敦煌【後編】








趙光はそれから五日ほどを無為に過ごした。
槐樹の下で眠りこけては夢の中で佐為との肉欲に溺れ、目覚めては
あの黒髪の奴隷の顔がちらついてならなかった。

六日目、遂に趙光は意を決して町に向かった。
そしていつかの奴隷市場までやって来た。
相変わらずあの背の高い男が、やる気があるのかないのか分からない様子で
奴隷達の前に立っている。
六日間で、奴隷の顔ぶれもだいぶ変わっていた。

あの黒髪の娘はいなかった。

「こんにちは。」
「ああ、この間の坊ちゃんか。」
「あの子は・・・?」

またあの苦い笑いを見せる。
懐から何かの葉を取り出して「やるか」と言ったが、分からなかったので首を振ると
丸めて筒状にしてから傍らの篝火を移し、反対側に口を付けて煙を吸い込んだ。

「売れ、ちゃったの・・・?」

男はまた笑いながら首を振り、小屋の裏の路地に向かって「明珠!」と叫んだ。
みすぼらしい服装の少年が水桶を抱えたまま現れた。

「あれ・・・?」

袖口の擦り切れた着物の片袖を抜き、汗を流しながら水を運んでいるのは明らかに
少年であった。
しかし埃を被ったまま後ろで束ねられた髪は、元は真っ直ぐで艶やかに違いなかった。

「何だ、キミか。」
「お・・・、おまえ、男だったのか!」

奴隷売りの男に聞いた所によると、美しいし血筋の良い子なので肉体労働には不憫と
あの囲いに入れていたとの事だった。
しかし客がついても男だと分かるとなかなか売れなかったので下働きとして使う事にしたと言う。
着飾りもせず汚い格好のまま肉体労働に従する明珠と呼ばれた少年に、奴隷として
売られていた時の、少女だと思いこんでいた時の妖艶さや神秘は感じられなかった。
しかも相変わらず奴隷なのに生意気で高慢で、趙光を見下した物言いをする。
腹が立って腹が立って仕方がない。

仕方がないのに、趙光は何故か明珠から目が離せなかった。
女でなくても、全くがっかりしない。
やはりどこか佐為の面影があるような気もした。

「あの、やっぱりアイツ売ってくれないかな。」

奴隷売りの男に頼んだが、困ったような顔をして煙を吐き出すと

「悪いが、もう売り物にならないんだ。」

そう言って明珠に近づき、指でその白い顎をぐい、と持ち上げる。
明珠は憮然とした表情だったが逆らわなかった。

「何で?オレ、別に男でもいいんだ。っていや、そういう目的で買う訳じゃないし、」
「手を付けてしまったんだ。」
「え?」
「オレがうっかり商い品に手を出してしまった。うちは新物を売るのが身上だから
 もうコイツを売り物にする訳には行かない。」

呆然と開いた趙光の目が、まだ顎を持ち上げられたままの黒い瞳と合う。
そこに浮かんだのは蔑みのようでもあったが憐れみのようでもあった。
何れにせよ、それが誰に向けられた物なのかは分からなかった。


その晩、趙光は恐ろしい夢を見た。
いつも通り佐為と戯れた後、気怠く幸せな時を過ごしていると、突然扉が開いて
魔が沢山入ってきたのだ。
魔達は佐為に目もくれず一目散に趙光の元に来ると、乱暴に縛り上げて
順番に犯した・・・。

「ひっ!」

自分の悲鳴に目が覚める。
東の空は白みかけているが、人々が起きて活動を始めるまでには今少し間がある。
いつも通りの静かな僧坊であった。

趙光は、自分が狂いかけていると思った。
そして自分を救ってくれる者があるとしたら、佐為か、でなければあの明珠という
奴隷しかいないと思った。
「命運」
また、最後に父から聞いた言葉を口の中で繰り返しながら、慌てて身支度をして
薄暗い道を奴隷市場に向かった。



「言って置くが。」

縛られたまま僧坊に連れてこられた明珠は、火を噴きそうな目で趙光を睨み付けた。
朝早く起こされて不機嫌な奴隷商人に、金貨十枚を出すからどうしても売ってくれと
ねじ込んだのだ。
男は、前も言ったように売るわけには行かないし明珠にもその気がないから商売ではなくただで譲る、
その代わりその後逃げようが死のうが文句を言ってくるなと言って手早く明珠を縛り上げ、
あっさりと趙光に引き渡した。

「言って置くが回鶻族を見損なって貰っては困る。あの男に身を許したからと言って、
 おまえみたいな子どもには絶対にされない。抱きたければ殺してから抱け。」

趙光はまた目を見開いて、ぷ、と噴き出した。

「何がおかしい!」
「いやだって、オレと同じくらいの歳だろ?そんな抱くとか抱かれるとかさぁ。」
「キミには分からない。」

確かに明珠がどんな辛酸を嘗めてきたか、趙光には分からない。
だが、それは逆とて同じ事だった。

「あ、それとさ、さっきのセリフ、オレの母さんが言ったのと同じなんだ。」

“西夏の女を見損なうな。買うならばらばらにして買って行け。”

「キミの母・・・?」
「うん、オレ、実は宋の都の産まれなんだけど、母さんはそこで売られていた西夏人らしいんだ。」

肉を切り売りされそうになっていた、とは言わなかったが、明珠は眉を顰めた。

「何か罪を犯して、それで売られたらしいけど。」
「どんな罪だ?」
「さあ・・・詳しくは知らない。」

本当は知っている。他人の夫を寝取ったのだ。
だが、母の恥を敢えてさらす気にはなれなかった。

「そうだ、後で水を瓶に入れておけよ。」
「・・・キミは、私を奴隷として使うつもりか?」
「え・・・だって。」
「キミは私の代価を払っていない。私はキミの奴隷じゃない。この縄も今すぐ外して貰おうか。」

どうだろう。奴隷として譲られたのだから奴隷ではないかとも思うが、今はこの少年と
諍いを起こしたくない。
趙光は慌てて縄を外し、その腕をさすった。

「あの・・・前言ってた、回鶻の王族って本当?」
「是。」
「王子って事?」
「母が、可汗の妹だ。」
「ああ!で、父親が漢人なんだな?」

明珠はあからさまに不機嫌そうな顔になって黙り込み、すっくと立ち上がった。

「待て!待って、行かないで・・・。」

趙光が思わず一緒に立ち上がって手首を掴むと、少しだけ眉を開いて体を洗いたいだけだから
水場に案内しろ、と小さな声で言った。

二人で町から少し離れた人気のない井戸まで行って、体を洗った。
明珠の体は美しく、洗い髪はやはり鴉の羽のように黒い。
趙光は約束通り、というか最初からそのつもりもなかったが、指一本触れなかった。

「回鶻は・・・」

隅々まで洗い終わった頃、明珠がぽつり、と語りはじめた。

「私が産まれ育ったのは甘州だが、そこにある日西夏軍が攻め入ってきた。
 母は陵辱を恐れて自害し、私は捉えられて売られた。」
「回鶻の王族で生き残っているのは恐らく私だけであろう。」

淡々と一族の滅亡を話し、そこに感情は見受けられない。

「だが、王族が滅びても回鶻は滅びない。」

宋の都に育った趙光からすれば回鶻も西夏も同じ様な物に感じられる。
この少年の持つ誇り高さを母も持っており、それに父は強く惹かれたのであろうと
思った。

「あの・・・お父さんの事、聞いてはいけない・・・?」

明珠は洗った服が乾いたかどうか確かめながら、またあのちらりと蔑む視線を寄越す。

「気になるのか。」
「あ、うん・・・。オレもやっぱり、漢人の混血だしさ・・・。」

官吏の子だというのは、言わない。明珠は何故か漢人を嫌っているようで、
あまり宋の話はしない方が良いようだ。

「父は、宋から経典と勅旨を持って敦煌に旅をする使者の隊長だった。」

美しい男だったという。
途中、甘州の城に滞在した時に、可汗の妹(当時の可汗の娘であった)に見初められた。
回鶻の宝玉に目が眩んだ男は使節隊を別の男に任せ、可汗の婿に収まった。
当初二人は仲睦まじかったが、ある時、西夏の奴隷女が現れてから雲行きが怪しくなったらしい。

西夏の女は男を誘惑し、二人は密通した。
王族の娘の婿に、妾などというものは考えられない。

他人の夫を、しかも主人を王族を寝取った女は捉えられ、売女として犯された。
その場で裂刑に処されても良かったが、男が必死で庇って国境に逃がしたらしい。
それがまた妻の怒りを買い、二人の仲は冷え切っていったという。

「私が生まれたのが不思議な位だったそうだよ。」

明珠が自嘲するように唇を歪めた。

「私も母から聞いただけだが、父のだらしなさは許せない。しかしもし、その西夏の
 性悪女さえいなければ、一族も私の子ども時代も幸せなものであったかもと思うと
 殺しても殺し足り・・・どうした?」

趙光が、紙のように白い顔をしている。
唇がふるふると、震えた。
西夏の女の話を聞いている内に、趙光は何故か佐為との夢を鮮明に思い出していた。


・・・いけないとは思っても、佐為を慕う気持ちは止められなかった。
佐為だって、それが不義だと分かっていた筈なのに、抱かずにいられなかった。

 出会うのが遅すぎた。
 王族と結婚する前であったら。ただの旅人であった時ならば。

  いつか奥方様に分かる日が、破滅する時が来ると分かっていたのです。
  王族と奴隷の恋など有り得ない。

    ではこの気持ちは何だと言うのです。
    どんなに惨い死に方をしようが地獄に堕ちようが、私はただ一度
    あなたをこの腕に抱くことが出来たら。

      なりませぬ、なりませぬ、私こそ奴隷なのだから命などないようなもの。
      けれど貴方は・・・。

    一生の恋です。妻には申し訳ないと思っている。
    けれど、あなたが死んだら私も命を絶ってあなたを追います・・・。


「だめだっ!」

「キミ?」

趙光は、少しの間意識を失っていた。座り込んで手をみるとじっとりと汗で濡れている。
辺りを見回したが、槐樹はないようであった。
だが、趙光は鮮明に思い出していた。
最初の日の夢で佐為から逃れて水辺を覗き込んだ時。

そこに映っていたのは漢人の少年ではなく、同じ色の髪を持ち彫りの深い顔をした女だった。


「どうした?」
「おまえの・・・・・・父の、名は。」

何を不躾な、と気色ばみかけた明珠は、しかし趙光の唯ならぬ様子に気圧されて
素直に答えることにした。

「張・・・。張、佐為。」
「さい、か・・・。」

趙光は確信した。
明珠の父を、佐為を寝取った女というのは、間違いなく母だ。

母が誘惑した訳ではないのだ。
心底佐為を慕っていたからこそ、決して触れまいと心に誓っていた。
だからこそ逃げて逃げて・・・。
なのに。

分からない。
確かに自分は夢の中で佐為と交わった。
佐為から逃げることを止めたのは、自分だという確信もある。

あれはただの夢だったのか。

それとも本当に母の過去に入り込んでしまったのか?
母の心に割り込み、そのタガを外したのは自分なのだろうか。
だってその時は知らなかった。それが許されぬ恋だなんて。
もし夢の中で自分が身を許さなければ、二人は密通しなかったのだろうか。
そうすれば母は追放される事もなく、

自分も生まれなかった。

・・・馬鹿馬鹿しい。
趙光は苦笑して考えるのをやめた。
佐為と母が愛し合ってしまったから、結果として自分が産まれたのだ。
自分は佐為の子ではないが、二人の不義の証である。

「佐為は、父君はどうされた。」
「死んだ。五年前の宋との戦で。」
「そうか。」

驚きはない。少し前からそんな気はしていた。
そう言えば佐為は父に恩があると言っていたが。
それは恋人の、母の命を助けた事であろうし、趙光を守ってくれたのは
彼女の血を引く者だからだろう。

しかし少なくとも明珠が産まれる程までは、佐為は妻と一緒に甘州にいたのだ。
母が流れ流れて趙行徳の妾宅で趙光を産んだのもその頃の筈だ。

本当なら、佐為が母の末路を知っている筈がない。
思えば趙光と同道していた時の神出鬼没さ、不意に興慶の市場で声がしたこと、
自由すぎた。佐為。

既にこの世の人ではなかったのだ。

そうすると趙光はしばらく幽霊と共に旅をしていた事になるが、恐ろしいとも不気味だとも
思わなかった。
回鶻の姫と結婚しながら西夏の女と情を通じた漢人。
最後には祖国の軍と戦って死んだ。

それが再びかりそめの姿を甦らせて趙光の前に現れたのは・・・。
西夏までの道中を守り、夢に現れたのは。

・・・いや、父が形見の布片をくれたのも、
槐樹の木の下で眠りこけて安辺策の夢を見たのすら

何もかも、自分を明珠の元に導く為の布石だったのではないか?


「命運。」


不意に呟いた趙光をまた明珠が訝しげな目で見つめる。
涼しげな、佐為に似た黒い瞳。佐為と同じ真っ直ぐで艶やかな髪。

「・・・オレ達が出会ったのは、必縁だ。」
「は?さっきからキミは全く訳が分からない。だから悪いが私は、」
「血が、呼ぶんだ。」
「・・・・・・。」

ずっと以前から、おまえを待っていた気がするよ。
おまえに出会う為に生まれてきたような気がするよ。

「なぁ。佐為が行こうとしていた敦煌に、オレ達行かないか?」
「え?宋に帰らなくていいのか?それに、キミは父を知っているのか?」
「ん〜、とな・・・。」

いつかは宋に、明珠を伴って宋に戻ってもいいとは思う。
でも今は母の血が、西夏の血が、白草の平原を呼ぶ。

いとしい人を、明珠を、明珠の中の佐為の血を呼ぶ。



二人は僧坊に戻って旅支度をし、西の平原に向かった。

黄色味がかった砂塵の膜が地表を舐め、足元に近づいてくる。
趙光は、どこまでも続く白い地平を眺めていた目を細めて襟巻きを鼻の上までたくし上げた。

隣には同じく日よけの套を纏った明珠。

まだその表情は硬い。
趙光がどういった人間なのか計りかね、自分を強引に手に入れた理由や
何故佐為を知っているのか聞き出そうと間を測っている。


趙光は、沙漠に槐樹繁るオアシスを見つけたらその下で休み、
母の形見の布片を見せてゆっくりと話そうと思った。

父の見た夢の話から始めようか、それとも自分が見た夢か。
自分が、佐為を寝取った女の息子である事。
けれど、二人が本当に愛し合っていた事。

明珠は何とするだろう?

母の血が、趙光を殺そうとするだろうか。
父の血が、趙光を愛そうとするだろうか。


いずれにせよ

    乾いた内陸の風が、馬の鬣を靡かせる。


「命運。」


趙光はもう一度呟くと、馬の尻に鞭を当てた。
明珠も無言で従った。





この時、既に敦煌は西夏の手に落ちていた。
大国となっていた西夏はこの直後国を「大夏」と号し、完全に宋との国交を断つ。
宋はその翌年、西夏皇帝李元昊の首級に賞金を掛け、大陸の歴史は大きくうねり続ける、
そんな時代であった。


その中で二人の混血の少年が如何なる運命を辿ったのかを知る者は、ない。







−了−








※19万打踏んで下さいましたaki さんに捧げますリクエストSS。
  リクエスト内容は 


  井上靖の「敦煌」的なヒカアキをお願い致しますv
  というよりも、シルクロードで中国的なイメージが希望です。
  更につっこみますと、奴隷として売られているアキラさんをヒカルが買うというシチュエーションが見たい!
  熱くて爽やかな純愛文学でリクエストです。

  ええっと。敦煌的というか、敦煌のパロですね。
  今回リクエストを頂いて読んでみたらあまりにも面白くて影響を受けすぎてしまった。
  最初は井上靖調の文体も意識してみたのですが、これはすぐに挫折しました(笑)

  光の父役、趙行徳は「敦煌」の主人公です。
  最初の西夏の女を助けるエピソードもオリジナルからお借りしました。
  で、原作では女と何も関係せずすぐに別れて本人が西夏に旅立つのですが、
  そこからはほぼ井上靖から離れてヒカ碁パラレルになります。
  (遂に書いてしまった碁が出てこないヒカ碁話)
  これから、って所で切ってすみません(汗)。

  熱いかなぁ。爽やかかなぁ。純愛文学かなぁ!
  何かと微妙・・・?こんなんで良かったですか?

  aki さん、御申告と素敵なリクエスト誠にありがとうございました!







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