秘密【1】 京の五条の橋のたもとに、一人の少年が佇み天を見上げている。 夜である。 中空には恐ろしいほどに大きな真円の月が浮かび、辺りを輝かせてはいる。 しかしそれは、美しくはあってもどこかこの世ならぬ景色のようであった。 生有る者が一人歩きするに相応しい世界ではない。 しばらく前より、この辺りには丈一丈ばかりの天狗法師、あるいは鬼が徘徊し 通りかかる者に戦いを挑んでは刀を奪い取っていくという噂が立っていた。 誰もその正体を知らない。 しかし鬼退治をして名を挙げようとした何人もの武者が、朝にはむごい死体となって見つかった。 勿論腰の物は盗られている。 そんな事が幾度かあってから、日が傾き始めても往来を行く人々の足は早くなり、 暮れようものなら蜘蛛の子を散らすように何処へともなく消えていく。 そんな場所だった。 しかし今宵橋のたもとに立っている人影は、全く頓着する様子がない。 どこかへ急ぐ様子もなければ、着用しているのも無粋な鎧などではなく 蓮の花の模様が織り込まれた白の直衣に夜目にも鮮やかな常磐色の袴。 衣装からしても骨細い体格を見ても酷く年若い佇まいであったが、その腰にだけ 不似合いな程にずっしりとした豪華な太刀を差していた。 やがて影は、懐から篠笛を取り出して唇に当てながらゆっくりと橋の上に 歩を進めた。 月光が降り注ぐ。 なよやかな笛の音が、天空に昇っていく。 が、橋の半ば近くまで進んだ時。 「・・・・・・待たれい。」 低い人声が、音色を遮った。 橋の、真ん中を挟んで反対側ほどに忽然と現れた仁王立ちの影。 僧形、いや僧兵の出で立ちをしている。 仏衣を纏いながらも鉄の額当てをして背中に長刀を負い、手にも長大な太刀を携えていた。 白い袈裟で頭を包み、鼻より下をも覆っているので殆ど顔が見えない。 ただ、大きい。 容貌魁偉とでも言おうか、本当に一丈もある訳はなさそうだが、得物のせいで 恐らく実際よりも随分大きく見える。 如何にも五条の鬼、或いは天狗法師の名に相応しい漢だった。 ・・・しかし、笛の人物はあくまでも様子を変えない。 目が見えぬのか、頭が少々弱いのかと思わせる、童子めいた仕草で首を傾げた。 さらりと揺れる前髪。 月に照らされたその面立ちは色白く、端正であった。 相手の若さを見て気が咎めたのか、僧形の人物は一瞬怯んだ様子を見せる。 が、引き返すわけに行かぬと決めているらしく 「この橋を渡りたくばその刀を置いていけ。」 続けて大きな声で言って刀を振りかぶった。 それでも笛の人物・・・少年は慌てず、黙ったまま笛の口を拭う。 懐を少しくつろげて笛をしまい込みながらやっと、 「そなたか。五条の夜を荒らす天狗法師とやらは。」 「・・・・・・。」 見た目から想像されるより声が低い。 気が触れている訳ではないらしい。 一向に動じない物言いに、僧形の眉がやや吊り上がった。 「この橋を渡りたくば、その刀を置いていけ。」 「一度で聞こえる。・・・欲しければ取ってみよ。」 僧形は、少年の持つ空気に何か感じたか、それとも幼子を揶揄うようなつもりか、 ふ、と目を細めた後、ぴん!と気を張りつめた。 「では、お手並み拝見。」 そう言うと、構えた大太刀を振りかぶりながら、カッカッカッカッ、と 橋板を蹴って距離を詰め、少年に斬りかかった。 僧形の男の名は、武蔵坊弁慶。 故有って刀千振を奪い取る祈願を立てている。 夜出歩いて通る者より刀を奪うようになってから多くの武者が挑んできたが 誰も彼を倒すことが出来ず、ある者は命を落とし、ある者は刀を置いて 逃げ帰っていった。 やがて、天狗法師は人が敵う筈のない物の怪であるという噂が広まり 五条の夜を歩く者はなくなった。 それでも根気よく歩き回り、漸く九百九十九振集めたのだ。 そして残るは後一振、今夜が満願成就という夜、五条の天神社に詣でて 「今夜の御利益によき太刀を与え賜え」と願った、その帰り道の事であった。 ここでこんなに美しい太刀を持った少年に行き会ったのも天の采配。 己の心の剛さが試されているのだと、弁慶は己に言い聞かせて 躊躇い無くあどけなさの残る頭の鉢を割らんと刀を振り下ろした。 これまで対峙した有象無象のように現実から逃避して固まるかと思われた少年は、 意外にも最低限の動きで素早く小太刀を抜いて構える。 それでもそれごと真っ二つと弁慶が切り込むと、受けると見せかけて身体を捻り避けた。 ガッ! 勢い余った弁慶の、刀が欄干にくい込む。 慌てて抜こうとしたその胸を右足で蹴って、少年が欄干の上に飛び上がった。 「・・・っ!」 これは、ただの子どもではない、 歴戦の勝負勘で察した弁慶は、刀をあっさりと手放して背にしていた長刀に持ち変える。 欄干の上の人物に向かってぐっ、と突き出すが、少年は雲の上でも行くように 軽々と飛び回り、一向捕らえられなかった。 どの位そうしていただろうか。 弁慶に、川に突き落としてしまっては刀が奪えぬという躊躇いがあったのかも知れない。 また、高下駄で器用に丸い欄干の上を走り回る技に、 いつしか眩惑されていたのかも知れない。 しゅ、 眉間に、強烈な衝撃を感じて額を抑えると足元にばらりと見慣れない扇が落ちた。 扇を投げられて、要が当たったのだと遅れて認識すると共に、意志とは関係なく がくりと片膝が崩れる。 一瞬後に目の前の橋板がタンッ!と高い音を立てて鳴り、 喉元に小太刀を突きつけられていた。 この試合いが始まってから初めて、瞼を閉じた。 「・・・・・・参った。」 「そうであろう。」 少年は、息も乱さずごく当たり前のように言った。 恐らく人ではあるまい、と弁慶は思った。 己が最強者であると、増長していたのかも知れない。 それが、天の怒りに触れたのかも知れない。 所詮悲願達成は叶わず、最後の一振という段になって、 こんな人外と立ち合わせるなどと。 仏も存外意地が悪い、と思いながら弁慶は項垂れた。 「・・・存分に。」 「では首を貰おうか。前々からお伽話に出てくる武者のように、 鬼の首が獲りたいと思っていた。」 幼稚な物言いにも顔色一つ変えず、弁慶は一つ頷くと手や背中にあった武器を置き始めた。 弁慶が下駄を脱いで正座をした時、少年の眉が上がった。 「・・・こんなに高いのを履いていたのか。」 「これも修行の為。」 そこには歯高一尺近くありそうな下駄。 重さに負けぬ為か、草鞋のように足に固定する為の紐緒もついている。 そして、袈裟を取ってはだけるとそこには緋おどしの鎧。 「・・・・・・。」 先程まではしゃいだ様子を見せていた少年にも、今や言葉がない。 こんなに重りを身に付け、しかも長刀を背負ってあの太刀さばき。 負けるとは全く思っていなかったが、もし同じ条件であったなら・・・。 しかし少年がごくりと喉を鳴らしたのは、その怖るべき推測のせいだけではなかった。 獣の皮に、鉄板を貼り付けた手甲をするりと抜くと その下から現れた、白魚のような指。 臑当てを取った下の、ほっそりとした足。 そして、重厚な鎧の下に隠されていた・・・しなやかな細い身体。 鎧を支え、大太刀や長刀を振り回していたのだからそれなりに強靱なばねを隠しているのだろうが そうとは信じられぬたおやかさだ。 雪の肌に我を忘れて見惚れてしまった少年の前で最後に、 頭に巻いていた白い袈裟と額当てを取って、首を一振り。 短く切られた髪が、揺れる。 そこに居たのは、白い単衣のみを纏った、もう一人の少年であった。 「・・・その様に年若かったのか・・・。」 「同じ頃であろう。」 弁慶は、多くを語らず薄く微笑むと袈裟を畳み、その上に鎧をきれいに並べて満足すると 橋板の上に正座をして首から大振りの数珠を外し、読経を始めた。 低い声が、夜の静寂を縫っておんおんと響いていく。 好きなときに首を斬れという事だろう。 笛の少年は刀を上げて構えた。 だが。 なかなか振り下ろすことが出来なかった。 「・・・馬鹿力だな。」 間に耐えきれず、と言った様子で呟きを漏らす。 並べられた鎧や下駄を改めて見遣る。 だが、弁慶はやはり答えず読経を続けている。 少年は、何故か無性に苛立った。 「一つ、聞きたい。」 「・・・・・・。」 漸く読経を止め、数珠を小さく一振りして膝の上に置いた弁慶が目を開けた。 「・・・何だ。」 「何の為に、人を殺してまでそんなに刀を集めたんだ。」 「天神様に願を掛けた。」 「坊主のくせに?」 「我が願いを聞き入れてくれるのなら神でも仏でも良い。」 そこで話は終わったとばかりにまたじゃらり、と数珠を取り上げる。 「待て。その願掛けの中身は?」 「聞いてどうする。」 「もし、叶えられる事なら叶えてやる。」 弁慶は「無理だ」と言いかけて、しかしこの少年なら仏に伝えられるかも知れない、 と、ふと思った。 「・・・この世から、戦がなくなるように。」 「その為に、多くを殺したのか。」 「武者ばかりだ。」 元々腕には自信があった。 でも、たった一人だった。 無敗で千本の刀を集めることが出来たなら。 神通力を、或いは心強い味方を得て、万の兵を持つ平家を倒す事も出来ように。 「・・・・・・平家に、恨みがあるのか。」 「恨みはないが、戦が絶えぬのも、多くの民が苦しんでいるのも 清盛公の政に因があると思ってはいる。」 「・・・・・・。」 「現世でそれを正す事が出来ぬのなら、直接神仏に訴えに行くまで。」 死を死とも思わぬ静かな声で言い、再び取り上げた数珠の。 輪の中に、いつの間にか白刃が入り込んでいた。 ぶつ。 「・・・・・・。」 ばら、ばらばら、ばらばらと、珠が飛び散って、橋の両側へと転がり流れていく。 弁慶は、それを見送るともなくただ薄目を開ける。 「先程、存分に、と言ったな?」 数珠の糸を切った刀をだらりと下げたまま、少年が再び話しかけた。 「ああ。敗れたのだから。」 「ではその命、我に預けて貰おう。」 驚いて顔を上げた弁慶の上に、少年がかがみ込んだ。 「おまえが美しいから、殺すのが惜しうなった。」 ゆっくりと押し倒し、まだ重ねられた膝の間に手を割り入れていく。 ざり・・・。 現実離れした夢のような眉目に似合わず、少年の指は河原者の子のように ささくれていた。 それが残酷に、弁慶の意識を現実に引き戻す。 自分に何かしようとしている少年の若さに、そしてその若さに相応しくない 慣れた仕草に眉を顰めた。 僅かに足に力を入れ、煮え切らない抵抗をするが少年の意志の前では如何程でもない。 「足、開けよ。」 それでも少年は、嬲るように命ずる。 弁慶は混乱していた。 彼の頭の中では、神仏の化身や、それらに愛される者はこのような事はしない。 ・・・どれ程の太刀の修練に耐えて来たのかと訝しがらせる、 こんなに乱暴で、節くれ立った指をしている筈がない。 片足を肩に掛けさせ、こんなに足を開かせたり胸に吸い付いたり。 熱い、硬い、肉が、有り得ない場所に、 「俺の刀、欲しければくれてやる。」 直後、馴らしもせずに貫かれて弁慶の思考は止まり、喉から呻き声が漏れた。 長時間に及ぶ橋の上での陵辱が終わった頃、上にいた少年の身体はまだ燃えるようだったが、 弁慶の身体は血を流して冷え切っていた。 「今日の所は、これで勘弁してやろう。」 「・・・う・・・。」 「次に出会ったら、おまえ、俺の家来になれ。」 「出、会ったら・・・?」 「ああ。神仏の導きがあれば、必ずや出会えるであろう。 その時こそは・・・、おまえの願い、俺が叶えてやる。」 「・・・?」 「それまでおまえの命運は俺のものだからな、命を粗末にするなよ。」 「・・・心得た。」 細かく命じながらも、少年はしゅ、しゅ、と手早く身支度を整えていく。 改めて見る女物のように雅やかな拵えは貴種のものと思われたが それにしては、身の軽さも太刀の腕もただ事ではなかったし、言葉遣いも、どこか。 その違和感が、少年を本当の貴族よりも尚浮き世離れして見せていた。 「そうだ、名は。まだ聞いてなかったな。」 「弁慶・・・武蔵坊、弁慶・・・に、ございます。」 「ふうん、良い心得だ。が、そのようなむくつけき名はおまえに相応しくないな。 親から貰った名はそんなんじゃねえだろ?」 「親など、おりませぬ。」 「・・・では、只今から明という名をやろう。」 「・・・・・・。」 「不動明王の明だ。これなら悪くないだろ?俺はそう呼ぶから。」 何を勝手な、と言いたげな顔を一瞬見せたが、弁慶・・・もとい明は、冷たい汗の滲む 額の下で、頷いた。 「貴方・・・さまは・・・。」 「ん?俺の、名は・・・・・・大日如来・毘盧遮那から頂いたと聞いている。」 「大日如来様、とでも呼べと?」 横たわったまま目の光を強くした所を、笑う少年に鞘の先で突かれ 明はぐっ、と呻きを漏らして転がった。 「・・・そうだな、日・・・光り・・・、光で良い。光と呼んでくれ。」 「光、様・・・。して、何処で修行されてあれ程の技を。」 明はこの期に及んでまだ、自分と同じ年頃の若者に負けたのを訝しんでいる。 「俺はね・・・、『天狗法師』とは違って、本当の天狗に剣術を習ったからな。」 「本当の・・・天狗?」 今度は光が答えずに薄く微笑む番だった。 そしてそのまま背を向けて、懐から笛を取り出した。 「待っ・・・、」 差し伸べた手も虚しく、響き始めた細い笛の音と共に、謎の少年・光は夜に消えて行く。 何者なのか。 何故あれほどまでに強いのか。 願いを叶えるとはどういう事か。 一人で倒すというのか?あの少年が平家を? そして天狗とは、一体。 会いたい。 再び会って、その正体や、志や、強さの秘密を知りたい。 けれど、手がかりとてない。「光」という名も本当ではないだろう。 しかし、彼とは今日会ったばかりなのに何故か強い因縁を感じた。 遠からずきっと会える。 明には、不思議な確信があった。 −続く− ※こういうキャストです。 リク主のおくとさんが描いて下さいました! 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