The World WarU PacificOcean 5 5・柿 あの日から、ボクの心は石になった。 どんな物にも動じない。 例え、名誉の戦死と称えられ、氏名が書かれた一枚の紙片が入ったのみの骨壷が村の公道を通り過ぎようとも。 ボクの目も耳も何も感じ取る事はない。 毎朝回診に病室を訪れる医師が、どんなに痛ましそうな目でボクを見ようとも。 ボクは、自分と進藤二人だけの世界に暮らしていた。 雨の夜には進藤がボクの体を辿ったあの温もりを思い出して、自分の手を体に這わせた。 あの日の熱い進藤の手のひらを、ボクの体は克明に覚えていた。 だから朝が来るのが嫌いになった。まるで、自分一人しかこの世に存在していない事を思い知らされるようで。 だって進藤は帰ってくると誓った。 キミが約束した『一部』すら帰ってきていないじゃないか。 キミの家にある空っぽの骨壷の事を考えると、悪趣味な冗談だとしか思えない。 すべてはまやかしなのだから。 もういい加減にしてくれないか。 ボクは次の一手を打った。 十六の九だ。 早く伝えなければ。 どこに宛てたらいいんだ。 今、キミはどこにいるんだ。 進藤。 進藤ヒカル戦死の広報が村に届いてから、二週間が過ぎようとしていた。 「アキラあ?・・・・こんなに痩せちゃって・・・・!!!」 病室に入るなり、開口一番芦原弘幸は両腕を広げてアキラを抱きしめた。 「いやあもう大変。いい大人がこんな時期にこの辺歩いてるとさ、徴兵逃れかと思われるらしくって・・・もう少しでそこの駐在のおじいさんに職務質問されるところだったしさあ。」 紙のように青白くやせ細った塔矢アキラを前に、開戦前同様マイペースを崩さない芦原の突然の訪問は、後に思えば、アキラのその後の人生を代える大きな通過点であった。 「・・・それでさ、聞いてる?アキラ。横須賀に寄航して、一度東京戻ってさ、塔矢先生にも挨拶して、これから、○○村を経由して××に疎開します、って報告したら!驚いちゃうよねえ、その村でオマエが療養してるっていうもんだからさああ。」 アキラの父、塔矢行洋の元で嗜みと称して囲碁を習っていた芦原は、アキラにとって兄のように親しい存在ではあったが、この非常時に気持ちのよいくらいの能天気さ、身だしなみはきちんと整えられ、医院の外には護衛を勤める憲兵の姿も見える。 ・・・としてみると、芦原が名前を出す事すら憚られるほどの、さるやんごとない血を引いている、という噂は本当だったのかもしれない、アキラは投げ遣りに思った。 「参っちゃうよねえ・・・オレなんかさ、言ってみれば代用品つーか、交代要員なんだけどね、それでも死んじゃマズイわけ。で、今までは船に乗ってそれなりに軍人の体裁整えて、安全な海域にいたんだけどさあ、もうどこもかしこも危なくって、結局本土に戻って山篭り。緒方さんもやっとお役御免でほっとしてるみたいだし・・・・・あ、それでさ、何でこの村に用事があったか、っていうと。ま、通り道だったってこともあるんだけど。進藤ヒカル、知ってる?」 アキラの背中がざわりと音を立てた。 ふたをしたままの耳に、一番聞きたくて聞きたくない、唯一の人物の名が飛び込んできたのだ。 「・・・・・どう・・・して、進藤・・・?」 「え!?ああ、進藤ヒカル?・・・うーん、それがさあ、話せば長いんだけど。まあ簡単に言えばね、オレが最後に乗ってた船の軍医の遺言を届けてやろうと思ってさ。」 「藤原佐為・・・・という人のですか?」 あっれー、よく知ってるねえ!ひょっとしてアキラ、その子と知り合いなの?佐為先生の愛弟子らしいんだけれど・・・ 頓狂な芦原の言葉がざらざらと耳に伝わる。佐為先生はね、佐為先生はね、と繰り返す芦原の声がアキラの苛立ちを助長した。 「進藤は!」 アキラの剣幕に芦原が口を噤んだ。 「・・・・・戦死しました。」 さすがの芦原も、アキラと同年代と思い込んでいた少年の死には衝撃を隠せなかった。 「・・・・なんで・・・・。」 「『回天』に乗っていた、と。」 『回天』の一言には重みがあった。 大日本帝国の特別攻撃を語る時、零式戦闘機による神風特攻隊は余人の知るところである。曰く、戦争末期、物資も枯渇した日本軍がその精神性で自らの命を犠牲にして敵に向かっていった、と。 けれど、日本軍の特攻精神、いやむしろ兵士の命を犠牲にして戦果を上げる、という思想は早くから軍隊の中に蔓延っていたのである。その萌芽は海軍の人間魚雷『回天』にあったと言われている。 「だって・・・・佐為先生は、まだ子供だって言ってたぞ。ヒカルは、って。」 「・・・志願したんです。」 「それにしたって、いきなり『回天』はないだろ!?死んじゃうんだぞ!」 自らの失言に気が付いた芦原は、はっと息を呑んだ。 「ああ・・・そうか。それで死んじゃったのか・・・。でも、な?ホラ。佐為先生と殆どおんなじ時期だしさ、きっと二人で天国で楽しく打ってるよ。オレ、何度も佐為先生の手紙に封してやってたんだ。知ってる?菊のご紋章入りの封緘。あれやっとくとさ、早く届くし検閲ないし、便利なんだよな。何しろ佐為先生ときたらさー、緒方さんがどんなに自分と打て、って言っても『今、大事な対局中ですから。』って。その、ヒカルって子のこと、そりゃ楽しそうに話しててね。最後だってさ、オレらの船の乗組員が大和に編入される事になって、オレと緒方さんは外されたの。ホラ、あんな危ない船に乗って死ぬと困るからさー。あ、緒方さんはね、オレのお目付け役も兼任してて。ぷぷっ・・・すっげー嫌がってんだけど、でも大本営命令だからね、しょうがないんだよ。あの緒方さんが必死に佐為先生のこと引き止めて、一緒に上陸するか他の船に乗るか、って勧めたんだけど・・・。結局今まで一緒に働いてきた乗務員を見捨てられない、って言ってさ。 『私はヒカルを見つけられましたから。』・・・そう言って笑ってたよ。最後に。・・・・・・でも、すごい絆だよね。師弟揃ってお互いの事思って、死ぬときも一緒だったなんてさ。」 腕を組み、いい気分で陶々と胸の内を語っていた芦原は、ここに至って漸くアキラの様子に気がついた。 「・・・アキラ、お前大丈夫か?何だか髪の毛逆立ってるぞ?」 「・・・・・『大和』は、そんなに危険な船だったんですか?」 「そりゃお前。何しろ目的地までの燃料しか積んでなかったんだから。♪行きはよいよい?ってな船でさ。もう、戦ったって帰って来れないんだから。」 くすくすと不謹慎な笑い声を漏らす芦原をアキラは睨みつけた。 「その事は・・・芦原さんも緒方さんもご存知だったんですか?」 「いや、オレらだけじゃなくって。海軍のお偉いさんなら誰でも知ってたんじゃないの?」 そんな船に乗って! 判っていて乗ったのに違いない。 そうすれば進藤が追ってくるとでも思ったのか。 自分はヒカルを見つけたからと言って、笑いながら進藤を道連れにしたのか! 最後まで進藤を自分の側から離さないつもりだったのか! 許せない。 アキラは思った。 藤原佐為も、この理不尽な戦いも、何もできない自分も、何もかもが許せなかった。 「・・・・あ?、でも結局遺言は無駄になっちゃったよな。せっかくここまで来たのに。あ!そうそう、アキラ、ここの医者のとこにペニシリン持ってきたからな。ある所にはあるんだよな?、効く薬がさあ。いいか?命とつては大事にしろよ。」 「彼は、何と言い残したんですか?」 ぎりぎりと歯を食い縛りながら、漏れるような密やかな声でアキラが尋ねた。 「・・・・・・・・・・『ヒカルに伝えて下さい。あなたが十五の六ならば、私は十六の九だ、と。』」 脳裏に自分が置いた白石が浮かび―――――――もう一つの石と重なった時、アキラの目から一粒の涙が零れた。 結局その日芦原はその村に一泊し、翌朝もう一度アキラの病室に顔を出して帰って行った。 「何だかさあ、そんなに苛々してちゃあ、治る物も治らないからな。そうそう、いい事教えてやるよ。大本営では恥になるから発表してないんだけど、回天って不発弾が多いらしいって。それで漂流して捕虜になってる乗組員も大勢いるんだって。案外さあ、その彼も海のどっかで緒方さんにでも拾われてんじゃないの?」 最後まで飄々としたままの芦原の言葉は、アキラの命の最後の炎を掻き立てた。 「芦原さん・・・進藤が所属していた部隊と、直属の上司は判りますか?」 「・・・ああ!そんな事は電話一本で確認できるさ。何だアキラ、やる気が出てきたみたいじゃないか。その進藤ヒカル君を探しに飛んでくつもり?それなら、早く病気治して緒方さんより早く見つけなきゃダメだからな。何しろあの人、佐為先生と打てないまま死なせちゃったもんだからさ、なんていうの?物凄く興味があるみたいなんだよね、『進藤ヒカル』に。今回もさ?『進藤ヒカルと打って来い』っていう緒方少佐の命令もあったんだけど・・・。はははっ、緒方さんの方が近くにいるかもしれないよね?。」 アキラがこの先長らえようとは、かりそめにも思っていなかった。けれど、不器用なほどに明るいこの男は、今のアキラを元気付けるためになら何でも言う覚悟があった。 「いざとなったらさ、戦闘機の一機くらいオレが用意してやるから。とにかく早く治すんだぞ!」 ひらひらと手を振りながら病室を出て行く芦原を見送るアキラの胸の中に、ひとつの希望の灯がともりつつあった。 まだボクは納得していない。 キミが死んだという確証もない。 「必ず帰る」という誓いを守り、「オレが死んだら一部はオマエのところに行くように手配しておいた」という誓いをも守っているのなら・・・・・ キミはまだ死んではいない。 アキラが、進藤ヒカルが消息を絶ったのは中国南部の沖合いであり、指令系統を担っていたのは御器曽という名の大尉であるとの情報を受け取ったのは、それから数日後のことであった。
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