図書館の冒険 3
図書館の冒険 3








「進藤。もう帰ろう」

「何で?」

「気持ち悪いじゃないか。今日はもう帰って、忘れよう」

「何でさー。せっかくこんな面白い場所見つけたのに」

「非常識だ。あってはならない事だよ」

「だからこそ、面白いんじゃん」


進藤は……僕より、思考が柔軟らしい。
そう言えば、棋力では負けていないつもりだが、追い詰められた後の
気持ちの立て直しは、進藤の方が遥かに早い、と感じた事がある。


「これはどうかな……塔矢、日本書紀っていつの話?」

「そんな事も知らないのか?奈良時代だよ。
 続日本紀には、日本初の碁に関する事件も記されている」

「しょく?」

「続、だ。これだよ。ほら」


進藤が見ていた棚から文庫本を取り出し、ぱらぱらと捲る。
歴史に碁が出て来る事は多くないので、よく場所を覚えていた。


「『政事の隙に相共に碁を囲む。語、長屋王に及べば憤発して罵り、
 遂に剣を引き斬殺す』とある」

「へえ〜よく分からないけど、えい!」


信じられない……!
進藤が、内容も理解せずにいきなり僕が読んでいた部分を指差す。
だが、先程の図録と違って文字だし昔の話だし、きっとあのような事は
起こるまいと思った。

思って、いた。


だが。


突然、蝉の声がうるさいほどに耳を打つ。


気付けば、そこは板間の広い部屋だった。
とは言え床はガタガタしていて隙間もあり、随分荒い造りだ。
とても現代とは思えない……。

壁はなく、右手には几帳と言うのだろうか、布を垂らした衝立のような物があり
左手は完全に開いている。

柱の向こうには白い地面、その向こうには森が見えた。


そして、部屋の真ん中には……藁を束ねたようなものが敷いてあり、
その上にとても小柄な人が二人座っている。
間には、小さな木の机。いや、線が引いてあるから碁盤か……
二人はどうも、碁を打っているらしい。

近づいて見たいが、いきなり不審者が部屋の中に現れたら
勿論驚かれるし怖がらせてしまうので、息を殺して部屋の隅から観察する。

二人は男のようだが長い髪を束ね、袖のある貫頭衣らしき物を着ていた。
これは……やはり、時代を超越してしまったのか。

やがて。


「……すくぬ……くぁな……おほくみ……」

「てひ……あすん……くわいへ……」


何か会話が始まったが、方言がきつい地方の言葉のように、
同じ日本人とは思えない程全く聞き取れない。

二人は時折ぴし、と首筋や手を叩く以外は(蚊が止まったのだろうか)
静かに話ながら、ぱちり、ぱちりと石を置いていた。

やがて片方が少し長考した後、ぱち、と石を置いた途端、
もう片方がぬっ、と立ち上がる。


「え……」


横で進藤が小さく息を飲んだのを聞くと同時に、石を置いた方も


「そね……」


言葉を続ける前に、離れて見ていても目にも止まらぬ速さで
棒状の……恐らく剣が、振り下ろされた。


ガキッ!


「ひっ!」


耳の、上当たりから……血、が……信じられない程……

殴られた方は、最初普通に後ずさって逃げたので
意外と傷は浅かったのかと思ったが。
数秒で床にもんどりうち、びくん、びくん、と、恐ろしい跳ね方をしだした。


「……」


初めて生で見た殺人現場に、腰が抜ける。
隣の進藤も、ガタガタと震えていた。


『語、長屋王に及べば憤発して罵り、遂に剣を引き斬殺す』


記録では言い争いの上で激昂して斬ってしまった、といったニュアンスだが
全く言い争っていなかった。
しかも、「斬殺」というよりは、撲殺だったよな……、

などと妙に冷静に考察する自分もいるが、やはり動けない。
ただ、碁打ちの性なのか、血が散った盤面を凝視していた。
現実逃避なのかも知れないが。

と、その時、ガタン、と背後の几帳が倒れた……!


「たはそ!」


振り向いた……髭の男は、小柄ではあったが腹の底から響くような
恐ろしい声をしていた。


「ひっ!」


進藤が、もう一度息を飲む。
震えて、うっかり几帳を倒したのは彼らしい……。


「進藤、進藤、本を、」

「わ、分かっ、」


進藤の、歯の根が合わない。
手も震えて、本を閉じる、というだけの事がなかなか出来ないようだった。


「貸せ!」

「……そなり!しくぁは!」


髭の男が、首からネックレス……石を繋げた首飾りを外す。
そして投げたのは……進藤の右一メートルの所だった。


「とにかく、本を、」


人の事言えないな……。
震えて力が入らない手を気力で押さえ、何とか本を閉じる。

瞬間、瞳孔が対応出来ない程暗くなり、耳が遠くなったかと思うほどの
静寂に包まれた。

元の時代、元の書庫に帰って来た……。
さっきは恐ろしい場所だったが、もっと恐ろしい場面から逃げて来た今となっては
心安らぐ静寂だ。


「蝉……」

「ああ、そう言えば」


あの場所は、終始煩い程の蝉の声に満たされていた。
男が立ち上がっても、剣を別の男に打ち付けても、全く止む事なく。
ただ、蝉は鳴き続けていた。


「……えらいもん、見ちゃったな」

「ああ……でも、あれは、1300年近く前の事件だから……」

「そっか……どうしようもない……ってか、すげえな!」

「ああ?」

「あれ、歴史上の事件なんだろ?すげーじゃん!オレ達!
 こんなにリアルに過去を見た話って、フィクションでは良くあるけど
 実際はないだろ?」

「ないね」


進藤の、突然の興奮に着いて行けない。
つい今しがたまで震えて歯の根も合わなかったくせに。


「すげー!すげー!これ、人類史上の大発見じゃね?」

「そうだけど」

「どうする?どうする?こういうのってどこに言えば良い?警察?」


高揚している所悪いが、僕ははしゃぐ気持ちにはなれなかった。


「どこにも言わない方が良いと思う」

「どうして?」

「何となく」

「は?何それ」


……まあ確かに、論理的に説明しないと分からないか、進藤には。
少しの間、沈思黙考する。


「さっきの事件は、続日本紀に載っている」

「うん、だから行けたんだよな」

「そこには、長屋王の事で言い争いになり、刀で斬った、とある」

「そう、なんだ」

「だが実際はどうだった?言い争いになってないだろ?」

「ああ……」


僕の推理が正しければ。
いや正しいのだろうが、もっと恐ろしい事になる。


「キミ、盤面を見たか?」

「いや、ちらっとしか」

「最後に置いた石が……」


大逆転の、一手。
正直二人とも、大した棋力ではなかった。
一手でひっくり返せる手は双方にあったが、


「まさか、」

「多分そのまさかだ。
 あの男は、碁に負けるのが嫌で、相手を斬ったんだよ」

「嘘……」


確か、あの事件の十年も前に長屋王は死んでいる。
全てが決着した時点で、激高するような事があるだろうか。


「もしかしたら、何か大事な物を賭けた碁だったのかも知れないけれど」

「それにしても……」

「囲碁の魔力、だね。
 『憤発して罵り』と書かれていたのは、僕達に怒鳴ったのを
 誰かに聞かれたのかも知れない」

「……」

「なあ進藤。歴史に関わるって、恐ろしいと思わないか?」

「でも今回の場合は、オレ達が関わったから、歴史書の通り……」

「ああ。関わる事も関わらない事も、歴史には織り込み済みなのかも知れない。
 なら、関わらない方が良いと思わないか?」

「……」

「実際僕達は今、良い気分とはとても言えない。
 過去の悲惨な事件に立ち会うという事を、増やしても碌な事はない」

「……」


進藤は少し考えていたが、やがて無言で頷いた。






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