合わせも 成立しないわけだが、以前はどうやって仲直りしたのか覚えていない。 いや、結局仲直りなどしなかったのか。 お互い何度か碁会所に足を運び、偶然出会った時に何事も無かったかのように 打ち始めたのか。 とは言え、いつまでもこんな事はしていられないのは分かっている。 ボクは彼を、彼はボクを求めずにはいられない。 打たずにはいられない。 けれど自分から謝りたくなどない。 もうケンカの原因などよく覚えていないし。 そんな苦しい狭間にボク達はいたが、今回は自分の方が優勢だという確信があった。 来週の週末、進藤はボクをどこかへ連れて行きたがっている。 恐らくそれは日帰りではなく少し大掛かりな事で、二人とももう休みを取ってしまっていて。 今回を逃したら、当分機会はないだろう。 だからボクは進藤の方からコンタクトを取ってくると読んでいた。 一番腹が立つのが、このままボクを無視して別のプライベートな友だちと その旅行に行ってしまうというパターンだが。 そうなったら長期戦になるな。 ……って。 何故ボクがこんなに気を揉まなくてはならないんだ! 馬鹿馬鹿しい! 「……え?どなたと?」 「あの、森下門下で進藤と言って、」 翌週、夕食の席でボクは、週末に友人と旅行に行っていいかと 両親に尋ねていた。 ボクがそんな事を言うのは初めてだったので驚いていたようだが 父は進藤の名前を聞いて何か得心したような顔をしていた。 「確かアキラさんと同い年だったかしら」 「うん」 「子ども同士で二泊も……どなたかお弟子さんで体の空いている方に 着いて頂く訳には行かないの?」 十七歳と言えば世間では高校生。 まだまだ親の臑をかじり、自立心も責任感も足りない年頃だろう。 そうでなくとも親からすれば子どもはいつまでも子どもなのだと、 話には聞いている。 「大丈夫だよ。二人とも何度も地方出張にも行っているんだし」 「そう……それで、行き先は?」 「え、と、それは……」 聞いていない。 口ごもると、横から父が助け船を出してくれた。 「まあ、二人とも私たちが思う程子どもではないだろう」 「でも……」 「それに自分たちが思うほど大人でもないと、少なくともアキラは分かっているな?」 「はい……」 手厳しく釘を差され、それでも母の追求を逃れることが出来て ボクはホッとした。 部屋に戻ってPCを立ち上げる。 夕飯前に見たメールボックスをもう一度開き、読んだメールを読み返す。 今週金曜日の朝十時、銀の鈴の前だぞ。忘れるなよ。 結局あれ以降、進藤からのコンタクトはこのメール一通だった。 もう三週間も口一つ聞いていないのに、ごめんの「ご」の字もない。 けれどボクもいつまでも頭に血を昇らせてもいられなくて。 一つ苦笑した。 【進藤ヒカル】 全っ然レスがないからさぁ、来るかどうか心配だった。 塔矢なら、こっちが来いって言ってる以上、無断で来ないよりも無言で来る方が ありそうだと思ってたけどさ。 それでも大きなカバンを抱えた黒いシャツが見えた時には思わず息を吐いた。 そのまま笑い掛けて「よっ」とでも言おうかと思ったけど、アイツが無表情なんで 何となくやめた。 ここまで来といてまだ怒ってんのかよ。 意地っ張りなヤツ。 そのまま背中を向けて、券売窓口に向かう。 どうしようか迷ったけど、自分から塔矢に声を掛けて行き先を言うのも 何か嫌で、オレが福山まで2人分の乗車券とのぞみ切符を買った。 無言で手渡すと、「福山?」と呟いて眉を顰める。 やった!先にしゃべらせた。 「ああ。いい所だぜ」 「広島、だよな?」 「そう」 「そんな遠くへ、言ってくれればもう少し、」 「だから泊まりの用意して来いって言ったじゃん。あ、向こうの宿はオレの奢りだけど 新幹線は自分で出せよな」 「そんな事、言われなくても分かってる!」 それをきっかけに、それまで長い間話してなかったのが嘘みたいに オレ達は普通にしゃべった。 まあ、長い旅の間ずっと黙ってられても困るしな。 今回の旅で……オレは塔矢を因島に連れて行こうと思う。 オレにとっては丁度三年ぶり。 前回の事を思い出すと、未だに少し胸がちくちくする。 油断をすると泣きそうになってしまうと思う。 けれど、何とか持ちこたえられる位に、懐かしく思える位にはなった。 そんな時に、塔矢に勝ったんだ。 公式戦で初めて。 しかも本因坊リーグ。 終わった後、久しぶりに振り向いちゃったじゃんかよ。 どうだった?って聞きたくて。 すごいだろオレって言いたくて。 ……でもそこには佐為はいなくてさ。 オレは、因島まで報告に行こうと思った。 塔矢に勝ったよ。 名実共にライバルになったよ。 塔矢に追いかけられてるのは、おまえじゃない、オレだって。 今なら胸を張って言えるよ。 んで、どういう訳か……その時、隣に塔矢がいたらいいなって思っちゃったんだ。 自分でもよく分からない。 あの旅路を一人で辿るのは淋しすぎるけれど一緒に行くなら塔矢しかいない、 そう思った。 「もうそろそろ聞いてもいいか?」 「何を?」 「福山に一体何があるんだ?そもそも何故ボクを?」 「それは、えっと」 因島に行きたくて。 秀策に会いたくて。 そう言ってしまうのが何だか少し惜しかった。 それに確かに、親友という訳でもないし、いきなり旅行に誘うような仲じゃない。 喩えて言うなら、毎日会うけどよく話した事もないクラスメイトをいきなり 映画か何かに誘ったようなもんだ。 男女ならデートの誘いかとか思うだろうけど、男同士なら不審で仕方ないだろう。 そう考えるとよく来てくれたなぁ。 「おまえじゃなきゃ意味がないんだ。まあ、行き先はお楽しみって事にしといてくんない?」 「……」 塔矢は何故かはにかんだような顔をした後、窓の外に目を向けた。 車内販売の弁当を食って、福山に着いた時にはもう日は傾きかけていた。 そのまま在来線に乗って尾道に向かう。 出来れば今日因島に行きたかったけど、明日の方がゆっくり出来るかな。 どちらにしろ今日は尾道泊だし。 予約して置いた海の近くの宿に荷物を置き、取り敢えず辺りをぶらっとする。 塔矢は福山の駅で観光マップというかリーフレットを貰って来てたけど オレは特に観光をする気はなかった。 港に行く。 町のすぐ側にある、フェリー乗り場。 とても、とても久しぶりに嗅いだ潮の香り。 「あれが向島。これ、瀬戸内海なんだぜ」 「何だか不思議だな」 確かに、対岸がすぐそこに見えるから川にも見える。 けれどそれは大きくても島で、まぎれもなく海の向こうだ。 オレも最初来た時驚いても良かったんだけど、あん時はそれどころじゃなかった。 横で河合さんが色々言ってた気がするけど景色なんか目に入ってなかったし。 ただこの夕暮れの色は記憶に焼き付いていた。 オレンジ色に染まる島。 オレンジ色に染まる海。 佐為が本当に消えちゃったなんて信じられないけれど不安で不安で、 腹が立つやら情けないやら怖いやら、ああ、あの時の気持ちが甦る。 そう言えばあれ以来夕方ってちょっと苦手になったな。 「……きれいだな」 その時、隣から声がした。 塔矢……。 東京。が、そこに居る。 そんな気がした。 見ると、塔矢の髪も頬もシャツも、オレンジに光っている。 夕焼けってキレイだな、と、その時心底思えた。 それだけで塔矢を連れてきて良かったと思った。 その夜、晩メシの後打ったんだけど結構久々かも。 塔矢の減らず口が懐かしい。 「けどこん時はここの石を狙われてると思ったから、でも結局は無理なんだけど、」 「結果的にはなかったんなら余計な説明はしなくていい」 「いやでも!」 「補助線は少ない方がベターだろう。それともキミはこれに気が付いた あれに気が付いたと、いちいち報告してボクに誉めて欲しいのか」 「なんだと!」 こいつ、いつもこんなんだったら指導碁の依頼なくなるぞ。 とは言え、実はこんな鋭い言い方をするのはオレに対してだけだってのは知ってる。 それだけオレには手加減が必要ないと思ってくれてる証拠だとも思うし 気を許してくれてもいるんだろうけど、もうちょい言い方があるだろってんだ。 「風呂行ってくる!」 いつもみたいに帰る訳には行かないから、ガタッと立ち上がって 箪笥の中から浴衣を取り出す。 「おい、片付けてから行けよ!」 怒鳴る声を後ろに聞きながら、オレはバタンと扉を閉めた。 翌日、朝から二人でフェリー乗り場に行った。 「……昨日来たのは時刻表を見る為じゃなかったのか」 「おまえだって気がつかなかっただろ!」 「ボクはキミがフェリーに乗るつもりだなんて知らなかった!」 前回はバスだったから、今回は船で行こうと思ったんだけど 丁度出たすぐ後だったらしい。いきなり一時間待ちかよ……。 東京の公共交通機関では有り得ないこの待ち時間に呆然としてしまったけど 何故かこの場所なら、アリかと思えてしまう。 晴れ渡った広い空。青い海と緑の島。 板張りのデッキでタップダンスの真似事をしたり、何を話すでもなく 港を歩き回ったりしている間に、エンジン音が聞こえてきて船がやってきて。 乗り込んで十分位してから少ないお客さんを乗せて発進した。 途中、別の島に寄っても三十分掛からずに船は因島の到着する。 塔矢はやっと腑に落ちた顔をした。 「本因坊秀策?」 「うん」 で、港でタクシーでも拾えばいいと思ってたんだけど……。 いねぇ! 同じ船から降りたお客さんが徒歩や自家用車で去ると港はがらーんとした。 仕方なく待合所に行くと、壁に色褪せた地図が貼ってある。 秀策記念館は歩いて行ける距離じゃなさそうで、困ったけれど 観光タクシーの電話番号も書いてあったのはラッキーだ。 「進藤……」 塔矢が後ろで険しい顔をしているのは想像が付く。 「なんて計画性のない!」とか怒鳴りたい所なんだろう。 だからオレは聞こえなかった振りをして携帯を開いた。 タクシーのおっちゃんに水軍城を勧められながらも後でとか何とか言いながら 秀策記念館のある石切神社に到着。 宮司さんは塔矢の顔は知ってたみたいだった。 オレも一応棋士だって言ったんだけど、あまりプロの世界には詳しくないみたい。 「おまえは初めて?」 「うん。キミは来た事があるのか?」 「ああ、もう三年も前だけど」 「……」 記念館と言いつつ普通の、でもどこか懐かしいお宅の応接間、と言った雰囲気の 展示室に入る。 ああ、変わってない……。 あん時は見学どころじゃなかったから全然覚えてねえやと思ってたけど 実際来てみると確かに記憶に残ってる場所だった。 匂いに、とても覚えがある。 「……茶道も嗜まれたんだね……この碁盤で、秀策が……」 あの時は。 プロになったばかりで。 塔矢との初対局もまだだった。 こんな風に、一緒に旅行が出来るような仲になるだなんて 思ってもみなかった。 「一柳先生もいらしたんだ。芳名帳に名前がある。 あ、そうか、本因坊戦の見学にいらしてたから……」 佐為。 あれから、三年も経ったんだよ。 佐為。 「……進藤?」 「うん?」 石の碁盤の上に乗った秀策碑を見てから、せっかくなんで水軍城まで歩く事にする。 歩いて歩けない距離じゃない。 「天気がいいと気持ちがいいな」 「うん、久しぶりにこんなに美味しい空気を吸った気がする」 空が、青い。青くて広い。 「そう言えばキミ、秀策のお墓の前に随分長くいたね」 「うん」 「いくら神社とは言え、秀策は神様じゃないんだからお願い事をされても 困ると思うよ」 「んなんじゃねーよ」 笑いながら、思い出す。 墓の前で手を合わせながら、オレは佐為の姿を、笑顔を 一心に思い浮かべながら塔矢との事を報告していた。 そしてきっと、本因坊を獲ると。 誓ったんだ。 佐為に。秀策の墓に。この因島の青い空と海に。 「……おまえさ、幽霊って信じる?」 不意に。 口から出た言葉に自分で驚いた。 オレ、何言ってんだろ? 「真っ昼間から怪談か?」 「いやそんなんじゃなくて」 「キミはどうなんだ。信じているのか?」 「うん……信じてる、っていうか、いるよ、幽霊は」 塔矢は少し探るような顔でオレを見た後、笑った。 「ボクは信じない」 「……んだよ、またケンカ売ってる?」 「またって何だ。…いや、そう言えば思い出した事がある。『無鬼論』って知ってる?」 「むき…?」 −続く− |
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