無鬼論 3








【塔矢アキラ】




この話を教えてくれたのは中学の古典の先生だったか、それとも
指導碁先のご老人だったか。

中国では幽霊・亡霊の事を「鬼」と言うらしい。

古来、それを否定する唯物論を総称して「無鬼論」と言うが、そういうものが
あるという事は、同じく肯定する「有鬼論」とでも言うべきものも
脈絡とあるのだろう。


と、進藤に言うと、分かったような分からないような顔をしていた。


「だから、他人の『ロン』はいんだよ。おまえ自身がどうかって話」

「うん……実際に見たことはないからね。いるとも言えないけれど
 いないとも言えない。けれどキミがいると言うならここは『いない』と
 言っておいた方がいいような気がして」


進藤が笑いながら叩く真似をするので、ボクも笑いながら逃げる。
空の高いところで小鳥が鳴いていた。

そうか。
囲碁に関係ない事なら、ボク達もこうやって巫山戯合う事が出来るんだ。
多少の意見の食い違いも冗談にして流せる。
お互いいつも真剣すぎるんだな……いや碁に対して真面目なのは悪い事ではないが。

とは言え、幽霊の存在はやはり信じてはいない。
けれどムキになって主張する程の事でもない。
進藤がいると言うのなら、言わせておいて何の支障もなかった。


「それに、一人が幽霊がいるというのならもう一人はいないと言い張って
 論争をするのが相場だよ」

「何だよその相場って」

「そういう話があるんだ。怖い話なんだけど、昔中国に『阮膽(げんせん)』という
 無鬼論者がいてね」

「無鬼論者?幽霊はいないって言い張ってるヤツ?」

「うん」

「ソイツがどうしたの?」

「……ある日その人の元に尋ねて来た客とその事について議論した」

「うん、」

「で、論争の末やはり幽霊はいないと言い負かして……」

「それで?」

「……いや、やっぱり面白くないな、この話は」

「何だよそれー。面白くなさそうなのに聞いてやってんのにー」


確かに面白くない。
……阮膽に論破された客は怒り、『論争ではおまえが勝ったかも知れないが
鬼はいるのだ』と言い様に、異形の者に形を変えて消え失せてしまったのだ。
それから程なく阮膽は病気になり、死んでしまった。

つまり結局は無鬼論者が負けたという事になる。
物語としては面白いが、自分が無鬼論に立っている今持ち出したい話ではなかった。


「……でも、幽霊はいるんだよ」


前を行く進藤が、振り向かずに言う。
相変わらず空は青く、陽光が降り注いで暑いくらいだ。
進藤も歩いているような軽いスキップが混じっているような、戯けた足取りで
どんどん進んでいく。


「……いるもんか」


それでも、怖かった。
錆びたガードレールを軽快に弾いていく指先が。
不意に透けて消えはしないかと。

進藤は、本当は阮膽の無鬼論の結末を知っているのではないか。
だから脅かしているのではないか。
そう思いたかった。

そうでなければ、振り向いた進藤の顔が異形に変わっていそうで……。
いや、そんな事は問題ではない。
本当に怖いのは、
進藤が消えてしまう事だ。

『だってオレが幽霊だもん』

言って、そのまま消えてしまったら、ボクは一体どうすればいいんだ?



「進藤!」


慌ててその腕を掴むと、


「いてっ!」


いつもの顔で振り向いた。


「何だよ、いてーっつの!」

「幽霊なんか、いないよ」

「んだよ!さっきはいるともいないとも言えないって言ってたじゃん」

「言わないけれど……やはりいないものはいないよ」


彼ならすぐに言い返して来ると思ったのに、何故かそこで黙り込んで
奇妙な表情をした。
それは、何というか、笑いそうな、でも弱り果てているような、
けれど無表情と言えば無表情な。


「……腹減ったな」

「え?」

「いや、さっきから食い物屋さん探してんだけど、なさそうじゃん?
 あのスーパーで弁当でも買って、景色のいい所で座って食べようぜ」


進藤が反論もせず、捨てぜりふも残さず、自分から話題を変える事は珍しい。
何となくこのまま終わらせるつもりはないのかな、と思ったが
果たしてその予想は当たっていた。





「……さっきの幽霊の話な」


緑の山を見渡す斜面に座りこみ、お総菜を広げていた。
海は全く見えないが、風向きによっては時折潮の香りがかすめる。
ピクニックみたいだな、なんてはしゃいでいた進藤が
あらかた食べ終わった所で口を切った。


「うん」

「オレはいるって知ってるからいるって言ってんだ」

「うん……」

「そんで、それはおまえも知ってるハズなんだ」

「?」

「怖い話じゃない。ちょっと長くなるけど、オレの幽霊話聞いてくれる?」


意地を張っているのではない。
単に、幽霊がいると言い張りたい訳ではないのだと分かった。
もっと他の……。


「いやだ」

「……え?」

「聞きたくない」

「な、何だよ」

「もう昼を回ったぞ。早く水軍城に行かないと。見学にどれくらい時間が掛かるか
 分からないんだから、帰れなくなったら大変だ」


それは嘘で、実際船は夜の九時を過ぎてもあるのだから
どんなに時間が掛かっても乗り損ねる事はないだろう。
また最悪乗れなくても、島の中にも本因坊戦に使われたホテルもあるし。


「大丈夫だっての。ちょっとは聞けよ!」

「いやだ、どうせ、」


どうせ。


「『sai 』は幽霊だった、なんて言うんだろう」

「え!」


進藤の様子やボクも知っている筈だなどという言い草から
何となくカマを掛けてみただけだが見事に当たっていたらしい。
顎が外れそうに口を開けていた。

それを見て、ボクはこんな場面で「sai 」を出してしまった事を後悔した。
その人の名は、こんなに軽々しく口にすべきものではない。
幽霊がいるだのいないだの、そんな馬鹿馬鹿しい論争のついでに出して良い
名ではない。


「なら聞きたくない」

「おまえがsai の秘密を教えろって言ってたんじゃん!」

「ボクは本当の、現実的な話を聞きたいんだ!
 そんな幽霊だの何だの、世迷い言はごめんだ」

「世迷い言って何だよ!本当の現実の話なんだから仕方ねーじゃん!」

「話すならもう少し信憑性のある話を作ってからにしろ!」

「うわ、何それ。もうぜってー、ぜってー、言わねーからな。
 一生sai の話なんかしてやんないからな!」


それからボク達は無言でずんずんと進み、無言で水軍城に到着した。
復刻されたのか、天守閣はなかなか立派だったし展示されていた資料も
興味深かったが、どこか、心の底からは楽しめなかった。




帰りは船に乗らず、バスで本土まで帰ったがそれでもホテルに到着したのは
夕食に丁度良い時間だった。


「……たっひゃ〜!神社と城しか行ってねーのに何か疲れたな」

「うん、やはりあの徒歩が結構きつかったのかも」

「でも景色は良かったじゃん?」

「ああ。久しぶりに運動不足が解消できたし、良かったよ」


いつの間にか何気なく、普通に話すようになってはいたが
お互いに無鬼論の話題は注意深く避けていた。
こうしている内に『sai 』の話までしづらくなると将来困るのだが。


「よっしゃ。メシ食った後、一局打つか」

「ああ」


そうは言っても、こうして進藤と打てるのだから。
だから贅沢は言うまい。

一局打てば、心が溶け合う。
そんな相手がいる事を、本当にありがたいと思う。



「オレ黒だな。お願いします」

「お願いします」


ぱち。


進藤が頭を下げて、17の四に打つ。
昼間見た、秀策が使っていたという碁石が浮かんだ。


ぱち。


4の四。
やはりあの石に、触れてみたかったな……。
お願いしたら触らせてくれただろうか。


16の十六。
…それにしても、いつにも増して進藤が早く打って来るような気がするが。


4の十六。
何か狙いがあるのだろうかと思いながらも、こちらも反射的に打つ。


6の三。
何を急いでいるんだ?今更ボクを揺さぶろうと?


15の四。
13の三。
やはり早い。けれど、こちらにプレッシャーを与えるような激しい打ち方ではない。
どちらかというと……そう、暗記している他人の棋譜を並べているような……。


17の三。
3の六。
バカな、序盤なのだからあまり考えても仕方がないと、


6の四。
7の四。
いや、これは……。


6の五。


ぴたりとつけたが、しかしそこで、進藤の手が止まった。
?これまでノータイムだったのに、いきなりおかしな所で考え込んでいるな。


顔を上げると進藤は、瞬きもせずに盤面を見つめていた。


「どうかした?」

「……幽霊、」

「……」

「だけじゃなくて、不思議な事って、世の中にはあるんだな……」

「……」


ぱち。
5の三。


どこかこの世ならぬ、彼岸を見ているような目で変哲のない盤上を見つめる。
昼間ふと、消えそうに見えた時の事を思いだしてまた背筋がぞくりとする。


「進藤?」

「……」

「進藤!」


彼は驚いたように顔を上げ、ボクを見た。
その顔はいつもの進藤だ。
けれど。


「……オレさ、この棋譜、知ってる」

「?」

「前にお互い全く同じ手筋で打った事がある」

「ああ、それは既視感だろう。ボクもよくあるよ。夢の中で見たような、とか」

「じゃなくて。いつ、誰と打ったかもはっきり覚えてる」

「大体同じってだけじゃないのか?」

「全く同じだよ」

「なら偶然だろう。不思議がるのはもう少し進んでからでいいんじゃないか?」


最初の方の手など、決まっているようなものだ。
全くとは言わなくても似たような盤面になる事はよくある。
稀には十数手まで重なる事もあるだろう。


「いや……よりによって今日、おまえと、こんな対局をするなんて」

「……」

「あの、昼間は嫌がられたけど、やっぱり聞いてくれ」

「幽霊の、話か?」

「ああ。佐為が、」

「……」

「佐為が、きっと聞いて欲しがってるんだよ」




それから進藤は、この棋譜は大切な友人と最後に打ち掛けになってしまったのと
同じなのだと言った。

消えた友人を探して家中を、棋院を探し回り、そしてこの尾道、因島まで……。

なるほど、前回来たのはその時なのかと色々納得行く事もあったし
説明不足で状況がよく分からない所もあったが。



進藤は淡々と、十二歳の時から幽霊に碁を指導してもらっていたと、
その幽霊は本因坊秀策にも取り憑いていたのだと、語った。




「でさ、塔矢先生には勝手にハンディつけてたんだって見破られちゃって!」

「門脇さんって知ってる?そう、あの人も佐為と打ってんだよなー。
 後でオレが打った時、前の方が強かったって言われて焦っちゃった」

「佐為はな、」

「佐為はな、」


最初はボクとの関わりや碁の話を中心にするように心懸けていたようだが
滑らかになった舌はやがて、その平安時代の人の仕草や日常生活、
何に驚き、何に喜んでいたか、そんな話になっていった。

……ボクは、始めはよく出来た話だと思った。
上手く現実と辻褄が合う。
最初に進藤に感じた、恐ろしいほどの壁。
本因坊秀策の幽霊と思えばさもありなん、だ。

とは言え、真実とは違うに違いない。
そんなに鮮やかに碁を打つ幽霊など信じられない。
そうも思う。

けれど。

……他の可能性が、何一つ思い付かない。
超常的な要素を排除すると、ネット碁だの父との対局だのはともかく
あの最初の進藤の碁は、どう考えても説明がつかないのだ……。


「佐為は」


ボクが言葉を失っていると、不意に進藤の声が湿った。


「きっと、オレとおまえを出会わせる為に、現れたんだ……」




……ボクは、ずっと考えていた。

何故キミはボクの前に現れたのだろうと。
何故ボクはキミを追い、
何故キミはボクを追うのだろうと。


sai 。

佐為。

今はいないというそのひと。



進藤はそれきり黙り込み、はらはらと涙を零していた。
静かに静かに泣いている。

少なくとも彼の中では真実なのに、違いない。
けれど今のボクにはまだ到底受容など出来ない、
いきなり突きつけられた「佐為」という名の尖った凶器。

……。

…けれど自分が、きっとそれを受け入れていくであろうという予感はあった。



少しづつ、少しづつ、血を流しながらも体に深く突き刺さり、
それはきっといつかボクの中でも現実となる。

進藤の中に流れる佐為の血がボクの中にも脈打つようになり、


そしてボク達は、神の一手を極める。






俯いている進藤に、何かしてやれる事はないかと思った。

タオルを持ってきてやろうか。
いや、ティッシュの箱を差し出してやろうか、お茶を入れてあげようか。

考え、考えた末、やはりボクは


ぱち。


白石を打った。





その一局は大切に大切に、打った。
結局明け方までかかり、ボクが中押しで勝ったが、進藤も満足そうだった。







「……っ進藤!」

「ふぁ、おは、へ、へ?何?」

「キミは!ひとの上に足を乗せて寝るな!」

「あ、ご、ごめ、」

「というか目覚まし位かけておけ!朝食の時間が過ぎてしまったじゃないか!」

「……え?うっわ!ホントだ!しまったー!」

「もうすぐチェックアウトだぞ、どうするんだ!」

「ってんな事言ったって!そういうなら自分がかけときゃいいじゃん!」

「ボクは携帯を持っていないし目覚まし時計を持ち歩く趣味もな、」


くしゅん!


盛大にくしゃみをしてしまって、慌ててティッシュを取りに行く。
そうだ、しかも昨夜は進藤が自分の布団を蹴ってボクの布団を取りに来たので
引っ張り合いになっていたのを朧気に思い出した。

風邪をひいたらキミのせいだぞ!


「えっと、オレ、取り敢えずひとっ風呂、」

「そんな暇あるかー!バカもの!」

「バ……」




とは言え何とか今日の昼過ぎには東京に着けるだろう。
早く、怒鳴ったりせずに済む閑静な自宅でくつろぎたいものだが。

きっと。


この旅行が終わっても、ボク達の旅は終わらない。







−了−






※24万打踏んで下さいました白玉さんに捧げますキリリク小説。
リクエスト内容は以下です。



「原作ベースでヒカルがアキラさんに佐為の事を告白」
「原作ベースで最大接近」
「ヤッてないけどヤッたも同然」


状況は、ヒカルがアキラくんに公式で勝った後。旅先で。
(地方対局でも、プライベートな旅行でも)
彼にはアキラくんが追っかけてたのは自分の碁じゃなくて、佐為の碁なんだろうな。
という負い目みたいのがあると思うので、勝って自信をつけてから告白と。

で、ケンカさせてください。コドモ染みたやつ。




今まで色々なリクを頂きましたが、これがあったかー!という感じですね。(笑)
何というか難しかったです。やっぱ原作ベースって緊張しちゃう。
リクエストは早く頂いていたのに、お待たせしてすみませんでした。

それにしても、こんなにじっくりというか、物語性が少なくて描写に終始してるのを
書いたのは初めてですよ。
しかもこんなに長くてやおいじゃないのも(笑)
前半は特に冗長かとは思いましたが、原作以降の二人の日常会話とか妄想していると
これがまた意外と楽しくてこうなってしまいました。

「ケンカさせてください」とは言え、こんなにずうっとケンカをしているとは
リク主さんも思われなかったんじゃないでしょうか。
私も思いませんでした。

てなことでどうでしょう、こんなんで良かったかな?
白玉さん、ナイスリクありがとうございました!








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