敦煌 2【前編】 くん、くん・・・。 夜半、寝ている明珠の体に巻き付けられている布が引かれた。 薄目を開けて肩越しに振り返ると恐ろしいほど近くに人の顔がある。 「明珠・・・。」 奴隷小屋に閉じこめられて、もうどの位経つだろう。 二日前に手付けを打たれたこの銅色の髪の少女は、皆が寝静まると執拗に明珠を誘った。 「このままあんなジジィの妾になるのはいや・・・。」 そんな事を言われても自分にはどうしようもない。 と答えるのも億劫で、黙って寝た振りをしていると、 「だから、その前に・・・。」 後ろから体を押しつけて来る。 腰の前に手を伸ばして来る。 明珠はやはり無言で起き上がると、粗末な小屋の出口・・・奴隷商人の部屋へと続く扉を ガンッと蹴った。 しばらくして扉が開き、「用足しか、」と小さな声で呟きながら 奴隷商人が明珠の手を引いた。 明るい部屋に出て、ほっと安心する。 恐らくしばらく前まで商売女でもいたのだろう、微かに甘い香と何か生臭い匂いがした。 扉が閉まる寸前まで、先程の少女の視線を痛いほど背中に感じたが 明珠は振り向かなかった。 甘州の城に西夏が攻め入ってきた時、明珠はどうして良いか全く分からなかった。 青天の霹靂でもあったし、数年前の宋との戦いで信頼できる軍帥も父も 失っていたので。 それでも母を守るため、剣を取って一人でその寝室の前に仁王立ちになった。 自分はきっと死ぬが、死ぬ瞬間まで母を守ると思っていた。 敵兵たちの足音がどたどたと近づいて来て、剣を構えて身を低くした時。 背後でどさっ、と音がした。 振り向くと、石畳の上に敷かれた緞通の上に母が崩れるように倒れていて、 その首もとからはまだ勢い良く深紅の飛沫が上がっていた。 手には黄金の柄の小さな剣。 明珠は敵兵の到着を待たず、その場に倒れた。 気が付いた時には衣装も剥がれて下着に直接套を着せられた状態で縛られていた。 そのまま駱駝に乗せられ、どこかへ引き立てられていく途中で出会った契丹の 奴隷商人に売られたのだ。 西夏軍と別れた後、奴隷商人は、ちっ、と舌を鳴らした。 「王族の女にしては安いと思った。」 どうも故意にか偶然か、姫と間違われて買われたらしい。 それでも男は薄汚れた明珠の顔を布で乱暴に拭うと、まあ何とかなるか、と呟いて 女の子が何人か入っている荷車に乗せた。 他の商品には絶対に手を出すなよ、と言いつつも構う様子を見せなかったのは 明珠を完全に子ども扱いしていたのかも知れない。 とは言え、明珠も彼女らに触れようという気もなかった。 少女たちは貧しさから売られたり、戦に負けた村から連れて来られた不幸な子たちだが 私には王族だという誇りがある。 と、自分で思っていた。 戦に負けて奴隷にされたという時点で立場は同じなのであるが、敢えてそこは 見ない振りを決め込む。 少女たちもそんな明珠の雰囲気を察してか、用のない時は近づいて来なかった。 そういう由で、狭い空間に閉じこめられていながら少女達とは交流もなかった訳であるが 偶には先方から接近して来る事もある。 大抵は明珠が無視をしていればすぐに諦めたが、件の銅色の髪の少女は執拗だった。 「愛している」と「奴隷の身には生涯一度の恋」だと囁きは熱かった。 自分の買い手が決まってからその情は更に激しさを増したが 明珠の心が動くことはなかった。 奴隷商人の部屋に入った明珠は、商人がくびきを付けようとしたのを拒んで 用足しではない、と言った。 「やはり女の中で寝るのは気詰まりだ。私だけここで寝かせてくれないか。」 「おまえだけ特別扱いしろと?」 「そうだ。」 事も無げに言って、さっさと商人の寝ていた寝台に潜り込む明珠。 男は呆気に取られて一瞬怒ることも忘れてしまった。 だがその後、商人は同じ寝台に乗った。 明珠を放り出す代わりに、その粗末な服に手を掛ける。 「・・・この間の、黄毛の子どもの所に行くんだぞ。」 「いやだ。」 「今度来たら売るからな。」 「そんな事をしたら逃げる。」 「逃げても一人で生きていける筈もない。せいぜい此処より質の悪い商人にとっつかまるだけだ。」 「構わない。」 「なぜそんなに強情なんだ・・・大人しく、売られろ。」 「嫌なものは嫌だ。」 「不承知なら・・・、」 脅しながら服をたくし上げたが、明珠はじっと睨み返すだけで抵抗を見せなかった。 『手を出してしまえばそれはもうこの店の商品ではない』 別の商人に売るかどうか迷いながら、仕方なく明珠を下働きに使っていた商人だが 暫くすると、これは悪くないかも知れないと思い始めた。 仕事も助かるし女を買う金も浮く。 それほど、男にとって明珠は「使える」少年だった。 王族だと言って扱いづらいと思っていたが、与えた仕事は文句なくこなすし 夜も、人形のようではあったが具合が良い。 だが、三日もしない内に商人は不気味さを覚え始めた。 すっかり忘れていた遠い日の記憶が、どんどん色鮮やかに甦ってきたのだ。 それは男がまだ年若い見習いの頃の事。 当時は回鶻の王族も上得意であった訳で、親方について甘州の王宮に入ったことがある。 西夏人で見目の良いのがあれば下働きに、と注文されて女を連れて行った時だ。 親方と女と、槐樹繁る中庭の回廊を通った時、遠くに髪の長い男がいた。 凝っとこちらを見ている。 遠くて良く見えないのに、何故か胸が苦しくなる程美しい男だと思った。 そして何故あのような咎めるような眼をしているのかと。 よく顔も見えなかったし、その男に会ったのは一度きり。 そんな十数年前のちょっとした出来事など完全に忘れていて良いはずだ。 しかし、明珠に触れれば触れる程その時のことが鮮明に思い出される。 自分が、その一瞬出会っただけの人間に、 長い間恋をしていたのではないかと錯覚してしまう程。 あの男が明珠の筈がない。 けれども何故か、同じ顔に思えて仕方がない。 何かを見透かすような、目。 そして中毒しそうな魔性の体。 このまま手元に置いておいたら、どんどん溺れる。 きっと自分は破滅する。 そんな危機感を覚え始めたある日、以前明珠を買いに来た黄毛の少年がまた尋ねてきたのだ。 明珠が売り物にならないという以上に手放し難くて、一度は断った。 けれど。 自分に対しては高慢で、神秘的と言える面しか見せない明珠が、 黄毛の少年の前で見せた年相応の子どもらしい表情に驚いた。 手放す機会は今しかないかも知れない。 もしかしたら、自分はまた取り戻しに行くかも知れないがと思いながら 男は黄毛の少年に明珠を譲った。 そんな経緯で明珠は黄毛の少年、趙光の元に来た訳であるが、勿論自分が 趙光の奴隷だなどとは全く思っていない。 えらく金持ちの子のようではあるが、そんなことは関係がない。 だから最初は本当にすぐに逃げだそうと思っていたのだ。 気が変わったのは、思いがけず趙光が丁重に扱ってくれたから。 取り敢えずは行き先もないし、彼といれば食べ物に困ることはない。 そういう訳で、砂漠の道を一緒に旅をしている。 「あっちー!なぁ!」 「敦煌はまだ遠いのか。」 安全な旅路ではない。 いつ、吐蕃や西夏の軍と出会うかと冷や汗をかきながらの行程。 遠くに法螺貝の音を聞けば全力で反対方向に駆け、 どこかの軍の斥候と出会ってしまえば小金を渡して見逃して貰った。 「う〜ん、よく分かんないけど、今日中にイルガイには着けると思うよ。」 「イルガイか・・・。」 一旦町に入ってしまえば取り敢えずは安全だが、イルガイもまた西夏の都だ。 二人とも漢人の混血であるが、明珠に西夏の血は混ざっていない。 それどころか一族を滅ぼされた明珠にとっては早く出たい所であった。 そんな二人の間には、実はまだ殆ど会話がなかった。 最初明珠は、何故父・佐為を知っているのだと問い詰めたが、 趙光はいつか話すと言ったきり当分答える気がない様子。 生い立ちに関しても、ほとんど聞いていない。 ただ宋の生まれで、父は漢人、母は西夏人だというだけだ。 以来、趙光の方は細々とした事を話しかけて来てはいたが、 明珠は無視していた。 イルガイは、興慶よりはこじんまりとした都だ。 趙光は母の手形を使い、明珠は形式上その奴隷として(かなり嫌がったが) 王館近くの宿を取った。 土を固めた煉瓦を積んだ家屋、がっしりとした木の卓机と椅子、そして寝台。 必要最低限の家具しかないが、居心地は良さそうである。 「興慶を出てから野宿ばっかだったからな、ここでしばらく体を休めようぜ。」 「それはいいが。」 明珠が指さした先には、契丹族の大男でも余裕を持って寝られそうな大きな寝台。 が一つ。 「寝台が一つしかないが。」 「あ。ホントだ!ちょっと聞いてくる。」 しかし戻ってきた趙光の顔は曇っていた。 「奴隷は奴隷部屋で寝るか、床で寝ろって・・・。」 「ふぅん。で、君は私に床で寝ろと?」 「いや、そんな。」 結局、趙光が床に毛布を敷いて寝ることになった。 床から冷気が沁み上がって来たが、野宿よりはマシだと思った。 翌日、表通りが何か騒がしかったので、窓から外を見てみると 大勢に担がれた豪華な輿がゆっくりと窓の外を通り過ぎるところだった。 中には太守であろうか、金に玉を散りばめた腕輪をした年配の男性と、 まだ少女と言っていい美しい女が並んで座っている。 「あ。」 それを見た途端明珠が小さな声を上げた。 「どうした?」 「いや・・・。」 見間違いかも知れない。 まさかそんな偶然が、という思いもある。 『あんなジジィの妾になるのはいや』 記憶を必死で辿るが、少女を買った男の顔も名も思い出せなかった。 しかしその時。 輿上の少女が、不意にすう、と顔を上げた。 さほど近い距離でもないのに迷う事なく明珠に顔を向け、まっすぐに目を射る。 美しく化粧をしているが、その銅色の髪は見間違えようもない。 音が消えたようだった。 奴隷小屋の中の、夜の静寂が寝息が冷気が甦る。 『明珠・・・』 潜めた声で、何度も呼ばれた名前。 太守はにやついた顔でひっきりなしに少女に話しかけている。 だが少女は、無表情に、瞬きもせずに明珠と視線を合わせていた。 ゆっくりと進む輿。 ゆっくりと巡らせる首。 あまりに異様な見つめ方なので、周囲の人間が少女の視線を辿って 自分を見つけはしまいかと、明珠は窓際から離れた。 「明珠、さっきの子、知ってるの?」 「・・・いや。」 「そう。可愛い子だったなぁ。惜しいな、あの年であの太守の妾かぁ。」 脳天気に言う趙光に、明珠は返事をしなかった。 何と言うことはない。 奴隷仲間が、一人は年寄りの太守に買われ、一人が宋の少年に譲られた。 それだけだ。 切なげな声が甦っても、彼女が今、全く幸福そうに見えなくても それはもう、どうしようもない事であったし、彼女の気持ちに一切応えなかった自分が 間違っていたとも思わない。 それでも奇妙な苦みが口の中に残るようだった。 出来るだけ早くこの町を出るよう、後で趙光に言おうと思った。 −続く− |
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