The World WarU PacificOcean 1
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1・柿



俺達はもう何日も南の島の中を彷徨っていた。

伸び切った戦線と少ない兵力、物資、そして食物。信じられない程の湿気と虫と飢餓感に悩まされながらも、俺達の部隊が平静を保っていられたのは、その中隊長の資質に拠る所が大きいだろう。

「オレはさ、兵站がやりたかったの。兵站。」

ジャングルの中を行軍しながら、敵の来襲に備えるでもなく、これは食える、これはダメだ、と辺りの草植物を選り分けて進む中隊長は言った。

兵站?俺は耳を疑った。兵站といえば、前線に向けての物資や食料の補給を担当する地味な部署で、決して華々しい活躍はできない。むしろ裏方といったほうが適当だろう。

俺以外の面子も不思議そうな顔をしていたのか、中隊長は話を繋いだ。

「戦争ってのはさ、兵站が要なんだよな。進軍していく先々で食い物や燃料を強奪していくわけにはいかないだろ?それじゃあ戦線が乱れる。戦略が立たない。それに、『ハラが減っては戦はできぬ』って昔の人も言ってるじゃない。いい事言うよなあ、昔の人はさ。知ってる?織田信長はさ、相手の二倍以上の兵力がなければ絶対戦わなかったんだって。常勝、ってのはさ、そういう事なんだよね。」

この中隊長は本当に変わっていた。

大日本帝国陸軍は、その始祖大村益次郎元帥が長州出身だったこともあり、軍隊用語全てが長州訛りで統一されていた。いわゆる「デアリマス」がそれだ。けれど、中隊長は決して自分のペースを崩そうとしなかった。上層部はいい顔をしなかったけれど、その圧力を跳ね返す力量を彼は持っていた。

「常勝倉田隊」。

俺達の隊はそう呼ばれていた。

この隊に配属された事は、俺にとって幸運だった。

俺達学徒出陣組が戦線に配属される頃には、南方の島々が次々に陥落され、新聞に載る記事もそれまでの連戦連勝、行けや皇軍という物から徐々に敗戦に向けての終局に至る道程を転がり始めた頃で、配属先いかんによっては、今生きている事が奇跡のような場面に遭遇している可能性の方が大きかったのだ。

そう。常勝倉田隊。この隊は、今まで全ての敵の裏を掻き、先に回り、あるいは打って出て、幾多の戦場を潜り抜けてきた。そしてその戦歴は全て倉田中隊長の動物的とも言えるカンの良さと、徹底して考え抜かれた戦略の賜物であった。

そしてもう一つ、倉田隊には不思議な習慣があった。

「なあ、これどう?」

俺より一年先に入隊した門脇軍曹が、つやつやとした黒い石を俺に差し出して聞いた。

「ああ、いいですね。黒だ、っていう感じがはっきりしているし、何よりこの艶が那智黒の碁石を思い出させてくれます。」

俺は、門脇軍曹の手から黒石を受け取って、それを陽にかざして思わず微笑んだ。

倉田中隊長は、暇があると俺達に碁を打たせた。この時局に囲碁でもあるまい、と最初は乗り気でなかった者たちも、命令とあればやむなく、しぶしぶといった感で打ち始めているうちに、徐々にその魅力に取り付かれていった。これにもやはり、中隊長の力量が物を言っていた。中隊長の囲碁の腕前は生半可ではなかったからだ。飲み込みの悪い者にも一目で判るような指導をこなし、少しでも見込みがある者に当たると、それは嬉しそうに対局を勤めた。やがて中隊長の私物である携帯用の油紙で作った碁盤と小さな小さな碁石では用が足らなくなり、俺たちはそれぞれ自前の碁石を作るべく、白石らしき物と黒石らしき物を集めながらの進軍を続けていたのである。

今から考えると、本当に呑気な行軍だった。そこしか知らなかった俺達は、自分達は地獄の底にいるように感じていた物だったが、あの時代に従軍した日本人の中で、俺達ほど恵まれていた面々はいなかっただろう。

兵士達に碁を打たせる、というのはやはり倉田中隊長の戦略だったのだろうと今なら思える。暑さと疲労と、いつ敵に襲われるか判らない緊張感を、碁石は和らげてくれた。そしてすわ来襲か!と思う頃には既に中隊長は次の動きを読み、俺達を的確に動かしていたのだった。

「伊角、キサマは筋がいいよな。何?経験者なわけ?オレ相手だとちょっと遠慮するだろ、そういう所直せばいい線行くと思うぞ。」

キサマという所だけなんとなく軍隊用語を使いながら、語尾に来る辺りにはいつもの砕けた調子に戻ってしまった中隊長の口調に俺は苦笑を禁じ得ず、つい中隊長に思い出話を始めてしまった。

「高校、大学と囲碁部に所属しておりました。いい師に恵まれたこともあって・・・。そうだ、自分は塔矢名人の家に行った事があります。」

塔矢名人、という名を聞いた途端に中隊長の目の色が変わった。

「ウソ!ホント!?まさか名人と打ったの!?」

いえ、恐れ多くてとてもそんな、と言葉を濁しながら、俺の心はあの雨の日の日本へと飛んでいった。



神宮外苑での壮行会ののち出征までの短い日々を、俺は自宅で寡黙な父を相手に碁を打って過ごしていた。やがて南方へ送られる俺と、一人息子を出征させる父親に、同じような寡黙な友人たちがぽつぽつと集っては何がしかの土産を置いてすぐまた去って行った。その中に一人、塔矢名人と小学校、中学校と同級だったという小学校長がいた。彼が、俺の囲碁を見てぽつりと漏らしたのだ。

「明日、塔矢の家に届け物をするんだが、慎一郎君、よければ一緒に行ってみないか」と。

生憎、塔矢名人には会う事ができなかったが、俺はその日一人の少年と衝撃的な出会いをした。

アキラ、と名乗った少年は父親の不在を詫びた後、俺たちを客間に通し、もしよければ、と言って俺に対局を申し出た。おそらく彼は、俺が出征を控えている事、囲碁が好きで、自分の父親に会いたがっていた事などを慮って・・・今思えばかなりの無理をしてそう申し出てくれたのだろう。

彼との出会い、というよりも彼の打つ碁の全てに俺は衝撃を受けた。そしてまた、彼の囲碁に対する恐ろしいまでの執着にも俺は慄きを感じた。自分に足りない全てをこの少年は持っている、そう思うと体が震えた。

けれど、彼との対局は未完に終わった。

中盤、大きな山場に差し掛かったときに、彼は急に大きく屈み込んだかと思うと激しく咳き込み始め・・・やがて口元を押さえた浴衣の袂からは鮮血が滲み始めていた。

俺は大慌てで少年の後ろに回りこむと、背中をゆっくりと叩いてひとまず咳を落ち着かせようと必死だったが、彼は頑なに俺の助力を拒み、苦しそうに息を整えながらも、目だけはしっかりとこちらを睨んだまま言った。

「この棋譜は保存しておきます。申し訳ありませんが、今の僕にはこれ以上の事ができない。・・・貴方が日本にお帰りになったら、この続きを打ちましょう。」

それは何と起こり得ない未来だっただろう。

この少年はおそらく胸を病んでいて、この状態では長く持ちそうもあるまい。そして自分を振り返ってみれば・・・やがて南方に送られて、この先の見えない戦いの中に投入されるのだ。

「それでも貴方は・・・・」

ぼんやりとしていた俺から視線を外さずにいた彼は、肩で息をしながら言葉を継いだ。

「アキラ君、私たちはこれで失礼するから。君はもう休みなさい。」

両親揃って頑是無い用事で出かけ、この広い家の中に一人で気を張って客を迎えている少年を痛々しそうに見ながら、父の友人は言葉をかけた。

「いいえ・・・。これだけは。

それでも貴方は戦える。誰かを守れるでしょう。僕は・・・僕は一局の対局すらままならない自分の体が口惜しい・・・口惜しいんです。戦う事もできず、ただ生きてここで待っているのは・・・長い。本当に長いんです。」

最後の方はまるで吐息のようだった。けれど、その口調からは氷のような怒りが伝わってきた。彼が、何に対してそんなに憤っているのか、俺には判らなかった。

「君も戦いたいのか?戦地に行って。誰か守りたい相手がいるのか?」

俺の問いかけに、少年は冷たく笑った。

「僕が戦いたいのは碁盤の上だけです。でも、今の自分にはその日が来ても戦える力がない。その人に何があっても、守る体力もない。」

その人とは・・・。

俺が首を傾げると、彼はその日初めて年相応な、はにかんだような笑顔を見せた。

「いつかきっと僕の前に現れるはずなんです。僕と一緒に『神の一手』を極められる相手が。だから僕は・・・その日まで決して死ねないんです。」

未来のない少年の描く幻だ、と言ってしまうこともできただろう。けれど、俺は命を賭けてその相手を待っているという彼の気迫に飲み込まれてしまっていた。そしてまた言外に「お前はそれ程の相手ではなかった」と言われている事があまりにも明白で、どこかでひどく落胆していた。

結局、あまりにも疲労の色が濃い少年を二人掛かりで何とか床に着けさせ、俺たちはその家を後にした。

「もう長くないんだよ。塔矢はそれでも転地療養させたがっているんだが、細君が反対らしい。せめて最後まで家族三人で暮らしたい、と言ってな。今日はすまなかった。約束を破るような男じゃないんだが、多分アキラ君のことで急な用事が入ったんだろう。」

小さな背中に謝られながら、俺はそれでも今日この家を訪問できてよかったと思っていた。



「ホラホラ!またぼーっとしてんじゃん!」

中隊長の声に俺ははっと我に返った。

「申し訳ありません!つい塔矢名人の家であった事を考えておりました。」

直立不動で答える俺に、中隊長はにやにやと笑いながら尋ねた。

「塔矢名人??なんかなあ、もちょっと楽しそうだったけどなあ。」

それで俺は、倉田中隊長にその日俺と名人の息子との間で取り交わされた、あの未完のまま終わった対局の棋譜を並べ始めた。中隊長はみるみるうちに、黒石、塔矢アキラの打ち筋に魅せられて、時々唸ったり、腕組みをして歩き回ったり・・・失礼を承知で言えばまるで熊さながらに落ち着きがなかった。

「すげえな。これが塔矢アキラか。まだ子供なんだろ?楽しみだよなあ。オレ、やっぱ生きて日本に帰って、いつかコイツと打とう。」

いつかコイツと打とう。

倉田中隊長の言葉はその後実現する。

そして俺にも未完のままで終わった対局の続きを打てる日がやって来る。

けれどその時塔矢アキラは、もう俺の知っていた塔矢アキラではなくなっていた。

塔矢アキラは幻のその相手をついに見つけ・・・そして



そしてどうなったかはこれからの長い物語で綴られる事になる。





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