図書館の冒険 1 その日、図書館に行った事には特に意味はない。 ふと「忘憂清楽集」を見たくなったのだ。 この、最古の棋譜集に収められた対局の一つでどうしても気に掛かる事があり ネットで調べたが何故か棋譜は出て来なかった。 出版物の著作権の関係だろうか。 ならば、その出版物を直接見よう、折りよく今日は休みだし。 と、思い立ったわけだ。 「忘憂清楽集」は当然日本棋院にもあるが、棋院よりも 家の近所の図書館の方が近い。 だから、本当に偶々、図書館に行って…… そして、偶々あの男……進藤ヒカルに出会ってしまった。 「あれ?塔矢じゃん!何してんの?こんなとこで」 「こんなとこって……ここは僕の家の最寄の図書館だが。 キミこそ何をしてるんだ?」 「オレんちの近所の図書館にないのがあってさー、 ここから取り寄せるって言ってくれたんだけど、遠くないから チャリ飛ばして来た」 「へえ……キミが読書って珍しいね。何借りるの?」 「カムイ伝D」 「ああ……そう」 「ひでーよな。五巻だけないなんて」 マンガだよねそれ。 と言い掛けたのを飲み込んで、この施設の見取り図を思い浮かべる。 理由はともあれ、せっかく進藤に会えたのだから軽く一局、と思うが 碁盤があるレクリエーションルームはない。 併設された喫茶店でお茶でも飲みながら目隠し碁、程度か。 いや何より進藤の都合を聞かないとな。 そこまで考えて進藤に向き直ると、彼は既に受付に向かっていた。 「あれ?もしかして三谷のお姉さん?何してんの?こんなとこで」 ……何なんだキミは一体。 同じ科白で次々声を掛けて、まるでナンパ商法みたいじゃないか。 溜め息を吐いて近づいて行くと、自然と会話が耳に入る。 「進藤くん、だよね?久しぶりねぇ!」 「わあ、中一ぶりくらいなのに覚えててくれたんだ!ありがとう!」 「そりゃもう。祐輝が『進藤がプロになったんだぜ、あの下手っぴが』って」 「ひでえ。最初は確かに三谷よりだいぶ下手だったけどさ」 「ふふふ。でもあの子ね、本当に何回も言うのよ。 『プロになったんだ。あの下手っぴの進藤が』って」 「……」 それは。傍で聞いている僕にも分かる。 その三谷と言う人が、口は悪いながらもどんなに進藤の事を喜んでいるか。 「そうかぁ……三谷によろしく言っておいて」 「ええ。今でもネット碁するの?今はお家にPCあるでしょ?」 「うん、ネット碁も……」 言い掛けて、ふと言葉が止まる。 その事によって、そうか、ネットカフェでネット碁をしていた事もあるんだな、 程度に頷いていた、僕の思考の流れも止まる。 待てよ……さっき中一って言ってたよな? それは、進藤が本因坊秀策を思わせる打ち筋で僕を圧倒した時と、 あまりにも初心者な棋力で僕を落胆させた時の間くらい……。 「進藤!」 「ああっと!三谷のねーちゃん、コイツ塔矢って言って、コイツも プロ棋士なんだ。もうすぐ名人!」 「へえ!凄いんですねぇ!あ、はじめまして。 進藤くんの友人の姉です……って、遠いね。 進藤くんが昔行きつけだったネットカフェの店員です」 「……はじめまして。塔矢アキラと申します。 名人だなんて……偶々挑戦者にはなれましたが、結果は惨敗ですし」 「やっぱり棋譜集を探しにみえたんですか?」 「三谷のねーちゃん」さんが「まさかねー」といった冗談めかした笑顔で言うが、 「はい……『忘憂清楽集』を……」 「やだ、ごめんなさい。『忘憂清楽集』ですね、少々お待ちください」 彼女も気まずそうに事務的な科白で答え、慌ててPCに向かった。 「ええっと……『忘憂清楽集』が収録された本が閉架書庫にありますね」 「陛下?」 「違うわよ。職員しか入れない、あまり借りられない本とか 貴重な本がある書庫よ」 進藤がバカな事を言うのに真面目に答えながら、手招きをする。 僕達が顔を近づけると、 「普段は一般のお客さんは入れないんだけど、今日はお客さんも職員も 少ないからいいよ。プロの棋士さんだからって説明しておく。 うち、貴重な古い棋譜集も案外あるからゆっくり見て行って」 そう言って片目を瞑った。 先程の詫びだろうか、さして失礼な事をされた訳ではないので気が差すが。 「どうしよう」 「そりゃ、普通行けない秘密の場所に誘われて行かなきゃ男の子じゃないだろ」 「そんなに怪しい場所じゃないわよ〜 ……まあ、あかずの間みたいな所もあるから保証はしないけど」 笑いながら言われたが、進藤は既に僕の手を引いてカウンターの中に 潜り込む。 ってキミも行くのか! 「あ、一応鞄は置いて行ってね。貴重品はポッケに持って」 「三谷のねーちゃん」さんに渡された書庫の地図と、棋譜がある場所のメモを 握り締めながら、進藤と僕はカウンター奥のエレベータに向かった。
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