The World WarU PacificOcean 9
The World WarU PacificOcean 9








9・柿





「やれやれ・・・スペンサー教授も厄介な頼みごとをしてきたものだ・・・。」

シンドーとつまらない約束をしてしまった。
痩せ細った体とは裏腹に、いつこちらの寝首を掻くか判らないあの獰猛な目をした美しい獲物が、誇りも何もかも捨ててオレにむしゃぶりついてくるからだ。
体中を隙だらけにして、「トーヤトーヤ」と聞きたくもない名前を連呼するから、言う必要もないオガタ来訪の話までしてしまった。

・・・・バカバカしい。

あんな子供、もういらない。

オガタにでも何にでもくれてやる。



高永夏は、苛々と葉巻の先に火を点けた。





その男は、一見無国籍風で、職業も判然としない出で立ちで収容所に到着した。 収容所長との面会の約束も正規に取り付けてある。
白い麻のスーツを身に纏い、眼鏡をかけたその男緒方精次は、一人で収容所に到着し、一人で高永夏の前に立ちはだかった。

「随分とお上品な英語を話すんだな。どこで習った?」

緒方の挨拶を聞くなり、開口一番永夏はこう聞いた。

「・・・開戦以前に東部の大学にいた事がある。」

ボストン訛りか・・・いいご身分だな。

聞こえるように一人ごちる。

「そこでスペンサー教授と知り合ったのか?」

「そうだ。君は?」

「ウエストポイントの客員教授をされていた頃に。随分可愛がって貰った。」

今度は緒方が俯いて小さく笑う番だった。

「どう可愛がって貰ったのか詳しく教えて欲しいところだな。」

永夏の両手が二人の間に置かれた机に叩き付けられた。

「いい加減にしろ!オマエは自分の立場が判ってるのか!?」

緒方精次は椅子に深く腰掛けなおし、持参した煙草に火を点けて一息吹いた所で答えた。

「もちろん判っている。子供のけんかをしに来たんじゃない。これは外交だ。」



―――――― これは外交だ。

しかも状況が日本側に不利な事を、緒方は痛いほど認識していた。だからこそ盤外戦もしかけなければならない。
彼らの共通の恩師であるスペンサー教授はアメリカ人ではない。
イギリスの由緒正しい家柄に生まれ、英国海軍の提督にまで登りつめた男である。その彼は現在米政府の招きにより、アメリカシンクタンクの一員としてこの戦争の成り行きを見守っていた。

そして彼にはもう一つの顔があった。
天皇ヒロヒトの個人的な友人でもあったのだ。

「まだ皇太子だった頃の話だ。陛下がヨーロッパを遊学された事は知っているだろうか?」

「教授から聞いた。ヒロヒトの弟が開戦に反対だった事も、停戦に奔走している事も聞いた。だが・・・実際に動いているのはオマエたちみたいな下っ端だったり、それに・・・その弟とやらの私生児なんだろ?」



こいつはわざとこういう皮相な物言いをしている。

ヒロヒト、と陛下を愚弄し、弟宮の庶子である芦原のことまで「Love Child」と悪し様なスラングで貶める。

・・・教授に聞かされていた人物とは随分感じが違う。まるでオレに個人的な恨みでもあるかのようだ。ここは思い切って早めに手を打った方がいいのかもしれない、緒方は思った。

「陛下が、弟宮の奏上を取り上げられた。もはや皇室はこれ以上の戦闘を望んでいない。ここに・・・密書がある。陛下にはご自分のお命を殉じ奉る御覚悟がある。・・・秘密裏に、停戦に持ち込むことは出来るだろうか。」

「・・・ヒロヒト一人の命と引き換えにこの戦争を終わらせられるとでも思っているのか?」

「弟宮が直接スペンサー教授と連絡を取っておられる筈だ。他にも、日本が受諾できる条件がある。その情報の信憑性が疑われるから、君と私の会見が用意されたのではないのか?」

「アメリカの情報網を甘く見るなよ。・・・・・・それにそんな大事な会見を、アイツラが東洋人二人に任せる筈がないじゃないか。」

永夏は、机にひじをついて面白そうに笑い始めた。

「それなら・・・何のために?」

「時間稼ぎだよ。・・・・知らないのか?ヒロシマに新型の爆弾が投下されたのを。」

愕然としている緒方を尻目に永夏は更に続ける。

「判らないのか?トルーマンは、もう平和裏の停戦なんか望んじゃいないって。ここまでアメリカ兵を投入しておいて相手の条件を勘案して停戦、じゃ格好がつかないだろう?・・・・そのプリンスなんとか達もヒロシマにいたんだって。今朝、教授からテレグラムが届いた。米政府には平和を望んでいる宮家なんて邪魔なだけなんだ。判ったでしょ?もう日本はね、条件、なんて言える立場じゃないんだって。」



・・・・負けた。

初めからハンデがあることは判っていた。それを承知の上で、それでも八方手を尽くそうと思っていた。
圧倒的な力の差を思い知るような、こんな負け方をしたのは緒方にとって生まれて初めての経験だった。
それでは、自分は、芦原は・・・芦原の命を受けて各隊に散っていった彼らは、何のために戦っていたのだろうか。

「まあ、そんなにがっかりしないでよ。まだもう一つ目的があったんでしょ?碁の強い日本人捕虜を探してる、とか。」

そんな瑣末事まで知られていた。
緒方はこの時、新しい戦いが情報戦によっていかに左右されるかを身を持って知った。

「・・・・・いるのか?」

「さあね。いるような、いないような。・・・・・そうだな、オレと碁を打たないか?オマエが勝ったら・・・教えてやってもいい。」

鼻歌を歌いながら、永夏は碁盤を用意し始める。



いとしいリリィ・マルレーン・・・・・・



「いい声だな。聖歌隊にでもいたのか?」

緒方の問いに永夏はつまらなそうに答えた。

「コリアンってのはね、案外カトリックが多いんだ。でも、移民の子供を受け入れてくれる聖歌隊なんてアメリカにはなかったね。」





いつしか、永夏の口から鼻歌が漏れることはなくなっていた。

コイツは強い。

軍人としての目的を遂行できず、オレにあそこまでコケにされておきながら、何故こうまで強いのだろうか・・・。

コイツは何が目的でシンドーを探しているんだろう。

「お願いだから。」

お願いだから緒方少佐に会わせてくれ。シンドーはそう懇願していた。コイツはシンドーの何だ?

「・・・・・・何だ?」

緒方が顔を上げて問い掛けた。

「そんなに凶悪な顔つきをしてオレを見るな。」

そして、勝負を分ける一手を放った。





情報。

武器、弾薬すら十分でなかった日本軍が、情報の大切さをどこまで理解していたかは判らない。
けれど、ジャングルの中から独自の嗅覚で、終戦を嗅ぎ分けていた男がいた。

「よーし、撤収開始するぞお。」

はあ?
あちこちで玉砕戦が始まり、各部隊全滅の噂が流れてきたこの緊張下に、倉田は間延びした声で命令を下した。

「あ?、オレのカンじゃ戦争が終わるまであと8日か9日、ってとこだな。だから、このままジャングルにいても食う物も届かないし、死んじゃったりするからさあ。今日、日が落ちてから海岸線に向けて撤収を図る。さすがにまっすぐは進めないから、ちょうど日本が降参した頃にあっちの陣地に着くように・・・。ん?まあ半年くらいは収容所暮らしするかもしれないけどさ・・・。それでオマエら日本に帰れるよ。」

わあっ!と辺りから歓声が響いた。多くの兵士達はもはやここを死地と定め、玉砕覚悟で行軍していたのだ。

だが、倉田にもヒロシマ、そしてやがてナガサキに落とされる事になる新兵器を読む力はなかった。彼がそれを知っていたら、停戦までの日数をもう一日短く数えたかもしれない。

その一日の齟齬が、倉田隊・・・・ヒカルが収容されていた場所とはまた別の、後の資料によれば捕虜に対しての扱いがかなりゆるやかであった収容所に収容され、奇跡的とも言える生還率を誇った隊と、進藤ヒカルとの邂逅をかなわぬ物にしたのである。







アキラは孤独だった。

表向きは、「士気を低下させる腐ったミカンを排除する」という目的で戦地に放たれた彼らの任務は、実際はその全く逆、即ち「徒に特攻精神を発動し、若き兵士を死地に赴かせる上官を排除せよ」であった。

「草の根作戦みたいなんだけどさ・・・もうね、軍部には誰も意見できないんだよな。」

芦原はそう言ってため息をついていた。とにかくもうすぐ戦争は終わるから、それまで何とかむざむざと若い兵士達を死なせないように・・・『それが進藤君への供養にもなるから。』芦原の目はそう言っていた。
けれど、御器曽を前に権力を行使したときの不快感は拭えなかった。



あの時ボクは私怨だけで動いていた。
御器曽がこれから出陣させる兵士の事なんてどうでもよかった。
芦原さんたちが心を砕いて、一人でも無駄な犠牲を出すまいと奔走しているというのに。
あんな形ではなく・・・いっそ自分の手であいつを殺せていたら、ボクはどんなにか幸せだっただろう・・・。



海を眺めながらぼんやり考えていると、耳の横をヒュン、と音を立てて何かが掠めた。

「敵襲だ!」

護衛兵達が叫んで立ち上がる。

「バカ!・・・・あいつ、こんな所でまで白なんか着てるから!命取りになるだろうが!」

アキラたちからは死角になって見えない場所に潜んでいた伊角が走り出した。

「塔矢さん!危ない!」

必死に後を追う和谷の目の前で、信じられない事が起こった。



伊角が、アキラをかばうようにして被弾したのである。



アキラは自分に向かって走ってくる青年が、途中で何かの冗談のようにゆっくりと倒れるのを呆然と見ていた。

あの顔は・・・見覚えがある。

確か、内地で・・・・・

「触るな!!!!」

血まみれの伊角を抱き起こそうとしたアキラに向かって怒声が飛んだ。

「オマエの汚い手で塔矢さんに触るな!!」

怪訝そうにアキラが顔を上げる。

「和・・・・谷・・・・。」

「何?塔矢さん、喋っちゃダメだ!」

「すまん和谷。・・・・・・オレは『塔矢』じゃない。ほ・・・本田の話をもっと・・・聞きた・・・。

オレ・・・オレが・・・『いす・・・み・・しん・・・・・・」

「塔矢さん!?塔矢さん、しっかり!!」

和谷は混乱する頭のままで伊角を抱きかかえた。

遠くから狙撃されているらしく、敵の姿は見えない。護衛兵達は、アキラ伊角和谷の三名をかばい抱えるようにして海岸線に向かって走った。

・・・・・悪い夢を見ているようだ。

自分達を守りながら、そう年の変わらない兵士達が一人、また一人と敵弾に斃れていく。アキラには、その兵士の一人一人がヒカルに見えた。



「やめろ!もうやめてくれ!!!」

ついに顔を覆ってその場に崩れそうになるアキラを和谷が張り倒した。

「フザケロ!ちくしょう!オマエなんかのためにこの人が死んだらどうしてくれるんだ!」

膝を着き視線を落としたまま、アキラは和谷に問い掛けた。

この人は、君の大事な人なのか、と。







「洪秀英二等兵を呼んでくれ。」

永夏はインターコムに向かって部下を呼び出した。

「・・・・・秀英か?シンドーに伝えろ。『シスコのロブスターは美味い。』と。荷造りをさせろ。二時間後に出発だ。」

インターコムから、どういうことですか!?所長!という切羽詰った声が聞こえてくるのを無視して、永夏はスイッチを切った。

「・・・・・どういうつもりだ?」

緒方を見て、永夏は口の端を曲げて笑った。

「ちょっとイジワルしただけさ。・・・・・かまわないだろ?どうせ二時間後には天国にいるような気分を味わえるんだから。お楽しみの前にスパイスを効かせてやっただけじゃない。」

どうせ二時間後にはシンドーはもう自分の手の届かないところに行くのだから。

「とにかく進藤を返してもらえればいい。港に停泊中の郵便船で待っている。・・・・オマエの誠意を信じていいんだな?」

「オレの誠意ね・・・。まあ、あとはシンドー次第だな。」

そう言って永夏はさっさと行け、とばかりに緒方に向かって手をひらひらと振った。今の緒方にそれ以上の追及が許される筈もなく、未確認情報ながら何らかの戦果を得ることが出来た事のみに自分を満足させてこの場を立ち去る事しかできなかった。

そして同じ頃、永夏の命令を受け取った秀英はその伝令役を勤める自分を呪っていた。



移民の子として生まれながらも、優秀な頭脳と様々な才能に恵まれた永夏は、秀英が心から慕える上官だった。やがてはペンタゴン入りして、韓国系としては初めてそのトップにまで辿り付ける可能性を孕んだ眩しい存在だったのだ。・・・・けれど、東洋人の永夏が頭角を現せば現すほど、陰湿な妬みや差別も大きくなっていった。

幸い今まで永夏はあのブタ野郎たちに尻尾を捕まえられることはなかったけれど・・・。

永夏とヒカルを巡る噂は、秀英の耳にも届いていた。

「だからやっぱり黄色いヤツは黄色い肌が恋しいんだって。」

「そんなにイイならオレたちにも味見させてくれればいいのに。」

「よせよせ、サルの病気が移ったらどうするんだ!」

今ですら聞くに堪えないのに、永夏はこの上シンドーを本国に送還させてまで関係を続けるつもりなのか・・・。

秀英は鬱々としながら永夏のキャビンのドアを開いた。
ヒカルはシーツにくるまったまま眠っていた。
その悩みのなさそうな姿に激しい怒りを感じて、秀英はヒカルのわき腹を蹴った。

「起きろシンドー。二時間後に出発だ。余程永夏に気に入られたようだな。」

ヒカルは一瞬で秀英が言っている事を理解した。

永夏は嫌いだ。

アイツとは、同じ条件で、こちらの調子が万全の時に向き合ってもまだ今のオレには半歩足りない。

永夏の裏をかくことは、今のオレには不可能だ。

でも、コイツなら・・・・?

「・・・・どうやって気に入られたか知りたいか?」

ヒカルは、秀英に向かってその剥き出しの腕を伸ばした。



秀英には自分に何が起こっているのか全く理解できなかった。

自分がなぜヒカルにのしかかられて、ヒカルの手が自分の服を剥いで・・・そしてあちこちを撫で回し始めたのか混乱した頭の中で必死に整理しようとした。

・・・だから永夏がいつもオレにこうしているんだ。

ヒカルの手が秀英の中心に触れて、緩慢な刺激を与える。

・・・気持ちいいだろ?

まだ未成熟な性器を口に含んで秀英の反応を確かめる。

・・・オマエの大事な上官が、オレ相手にこんな事してるなんて想像できないだろ?

耳元を舐め上げるように囁かれて、秀英は直感した。

この男は危険だ。これ以上高所長の側に置いてはならない。所長は研修目的でここにいるに過ぎない。これから羽ばたいて行く人間なのだ。

そして不幸な事に二人の利害は一致していた。

「四階のダストシュートまで走れ、シンドー。2時丁度にシュートの真下に止めてあるトラックがジャングルまで中身を捨てに出発する。」

あられもない姿にされ、ヒカルに全身を愛撫されながら途切れ途切れに秀英が語った言葉を拾い集め、ヒカルは手近にあった服を纏うと脱兎の如く駆け出した。





ようやく川を見つけて、岩場に腰を下ろしたのはジャングルの中を三時間も彷徨った後だったろうか。

ヒカルはしっかりと紐に結んで首にかけていた小さな二つの石を、川の水で丁寧に清め、乾くようにと岩の上に並べた。うじが湧いて、ぬるぬるとすべるダストシュートの中を通り抜け、残飯の山と積まれたトラックの荷台の中に隠れ、そのままゴミと一緒に一時間近く潜伏し、今またジャングルの中を駆け回り、ヒカルの疲労は極限に達していた。

ごめん塔矢。ほんのちょっとだけ。

ちょっとだけ眠ったらまた走るから。

走ってオマエの所に帰るから。

だからちょっとだけ眠らせて・・・・・・・・・。

ジープのエンジン音が響いても、ヒカルは目を覚まさなかった。

「見つけた。まるで『谷間の百合』だな・・・。」

永夏はくつくつと笑ってヒカルに近寄った。

逃げられれば追いかけたくなるでしょ?

追いかければ捕まえたくなるでしょ?

もう郵便船には間に合わない。

可哀想なオレのリリィ。

永夏は愛しそうにヒカルの顔に頬を寄せた。



翌日、ヒカルが辿り付いた時とまさに一日経たのみの同時刻、倉田隊はその岩場で休息を取っていた。

「中隊長!見てください、この石!」

門脇が興奮したように岩の上から見つけた何かを倉田に見せた。

それは、長い間をかけて人の手で丁寧に磨かれたかのような、奇跡のような黒石と白石であった。





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