無鬼論 1








【塔矢アキラ】




どうしようもなく惑乱しているというのに、冷静に盤面を観察する自分もいる。
混沌とした思考のラインと、澄み渡った水面のような分析。
その時、二つの意識はどちらが勝るともなく完全に均衡を保って
平行にボクの中に存在していた。




「…矢おまえ……は?」


進藤が何か言っているのを聞いて、ふっと意識が現実に引き戻される。
しかしその言葉の内容を理解する事は出来なかった。
ボクの頭の中は既に溢れ返る思考で飽和していたので。


「……からオレ行くぜ?」


見え隠れしたsai の影。
進藤が放った六の五の意味。
…sai を思わせる一手…。



「………sai 」



誰かが、頭の中で何か言っていると思った。
自分の声だと気付いたのは一秒遅れてだった。


「キミと打っていて、ネットのsai を思い出した」


進藤がsai と関係あるのか否か。
この時まで、もうどちらでもいい事だと思っていた。
それよりも、ボクのライバルたりうる人間かどうかが大切なのだと。

けれど、今。

彼と打っていて、鮮明にsai の面影を見た気がしたのだ。
つかまえた、と思った。

しかしそれは口に出して良い事ではなかった。

その感触は明瞭なカタチを持ったものではなく、いわばボクの勘にすぎない。
証拠もなしに安易に追求してはまたするりと逃げられる。

そんな計算が出来る自分がいるのに。
どうもボクの口は別の思考に従って勝手に動いていたらしい。
だって思いがけず進藤から返答があったから。


「……オレはsai じゃねえよ。残念だけどな」


   ほら、やっぱりかわされた。

呆れ返る理性。
…しかし。いや。
逆に今の一言で、はっきりしたのではないか?
何を根拠になんて、そんな思考は追いつかない。
けれど。

論理ではない。
勘に過ぎない。
でも間違いない。
衝動に、駆逐される理性。


「……キミだよ」

「もう一人のキミだ」

「出会った頃の進藤ヒカル」

「彼がsai だ」


止まらない言葉。
自分でも気付かなかった、無意識下で進行していた不可思議なロジック。


「碁会所で二度ボクと打った、彼がsai だ」

「キミを一番知っているボクだから分かる。ボクだけが分かる」


言いながらもやはり自分で着いていけない。
ボクは、一体何を言っているんだ?



「キミの中に、もう一人いる」






…憑かれたように溢れ落ちていた言葉はそれを最後に止んだ。
あんなに確信を持って話していたのに、耳で聞いてワンクッション置いてみれば
あまりにも支離滅裂な内容だ。
自分の口から出たとは信じられない。
こんな体験は初めてだ。

進藤は呆れているだろうな、と思った。
よく考えると、久しぶりの対局という以上に今まで彼と交わした会話は
驚くほど少ない。
二度目の対局の前か、ネットカフェ前で少し話したのが一番長いか。
だというのにこの醜態。


「……いや何でもない」


頭を冷やす。
訳の分からない勘で、言いがかりを付けているような
酷く申し訳ない気がした。
そんな自分自身が情けなかったというのもある。


「おかしなことを言っているなボクは……」


不様な言い訳じみた言葉。
しかも心の奥底にはまだ「それでもsai は進藤の中にいるんだ!」と
駄々っ子のように喚く自分がいる。
…けれど。


「……いや、キミの打つ碁がキミのすべてだ。
 それは変わらない。それでもういい」


そう。
sai の影が一瞬ちらついたとは言え、この攻防はどう考えても進藤ヒカルの碁だった。
盤外で彼がsai と関係があるのかどうか、そんな事はどうでもいい。
盤上で問えば良いだけの話。

答えは、とうに出ていた筈じゃないか。


「……」

「……」


彼は黙っている。

黙っている。

やがて空調の低い音に混じって「みし、」と踵を返した音がした。
きっとこのまま何も言わず出て行くのだろう。
けれど、昼休みが終われば必ずボクの前に戻ってくる。

それで十分だ。



しかしその後。


「おまえには」


少し離れた所から思いがけず声が降ってきた。
ボクの知る限り、彼の声はいつも高い。
テンションが高いというのだろうか、常に落ち着かないというか
小さな興奮状態にあるような印象がある。
偶々いつもそういう場面に遭遇しているだけかも知れないが。


    そうだな、いつか話すかもしれない」


けれど今は、低く静かな声音だ。
語尾も「しんない」などではなく、きっちりとした日本語を為している。
彼も大人になったのだな、とぼんやりと思った。



…………じゃなくて!


振り向いたが既に進藤は対局場の出口で背中を見せていた。

座布団を蹴って立ち上がる。
走る。

今、何と言った?
「いつか話す」?

と、いう事は、話す内容があるという事だ。
自分の発した言葉を反芻してみる。
sai と、sai が進藤の中にあるという事以外何も言っていない。

間違いない。

自分の足音がどたどたと響いて行儀が悪いと思った。

またしても平行する思考。

足裏に固い違和感を得て思い出した、幼い頃畳の縁を踏まないよう
何度も注意していた母の顔。

たどたどしく、けれど思いがけない練達を見せた幼い進藤の指。

sai…進藤、進藤!


「どういうことだ!」




掴まえた進藤は、とても驚いた顔をしていた。
あれ程人を驚かせる事を言っておいて、一体。
いつも通り幼い、というか全く忌憚のない表情に戻った彼は、
自分の言葉を否定しこそしなかったが、真実を語るつもりもないようだった。


「でもさっきボクには話すと…」

「いつかだよ!ずっと先だ!バカ!」


…え?
思いがけなく飛び出した幼稚な言葉に思わず一瞬思考が止まる。
その間に、乗るつもりもなかったエレベーターの扉が軋んだ音を立てて閉じる。


「バ…バカだと?」

「バカだよこの石頭!しつけーんだよ!」

「…!」


バカ・・・と言われたのは生まれて初めてとは言わないが、小学校低学年以来だ。
「碁バカ」なら、ごく親しい人に冗談で言われたことがあるがそもそも
進藤とは殆ど話した事もなくてそういう仲では……。


「小学生かキミは!」

「んだとぉ?」


そんな調子で結局真面目にsai の事を問える空気でもなくなってしまい
結局その問題はボク達の間で据え置かれてしまう事となった。






それから二年。と、半年近く。

あの時までお互いに意識し合いながらも全く打っていなかったのが嘘であるかのように
プライベートでよく打った。
勝率は六割四分。
進藤は五割位だと言い張るが、こちらは都度ノートにつけているので間違いはない。

彼との対局は、本当に楽しかった。
勉強になるという点では父や自分より強い先輩棋士と打つ方が効率的かも知れない。
でも勝ったり負けたり、純粋に囲碁を楽しむという部分では同じ年で実力の拮抗している
彼に勝る相手はいない。

何のために強くなるのか。

いつか誰よりも上に行きたい、神の一手を極めたい、という思いもあるし
勿論収入の為でもあるのだが。

一番身近で現実的なモチベーションは、いつしか「進藤に負けたくない」
になっていた。
自分でもコドモかと思うけれど。
遠いローマを思って一歩一歩進むより、百メートル先に当面のゴールがある方が
楽しくて、そして走り甲斐がある。
これはどうしようもない。

こうして二人で走り続けている間に、いつの間にかきっと誰よりも高みに辿り着いている。
神の一手に限りなく近づいている。

そうなればいいと思うし、その時まで進藤には隣にいて欲しいと願わずにはいられない。
父以外の誰かに対して、こんな風に強い感情を持ったのは初めてだった。
きっとどちらも一度は失いかけたからこそ、その大切さが身に沁みるのだろう。

けれどボクはもう迷わない。
失わない。
父に関しては異国で無理をしないよう、心臓に負担を掛けないよう祈るばかりだが
それは母に任せるとして、
進藤はもう、きっと離さない。






「…はい。電話代わりました」

『塔矢?』

「ああ。珍しいな。キミから電話なんて」

『珍しいっつーか初めてだよ。お母さん出て緊張したっての』


今は父母が帰国しているので高確率で母が電話に出るのは当たり前だ。
そう言えば、碁会所の待ち合わせはその場で次回の日時を決めるか
棋院で会った時に話すか、そうでなければボクの方が彼の携帯に
電話をする位だった。


『じゃなくて。オレはおまえから電話あると思ったんだけどな』

「どうして」

『……来たんだろ?棋院からハガキ』


そう。今まで何十と受け取った、対戦相手を報せる葉書。
今日受け取ったそれには「進藤ヒカル三段」と記されていた。
本因坊リーグの三次最終予選だ。
勝った方が座間王座か松原八段との最終予選、それに勝って初めて
桑原本因坊に挑戦する事が出来る。


「ああ。もうそろそろ当たるかと思っていたけれど」

『なんだよ、淡泊な反応だなー』

「騒いでも仕方がない」

『まあな。えっと、一昨年の秋以来?』

「そうなるね」


意外にも、進藤と公式戦で当たるのは今回でまだ四度目だ。
一度目は父が倒れた時で不戦敗だったが、それ以外はずっと勝っている。


「それで?」

『え?』

「用件は何だ?」

『いや、何つー事はないんだけど』

「キミは対戦相手にいちいち事前に電話を入れる趣味があるのか?」

『何それ。こっちはおまえとオレの仲だと思ってんのに、ムカツクなぁ』


進藤は半ば本気で腹を立てている声音だったが、ボクは思わず口元を弛めてしまった。
本当は彼が何故電話を掛けてきたのか、分かっている。
上手く言葉には出来ないが、その気持ちはよく理解できる。

盤外戦とか偵察とかそういうのではなくて。
ただ、どうしても声が聞きたくなったのだ。

ボクだって本当は電話したかった。
けれどプライドが許さなかった。
父が対戦相手に電話をしている所など見たことがない。

声が聞けて嬉しい半面、仮にもボクのライバルというのなら
彼も同じ矜持を持って欲しいと願う気持ちもある。

意に反して、冷たい声が出そうになる。
意に反して、優しい言葉を掛けてしまいそうになる。

ボクは精一杯「普通」を模索しながら、それでもそっけなく
お互いの健闘を祈って電話を切った。




【進藤ヒカル】




自分では塔矢に追いついてると、アイツより強くなってるわけでもないけど
弱くもないって思ってたんだけどな。
考えて見れば公式戦で勝った事ってないんだよ。

そりゃ碁会所でなら何回も勝ったけどさ。
得意げな顔をしながら、オレはどこかで満足していなかった。
こんなの、オレと塔矢と、碁会所のお客さんの頭の中にしか残らない。
ちゃんとした公的な記録に残って初めて、対等なライバルと言える気がしたんだ。


「……それでは」

「お願いします」

「お願いします」


コイツとは今まで若獅子戦を含めて三回対局してる。
オレは三回とも、僅差で負けていた。
そう、まだ力が足りない。
気合が足りなくもないと思うし、緊張していつも通りに打ててない訳でもないと
思うんだけれど、どうしてもあと一歩及ばなかった。

多分、塔矢の方が本番に強いんだ。
公式対局で向かいに座ったアイツはいつもより大きく見える。
よく知ってる塔矢じゃなくて、初めて見る得体の知れない敵のような気がする。

それだけで、負けた、と思ってしまう部分があった。
認めたくないけど、この青白い顔をした怪物に、オレを喰おうと目を光らせた化け物に、
対抗するべきなのはオレじゃなくて佐為なんじゃないか。
未だにそんな事を思ってしまうんだ。


7の4


強気な手を打ちながら、今日こそは絶対勝つと思いながら、
どこか心の隅っこで、佐為タスケテ、と呼ぶオレがいて。

目の前の塔矢。オレの中の弱いオレ。
戦う相手が無駄に多くてたまんない。


5の三


でも、ずっとずっと待ってたんだ。
コイツとの公式対局。


4の七


三回連続で負けたから、今度は三回連続で勝ってやる。
そんな事を思ってたじゃんか。
今日負けたら、今度は四回連続で勝たなきゃならなくなる。
って、負けたりしねえ!絶対!


5の六


集中しなきゃ。


3の二


塔矢は今、何考えてんだろ?


8の五


……。





「……では、お昼になりましたので次の塔矢七段の一手を以て打ち掛けとします」


聞こえていないかのように微動だにせず盤面を睨んでいた塔矢が、
やがて顔を上げる。
すかさず記録係が差し出した白紙に、丁寧に文字を書いて折り畳み
白い封筒に入れてフタをした。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」


部屋の中に張りつめていた緊張が一散する。
記録係や、見学していた人が首を回したり、大きく息を吐いたり、思い思いに
くつろぐ。
一番疲れてるのは当事者のオレ達だと思うのに、周りの人の方が何故か
しんどそうなのがいつも不思議だ。


「進藤三段」

「ん?」

「お昼どうしますか?一緒に食べる?」


珍しく塔矢が声を掛けてきた。
って。こないだ電話した時はあんなに愛想なかったのにどういう事?


「あ、でも、手合いの時はメシ食わないんだろ?」

「そうだが。キミが淋しいのならお茶くらいは付き合おうと思って」


オレ以外の人間にはよく見せているけれど、オレには見せたことのない
愛想のいい笑顔を浮かべる。

っかーー!!
なんかむかつくーー!
何考えてんだっ?


「お。塔矢七段、盤外戦ですか」


ははは、とみんなが立ち去り間際、和やかな笑い声を上げる。
それでオレは初めてこれが、周囲に向けられた冗談だと気付いた。
ならオレも負けてらんない。
こんな所で差をつけられたくない。


「お茶に付き合って貰うなら可愛い女の子の方が嬉しいです」


公の場や人前で話す時は普段のタメ語じゃマズい気はする。
けど完全に他人行儀な敬語を使い合うのはちょっとハズいというか照れがあって、
オレだけじゃなく塔矢も、いつも中途半端な丁寧語になってしまっていた。

でも今回は何故か、普段の話し方の方が良かったかな、とちょっと思った。
冗談じゃん。冗談。
おまえが変な時にオレをからかうから。


「お、進藤くんも言いますなぁ」


ほら、えっと、何とか先生もウケてるじゃん。
けど無言で唇の両端を吊り上げた塔矢の、目は全然笑ってなかった。




昼メシを食べられるかどうか。
この辺は結構自分の緊張度合いのバロメータになってる。
って前冴木さんに言ったら、それを逆手に取って、緊張してても無理矢理食べて
自分は緊張してないって自己暗示かけるといい、と言われた。

そう言われると何か自分でもよく分からなくなって、結局今回も
食欲はないけど食べるのは食べられる、という状態だった。
あんまり胃に血が行くと頭の回転が鈍るっていうけど、やっぱ
腹が減っては戦は出来ぬ、だしな。


「それでは再開して下さい」


二人で頭を下げる。
もう、余分な事は考えない。




終盤……。

……それは、ふっと閃いた。

三十分も考えて、どう考えても今打ち得る最善の一手だと、碁笥に指を突っ込んで
9の七に置こうとした正にその時だった。

早碁が得意なオレでも、考えれば考えただけの事はある。
そう、か……。
その一手から枝分かれしていく数手。
今なら9の七より確実に二子は儲かる。
後回しにすれば?
いや、メリットがない。


ぱち。


石を置いてからもしばらく眺め、満足して顔を上げると塔矢も上目遣いにこちらを見ていて
少し驚いた。

対局中に相手と目が合うなんて滅多にない。
滅多にないけれど偶にあればお互い何もなかったかのようにすぐ逸らす。
和谷とか、親しい間柄ならニヤリと笑ったりもするけれど。

けれどオレと塔矢は、逸らしもせず、笑いもせず、
不自然な程長く見つめ合った。
端から見れば睨み合ってるように見えたかも知れない。
けれど、そういう訳でもない。

ただ、あの切れ長の目の中の冥い瞳に、
佐為を思わせる透き通った怖い黒に、

飲み込まれそうな気がした。




「ありません」


塔矢が頭を下げたのは、それから八手程進んだ時だった。






−続く−










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