くちなは 1 「ちち・・・うえ・・!」 闇を縫い、幼い声が高く細く流れていく。 「そなたの父ではない。」 答える声は、内容の冷たさとは対照的に熱を持って低く掠れている。 「ちちうえ」と呼べば、「六波羅さまとお呼びなさい。」と必ず母に窘められた。 それが何だか寂しくて、母がいない時にはこっそりと「ちちうえ」と呼んでいた。 そうすればにこりと微笑んで、大きな手で頭を撫でてくれたのだ。 多くの人に、他の兄弟達(その頃には本当の兄弟だと思っていた)に 酷く怖れられているというのは知っていたが、その感覚は分からなかった。 優しいひとだった。 決して私に対して怒らなかった。 慈しんでくれた。 だから、気付くのが遅れたのだ。 ・・・彼が、捕食者である事に。 「ちちうえ・・・。」 「愛しい、牛若。」 「いや、」 今度は優しい声を裏切る猛々しい手。 後ろから伸びて来る太い蛇のようなそれが、脇の下の身八寸から入り込んでくる。 突然直接肌に触れ、ぞくりと身が竦んだ所で長い指の腹が 小さな突起に触れる。 「あ、」 そこは弱点だ、本能的に袖を持って掻き合わせ脇を締めるが、骨太い腕が そのくらいで動きを止める筈がない。 むしろ柔らかい内腕の感触を楽しむようにばらばらと指を動かしながら桃色の部分を つまみ上げた。 「つっ!」 「なんという肌。」 こちらの反応に斟酌なくうっとりとした声音で言い、後ろから覆い被さって来る。 どうして良いか分からずただ痛みに涙を滲ませていると、その目尻が べとりとした生暖かいもので拭われた。 「やだ、ちちうえ!」 「嫌ではなかろう。そなたは我を好いておろう。」 それは。 でも違う、こんな事をする父は怖い。 「そなたが愛おしうてならぬのだ。」 「私は、」 「我の息子ではない。」 腕は脇の下から前に伸び襟を掴んで引き開く。 剥き出しになった肩に、歯が当てられた。 微笑んだ時にちらりと覗く、父の白く並びのよい歯ではなく 何故か馬屋で一番荒くれの黒馬が思い出されて泣きそうになる。 「まこと、美しうなった。」 「常磐に瓜二つじゃ。」 「いや、常磐に優る麗しさ。」 母が、どうしたと言うのだ、私は私だ。 この人は何か間違えている、勘違いをしている、 そう思っても言葉が出ない。 「この上耐えられぬ、おまえが日々透けるように美しくなるのを、」 「やめて下さ・・・」 「花が開くのを、他の男共がおまえを見るのを、どんな思いで、」 私は男だ・・・! 声を限りに叫んだつもりだったが、自分の耳に届いたのは小さな獣の鳴き声のような 掠れた音だった。 上半身を苛んでいた手は足に移り、突然足首を掴んで引くもので思わず前のめりに倒れて 頬が布団を擦る。 閉じようとした足の間には既に相手の体があり、前に逃げようとすれば腰を掴まれて 引き寄せられた。 大蛇に、絡め捕らえられたようだ。 後ろに居る何者かは、常に背筋の伸びた端正な父とはとても思えない。 どうかされたのか、最初の頃は信じ難くてそれで逃げ遅れてしまった。 いや未だに何かの悪ふざけではないのか、という希望が捨てられない。 でもそれも、尻を剥き出されて先程の濡れた何かに汚されてからは ただ絶望に変わった。 「其を手折るのは、我也。」 狂うておられる。 尻の肉が鷲掴みにされて開かせられる。 信じられない事に穴に無理矢理何かがぬるりと入り込んできて、喉の奥がひっ、と鳴る。 「我の物になれ、牛若。」 熱い肉があてがわれ、私は絶叫した。 ・・・・・・・・・・ 汗をびっしょりとかいて目が覚めた。 あれから数年経っているのに、引き裂かれるような痛みと恐怖が鮮明に思い出されて 手が震える。 痛みには強い方だと自分で思う。 幼い頃から武芸は好んだし、立ち合いで大痣が出来るほど打たれても血が流れても 泣いたことなどなかった。 痛かったのは、父とも師とも仰いでいた人に裏切られた事だ。 確かに私をとても愛してくれていたが、実はそれは親の子に対する情ではなく 牡の牝に対する欲であったのだ。 それから暫く私は彼の物であったが、日毎に顔色が悪くなって行くのに気付いた母が 私の髪を切り揃え、強引に鞍馬寺の一柳房の元に送ってくれた。 「あなたに、私と同じ思いをさせる訳には参りません・・・。」 袖に落ちた露の意味がその時には分からなかった。 ・・・・・・・・・・ 私の本当の父の名は「源義朝」と言う。 物心ついた頃から平家の世であったので遠い昔からずっとそうなのかと思っていたが、 源氏の棟梁であった父が存命の頃、二家は派を争っていたらしい。 ところが平治の乱で父は汚名を着せられて殺された。 母は乳飲み子であった私達兄弟を連れて清盛の追っ手から逃れた。 奈良の山の中をだいぶ彷徨ったらしいが、楊梅町の祖母を人質に取られ、 泣く泣く京に戻ったという。 清盛の前に引き出された母は、祖母と私達兄弟の命乞いをしたが その姿を見て清盛の心が動いた。 情に感じ入った訳ではない。 母は今でもお美しいが、十三の年に既に洛中千人の美女の中から 最も美しいと選ばれた人だ。 清盛は母や私達兄弟の命を助けて匿い、母に文を寄越し続けた。 夫の仇ぞと始めは無視していた母であったが、私達を救うために遂には従った。 ・・・私は、そんな事は知らなかった。 二人は私の前ではわだかまりのありそうな様子を見せなかったし、 清盛を半ば以上本気で父だと信じていたのだ。 そして誰よりも尊敬していた。 武芸も頭脳も統率力も人並み外れて秀でた男。 今をときめく平家の棟梁を皆畏れ、彼に会う為に遠国から、 時には異国から足を運んでくる。 そんな人が「父」であることが嬉しかった。 そんな人が可愛がってくれたのが誇らしかった。 まさか本当は仇だなどとは露も思わなかったのだ。 そしてあのような汚らわしい目で見られていたとも。 清盛の寵愛を受ける母によく似ていると幼い頃から言われていたが、 「親子だから当たり前」というほどにしか思っていなかった。 清盛に犯されて以来少しずつ降り積もった憎しみは、それでも寺で勉学に励む内 押さえ込まれて行く。 一柳の阿闍梨もいずれ自分の跡継ぎに、と言って下さるまでに熱心に学んだ。 けれどその平穏な日々も長くは続かなかった。 ・・・・・・・・・・ 「遮那王様・・・如何なされた。」 狭い房の隅で、この夜中に座禅でもしているのか縦長に黒く蟠った人型の闇から声がした。 私は名を「牛若丸」から「遮那王」に改めていた。 「起きていたのか。」 「は・・・。」 一瞬忘れていたが、夢の原因は此奴であったかと思い当たる。 勿論清盛とは似ても似つかぬ。 しかし為すことに大きな変わりはない。 一柳坊にて平和に暮らしていた私の元に足音を忍ばせて訪れた運命。 ・・・・・・・・・・ 修行僧が鞍馬寺に滞在しているという話は聞いていたが、何者かは知らなかった。 或る月の夜、その「四条の聖」こと弘幸坊が突然私の起居する房を訪れ、 驚く私の耳に口を当てて早口にこう囁いたのだ。 「君は知召されず候や。今まで思召し立ち候はぬ。君は清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子、 かく申すは頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛が子にて候。 御一門の源氏、國々に打籠められておはするをば、心憂しとは思召されず候や」 その時初めて、私は自分の出自を知った。 自分が清和源氏の血を引く者なのだと。 勿論その僧形の正体からしてすぐに信じた訳ではない。 しかし、彼は義朝の事や源氏重代の事を詳しく語りはじめた。 私には覚えがないが、少なくとも彼が義朝公の乳母子だというのは間違いがなさそうだ。 ということは、私が源氏だという事も・・・。 呆然とする私の前に平伏した弘幸坊が、やがて「おいたわしや、」と言いながら足に手を触れ、 その手がだんだんと上ってきても私は声を上げなかった。 その日以来、弘幸坊は夜毎に忍んできて清盛の悪行の数々を私に伝えた。 母とのいきさつもその時に教えられたのだ。 私を強引に手に入れたように母をも弄んでいたのかと、知ったその瞬間が 私の怒りの頂点だったかも知れない。 しかしそれ以降、私は自分の心頭を滅却する事を覚えた。 大望を果たす為には、怒りに突き動かされていてはし損じると気付いたからだ。 私に知識が増えると共に、体に弘幸坊の手が触れた場所も増えていった。 「必ずや謀反を・・・いえ、これは謀反などではございませぬ。」 「・・・・・・。」 「紀伊國には新宮十郎義盛、河内國には石川判官、摂津國には・・・・・・ 近江國には・・・・・・、伊豆國には兵衛佐頼朝・・・・・・」 各地に残った源氏を数えながら、私の体を日の本に見立てて手を進めていく。 衣の布が、土竜を隠した地面のように盛り上がっては蠢いた。 「都には。」 僧侶とは思えぬ武骨な指を、舌で濡らして後ろに回す。 錫杖や経文だけを掴んできた手ではあるまい。 清盛を、討たねば。 これは私怨などではない。 何故ならばもう。 私は体から解き放たれている。 体の内部に入り込んできた指が、肉を分けて動き回る。 所によっては火箸を当てられたような・・・何とも言えない心持ちもしたが そんな自らをも醒めた目で上から見下ろすことが出来た。 此奴は清盛のように痛いことまではせぬが、もしされたとしても変わらぬと思う。 体など要らぬ。 心も要らぬ。 命も要らぬ。 ただただ清盛を討って平家を滅ぼすことさえ出来れば。 御仏よ。 我に試練を与えたまえ。 もっと。もっと。強く。 弘幸坊に出会って以来、私は明けても暮れても謀反の事しか考えられぬようになった。 強くならねばならぬ。 けれど寺の者達は、私が武芸に励むのを快くは思わぬ。 なので、昼は学問に勤しむ振りをして、日が暮れてから鞍馬山の奥の 今は荒廃し、人訪れもない貴船の明神に出掛けた。 「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩、掌を合せて、源氏を守らせ給へ。 宿願真に成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん」 柏手を打ってから、携えてきた刀を抜く。 崩れ掛けた社殿の横には荒れ果てた草原があり、その真ん中には大小二本の 木が立っていた。 「・・・はっ!」 気合を入れて、四方の草を薙ぎ払う。 平家の一族のつもりだ。 真ん中の木は、小さい方に「重盛」、大きい方に「清盛」と名をつけて斬りかかる。 下の方に張り出していた小枝が、すぱ、と小気味良く落ちる。 調子に乗って「清盛」の胴に力一杯斬りつけると、あっさりと弾かれた。 びいいぃぃぃ・・・・・・ん・・・ もう少し手を離すのが遅れたら、刃が折れる所だった・・・。 口惜しい。 口惜しい。 もっと強くなりたい。 以前の私なら地面を叩いて腹立ちを散らす所だが、私はそうはしなかった。 その間にもっと強くなろうと幹に突き立った刀を取りに行った。 「・・・誰ぞ。」 その時、背後に何者かの気配を感じた。 人には告げずに来たが寺の者が隠れ着いて来たのかも知れない。 先程の祈祷の言葉に何か不味い事はなかったか、草木を斬る時に 平家の名を口にしなかったかと思い返すが、太刀の時は夢中だったので よく覚えていなかった。 「戯れ事はやめよ。誰ぞ。」 じゃり。 太刀を構え、ゆっくりと振り向く。 「名乗らぬのなら、斬る。」 小坊主あたりが腰を抜かしているだけかも知れぬが、用心は怠りなく辺りを見回す。 ・・・いない? しかしよく見ると。 正面の森の木の枝の上の方に、白いものが見えた。 風もないのに微かに揺れている。 く、 くくくく・・・・ 獣の声・・・木の枝の軋みではない・・・鳥の声・・・? いや違う。 いつの間にやら、山中の鳥獣は全て消えてしまったかのように声も気配もなくなっている。 そんな中で隠す態もなく強烈な気配を放っているのは、やはり目の前の白い何か。 「くっくっく・・・。」 笑い、声? 「よう・・・若様。」 「・・・・・・。」 人語が聞こえた事に、却って背筋がぞっと凍った。 逃げるべきか、一瞬思ったが蛇に睨まれた蛙のように動けない。 「平家が憎いか。清盛が憎いか。」 「・・・・・・。」 やはり、何か口走ってしまっていたか、いやそれよりも。 「でもそんな『ままごと』じゃ、清盛を倒す事なんて出来やしねえぜ。」 ざっ。 蹴られた木の枝が撓んで葉擦れの音がする。 ふわり。 白い衣を着たその何者かが空を跳んで、すと、とほとんど音もなく目の前に降り立った。 ひ。 二三歩後ずさってしまったのは我ながら情けないが仕方ない。 悲鳴を上げなかっただけでも上出来だと思った。 高下駄。 大きく、真っ黒な禍々しい扇。 逆立った獣毛の髪。 何よりもその、貌。 巨大な金色の双眸と鳥の嘴のように突き出た鼻しか目に入らない。 これは、やはり人外・・・。 「な、何奴・・・。」 「見ての通り、」 てんぐ、と呟くと共にカッ、と地を蹴り、更にこちらに向かって跳んで来た。 本能的な恐怖に竦んでしまって構えたままの刀を振る考えも浮かばない。 先方の斜めに構えた扇が「び、」と風を切る。 慌ててこちらも後ろに跳ぶが刹那間に合わず、下口に何かが軽く触れた感触があった。 圧倒的な、力量の差。 風だけで分かる、彼の強さと私の弱さ。 少し離れて改めて刀を構え、相手を睨んで歯を食いしばると 唇にぴり、とした痛みが走った。 小さな虫が下に向かって這うような感触がある。 存外深く切れて、血が流れたらしい。 「良い匂いがする。血の匂いだ。」 しかし今の一瞬の接近で分かったことがある。 相手の顔は、作り物の面だ。 ということはこれは人なのか・・・? しかしその術は、身の軽さと動きの早さは常人を逸している。 「・・・私を殺すのか。」 声が、震えてしまう。相手にも分かってしまっただろうか。 恐ろしい。 相手が人かも知れないと思うと不気味さは減ったが、やはり死ぬのは恐ろしかった。 いや、今の私の生きる意味は平家を倒す事のみ。 物の怪一匹に圧倒されるようではその価値はないと明神の思し召しか・・・。 「何故そう思う。」 「おぬしが、」 言うたからだ。私には清盛を倒す事など出来ぬと。 それならばこんな命要らぬ。 「いや・・・おまえは凄いよ。今は強くはないかも知れないがその真剣さには恐れ入る。」 天狗が、突然うち砕けたような言葉で話し始めて思わず顔を上げた。 先程までと何処が違うのかと問われると困るが、何となく、妙に人臭いような。 「?・・・私を、殺さぬのか?」 「ああ。やめた。」 「・・・・・・。」 「おまえがもっと弱く、また大した覚悟もなくこの貴船にやってきたものであれば 殺したかも知れないが、おまえは俺の好きな目を持っているから。」 「目・・・・・・。」 「だから励め。」 背を向けそうになった天狗を、慌てて呼び止める。 「待て!私は、」 「?」 「私は、強くなれるだろうか。」 半面、振り向く。 相変わらず表情は分からないが、面と生身の境目が見えた。 首元は存外華奢で、滑らかな肌をしているようである。 「・・・なれるんじゃない?」 「清盛を、倒せるぐらいに?」 「知らねえよ。おまえ次第だろう。」 「ではおぬしを倒せるぐらいには?」 天狗はゆっくりと、やがて完全にこちらに向きなおった。 空気が恐い。殺気を帯びている。 けれど、出てきたのはまた平坦な言葉だった。 「おまえが?俺を?」 笑い混じりの声が却って不気味だ。 けれども私は怖じる訳には行かなかった。 「ぬしと同じ位、いやぬしを越えねば大望を果たす事が出来ぬ事が良く分かった。」 「・・・・・・。」 「だから頼む。私を・・・強くしてはくれまいか。」 自分でも怖れ知らずと、何と大胆な事を口走るのだろうと思った。 けれど考える前に勝手にするすると言葉が滑り出していた。 天狗を怒らせたら、今度こそ命がないかも知れないと思っても止められない。 言いながら一歩、二歩と近づく。 天狗はたじろいだように後ろに一歩引く。 高い下駄を履いている、天狗が意外に背が低いかも知れないと気付いたのは その時だった。 −続く− |
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