WWU Continent 16 16.柿 倉田が一つだけ条件を出した。 進藤と打つのなら打ってもいい、ただし場所はこの雛菊寮にして欲しい、と。 夜がしらじらと明け、全員がまだ寝ぼけまなこでいるうちに緒方は雛菊寮にやって来ていた。まるで、これが本当に最後のチャンスだとでも思っているかのように、ひと時の猶予さえヒカルに与えようとはしなかった。 表に車を止めさせ、ドアを開けたままでヒカルを迎え入れようとした緒方を倉田が制した。 「自分達がどういう立場にいるのか判っていないようだな。」 緒方はそう言って鼻先で笑った。 「判ってるつもりだけど。」 倉田が鷹揚に返した。 玄関先での何やら物々しい雰囲気に、住み込みの従業員達が次々と顔を出し始める。 「キサマが寮に犯罪者を匿っている、オレはそれをいつでも通報できるんだぞ?今、素直に進藤を渡しさせすれば全てを不問にしてやろうと、そう言っているのが判らないのかと聞いているんだ。」 倉田は引かなかった。 「あのさあ、進藤はさ、未成年なんだよね。そんで、れっきとしたウチの従業員なわけ。毎月給料払って、その明細も残ってるしさ。 それに、現住所はここなんだしさ。んー・・・・・あんたこそわっかんないかなあ・・・・・・オレは進藤の保証人でもあるわけ。犯罪者かもしれない可能性があって、でもまだ手配もされてないし、警察に追われてる身の上でもない。・・・・・・進藤を連れてったら、あんたの方が未成年者略取、ってか、あんたの言う事が真実なら、犯罪者の隠匿になんないの?」 ふん、と口の先を曲げて笑った緒方は、倉田の話の途中で火をつけた煙草を道端に放り投げた。 「・・・・案外食えん狸だな。・・・・・・・・・・・いいだろう。」 ずいと歩を進めた緒方に、その場にいた人垣が割れた。 和谷が何事かに気付いたように駆け出すと、緒方より早く屋内に駆け込んだ。 「進藤!進藤!起きろ!塔矢!」 便所の隣の部屋まで走り、襖を開け、小さな声で、それでも精一杯中にいる人間に聞こえるように声をかけた。廊下の方を気にしながら、聞こえたか、ともう一度部屋の中を覗いた和谷は、一枚の布団の中に小さく丸まって眠る二人の姿を見た。 「起きろよ!もう!ちくしょう!何やってんだよオマエら!」 和谷は、涙声になっている自分に気付きながらも、辺りに散らばる服を手早く掻き集め、二人の顔の上に投げた。 「オマエら!死にてえのかよ!チクショウ!!!!」 目を覚まして起き上がった二人が、自分の『死にてえのか』という言葉に、顔を見合わせてまるで僥倖にあったかのようににっこりと笑ったので、和谷は居たたまれない思いにもう一度胸を塞がれ、「緒方が来てる!」とそれだけを大声で伝え、襖を思い切り閉めて廊下に出た。 倉田がこちらに向かって歩いてくる。 「ああ和谷、オマエらの部屋な、伊角のお陰でこの中じゃ一番綺麗だから。使わせて貰うぞ。」 ではすでに緒方はその部屋で待っているのか、と和谷は閉められた襖の先に視線を飛ばした。 「なんで?なんでオレと打ちたいの?その人。へんなおじさんだなあ。」 朝食を掻き込みながら、飯粒の付いた口のままでヒカル尋ねた。 「キミと・・・・・・・ずっと打ちたがっていたんだ。それはそれは長い間。」 それはオマエだろう、と和谷は心の中で呟いた。 「あ・・・・・それちょっと違うかもな。」 やはり同じくどんぶり飯を掻き込みながら飯粒を飛ばして倉田が口を挟んだ。 「進藤、オマエと誰かの棋譜をあの男は嬉しそうに並べていた事があるんだ。アイツが打ちたいのは多分・・・・・・オマエの中にあるその『誰か』だよ。」 自分だけが気付いていたと思っていた瑣末事に、やはり感づいていたのかと、和谷は改めて倉田を見た。 「オレん中?・・・・・・・んー、空っぽだけど?なんにもないよ?ねえ・・・・・なんでかな、みんな忘れちゃって空っぽだよ?」 それからヒカルは嬉しそうに笑った。 「覚えてるのはひとつだけだ。・・・・・・・・・・・とうやがすき。」 それだけ言うと満足したように再び食事を始めたヒカルを、アキラは愛おしそうに、倉田と和谷は痛ましそうに見詰めた。 「じゃあ、行こうか?」 食事を終えてお茶を飲み終わったヒカルにアキラが手を差し出した。 廊下を歩きながら、ヒカルはアキラの周りをぴょんぴょんと跳ね回りながら尋ねた。 「勝ったらなんか貰えるのかな?それとも・・・・・負けたら叱られるのかなあ。」 「・・・・・・・きっといい事があるよ。」 アキラの微笑みにヒカルは嬉しそうに頷いた。 キミが勝ったら・・・・・・緒方さんはきっとこれからもキミを手に入れようと・・・・・否、今日この場からもうキミを自分の物にしようとするだろう。そしてボクは・・・・・緒方さんの障壁物となって・・・・緒方さんの好きなように処分されるだろう。 キミが負けたら・・・・・・緒方さんは絶望して・・・・・・・・・・。 キミを今度こそ本当に殺すかもしれない。 そうしたらボクは喜んでキミの後を追えるのだけれど。 キミはそれを許してくれるだろうか。 ボクにそれをする時間は残されるだろうか・・・・・・・・・。 「どうしたの?塔矢、お腹痛いの?」 用意された対局室の前で、アキラは笑って首を振り、ヒカルを部屋の中へと導いた。 人いきれでむんむんとした小狭い六畳間は、異様な緊張感に包まれていた。 緒方の顔面は蒼白だった。周りを囲む面々も、どうする事もできずに時折腰を浮かせては座り直すばかりであった。 ヒカルだけが。 ただその中にあってヒカルだけが、物珍しそうに、楽しそうに碁石を弄んでいた。 ・・・・・・・・まさか石の持ち方まで忘れていようとは。 アキラは、自分の迂闊さに臍を噛む思いだった。 先番、黒石を持った緒方が盤上に置いた石を見て、見よう見まねでヒカルは自分の手元にあった白石を持った。 親指と人差し指で危なげに石を持ち、ことり、と置いて、伺うように緒方を見上げる。 黒石を摘む緒方の指が震え、その石を握りつぶすかのように関節を浮き立たせて拳を固めるまでにそう長い時間はかからなかった。 「・・・・・・・・・何のつもりだ・・・・・。」 うめく様に緒方が声を放った。 その剣幕にヒカルは後ずさり、アキラに縋るような目を向けた。 「だから・・・・・・申し上げた筈です。進藤は・・・・・今の進藤の精神状態は碁を打てるような状況ではない、と。」 心持ち蒼白になりながら口を開いたアキラの言葉を緒方は聞いていなかった。 全員があっ、と思う間も無く碁盤を腕で払い除けヒカルに詰め寄った緒方は、その襟首を掴んで締め上げた。 「忘れたのか!忘れたのか!全て!・・・・・・・・佐為がお前に伝えた物全て・・・・・何もかももう残っていないというのか!」 充血した目で自分に迫る男にヒカルは混乱し、闇雲にその腕から逃げようとした。 「怖い・・・・・・怖いよ!塔矢!助けて!」 アキラに向けた顔を掌で掴んで捻り上げ、緒方は無理やりヒカルと視線を合わせた。 「思い出せ・・・・・・・。思い出すんだ。お前が・・・・・・お前が思い出さなかったら誰が佐為先生の碁を伝えるんだ!」 緒方はヒカルの体に圧し掛かるように足を回し、首の下から腕を回し、ヒカルの体を固定した。 「緒方さん!」 「アンタ!ちょっと何を!」 非難の声が上がったが、何故か倉田が一同を制した。 「見ろ。見るんだ。・・・・・・・・・・・・・頼む!見てくれ。」 緒方は、碁盤の上に石を並べ始めた。 「これは・・・・・・・南方で敵艦隊に囲まれて・・・・・大勢の死傷者が出た時の一手だ。佐為先生は、三日三晩不眠不休で手当てに当たって・・・それでもほんの一時休憩を取った時に思いついた、と言っていた。『すぐ隣の船室に今も苦しんでいる患者がいるというのに何故自分はこんな手を考え付いてしまうのか、碁打ちの業とは一体なんでしょうね。』そう言って打っていた手だ。 これは・・・これは母船との連絡が途絶えて、このまま水も食料もなく敵の手に落ちるか、という時に奇跡のように補給船と出会い、お前からの手紙を受け取った時のお前の一手だ。 『わたしには、水よりも何よりもヒカルからのこの一手が嬉しいんですよ。』 佐為のあの声がお前にはもう届かないのか!」 ヒカルの頬を押さえていた緒方の手が滑った。 それからこれは、これは、とそう言いながら碁石を打つ緒方の手は、いつしかヒカルから離れていた。 碁盤の上に、時々水滴が落ちた。 途中から何かに揺さぶられたかのように、食い入るように碁盤を見詰め始めたヒカルは、今は目を閉じて、そしてその閉じられた瞼からは涙が溢れていた。 「次は・・・・・・。」 「・・・・・・進藤?」 ヒカルの声色にアキラが顔を上げた。 「次は5の八だろ。それから・・・・・その次は・・・・・・・12の十二・・・・」 目を閉じたままのヒカルに、アキラがにじり寄った。 「進藤!進藤、気が付いたのか!進藤!ボクの声が聞こえるか!!」 ヒカルが目を開けた。 「聞こえるよ、塔矢。」 そして緒方を睨んだ。 ヒカルの手が碁笥に伸びた。 お互いが一歩も譲らなかった。 お互いが一秒たりとも無駄にはしなかった。 あれだけの名勝負があれだけの短時間で決した事は、その場に居合わせた全員の記憶にいつまでも残った。 振り向いたヒカルはアキラの目をしっかりと見詰めた。 「待たせたな、塔矢。さあ、続き、打とうぜ。」 それが、アキラが見た最後のヒカルの笑顔だった。 アキラが聞いた最後のヒカルの声だった。 ぽきりと折れるようにその場にくず折れたヒカルにアキラが駆け寄った。 「進藤・・・・・・?」 顔色を変えてヒカルを抱きかかえ、その場でヒカルの名を何度も叫ぶアキラに、全員が呪縛から解かれたように動いた。 ヒカルを囲んで、その体に触れようとした全ての手を、アキラは拳で払った。 「触るな!」 アキラがヒカルに覆いかぶさり、その頬を叩いた。 「誰も進藤に触るな!進藤!目を開けてくれ進藤!ボクの声が届いたんじゃなかったのか!進藤!」 やがてゆっくりとアキラが顔をあげた。 「ちくしょう・・・・・・・・。あんたたちが・・・・・・・皆でよってたかって進藤を殺したんだ・・・・・・・。 あんたたちも・・・・・・・こんな国も・・・・・・クソ喰らえだ・・・・・・・。 ボクは・・・・・ボクには進藤だけがいれば・・・・・・それだけで幸せだったのに・・・・・・。進藤がこの世界のどこかにいてくれさえすれば・・・ボクはどうなっても構わなかったのに・・・・・・・」 ふらふらと立ち上がり、まるで夢遊病者のように部屋を出て行くアキラを、誰も追うことができなかった。 そしてその日を境に、塔矢アキラは完全に消息を絶った。 「会長?ご指定の時間になりましたが。」 越智康介は、秘書の声に我に帰った。 今日これから韓国で四星杯の決勝が行われる。中継が始まる時間には必ず声をかけるように、と伝えておいたのだ。 「この韓国の方、とってもハンサムオールドマンですよね。お若い頃はさぞかし素敵だったんでしょうね。」 時々イギリス訛りのチャーミングな英語が混ざるこの秘書を越智は内心気に入っていた。ゆくゆくは楊財閥を背負うこの娘は、敬愛する祖母の訃報が届いた折にも涙一つ見せずに「急いで帰ったからと言って祖母が生き返るわけではありませんから。」そう言って急を要する仕事を全て片付けてから帰国の途に着いた。 「私のたった一人の孫よ。これから世界中を回らせるわ。」 そう言って、自らも社の操縦する自家用機で世界中を飛び回っていたあの短髪の老婦人との交誼も、今となっては懐かしい思いでの一つになってしまった。 「彼はね・・・・元々はアメリカ人だったんだ。戦後・・・・・大方の人間が喉から手が出るほど欲しがったアメリカ国籍を捨てて、故国に帰り・・・・それから長い時間をかけて漸くここまで辿り着いたんだよ。」 「漸く・・・・・でも今の解説ではもう随分と長い間、韓国の、事実上世界のトップだった、と言ってましたけれど?」 高永夏が向き合っている一人の青年は、日本の囲碁界でも謎の多い人物として知られていた。その氏名が「とうやこうよう」で有るところから、今は亡き不世出の名人、塔矢行洋との関係を匂わせる関係者もいたが、本人は一切を否定していた。ただ一言、「師匠は養父であった」と語るのみであった。 「いや。彼はね・・・・・・・ただひたすらこの青年の中にいる人物を待っていたんだ。」 対局者が一礼をし、画面下方にテロップが出た。 「高永夏 塔矢光洋」 越智は万感の思いでその二つの名を眺めた。 塔矢アキラがどのようにこの才能を見出したのか、どんな思いで彼を育てたのか、それはもう判らない。けれどこの寡黙な青年の中に、恐らく塔矢アキラは、再び己の存在事由を見たのだろう。暗誦出切るほどに進藤ヒカルが残した棋譜を読み込んだ越智は、彼の中に確かにヒカルとアキラの伝えたかった物を見た。 「ありがとう。しばらく一人にしてくれ給え。」 にっこりと笑った楊明梨は、会長室を後にした。 なんだ、みんな揃ってそんな所にいて。いやに楽しそうじゃないか。 越智は夢を見ていた。 社が居た。 60歳くらいに見えるような、別れた時のままに見えるような、不思議な姿だった。越智の心を読んだように社が答える。 「ああ、なんかな、そいつのいっちゃん幸せな時の姿らしいで。」 「長生きした割には長い間幸せになれなかったらしいな。」 越智が憎まれ口を叩いた。 「アホぬかせ。幸せやったわ。せやけどな、退職した時、由梨さんから退職金と一緒にこの飛行機貰うたんや。見てみい!このうっつくしい機体!それよかお前かて何や、小学生か?しっかもちんまくてなあ。長生きした割りに、ちっこい頃しか幸せやなかったんやな。」 「失敬な。戦後のあの品のない日本が性に合わなかっただけだ。・・・・・・・・・おい、あれは誰だ。」 越智の前を、海軍士官学校の制服を着た、まだ少年の域を出ない整った顔立ちの男が通り過ぎた。 「よう知らんけど・・・・・なんや佐為さんの知り合いらしいで。あいつのいまわの際に、『今度こそ迎えに行ってあげないと』言うてな、佐為さん慌てて出かけてたからな。」 そうか。 あの男も随分長い間待っていたのだろう。 越智に気が付いた緒方は、その秀麗な顔に似合わない人の悪そうな笑みを浮かべた。 「『酒は美味い』し『姉ちゃんは綺麗』だぞ。ここはそう悪くはない。」 それから 「なあ、進藤と・・・・・・・塔矢は?いるんだろ?」 「ああ、ホレ、そこに居てるやろ。・・・・・・まーたケンカしくさって。」 越智の視界の中に、突然二人が現れた。 額を寄せんばかりにつき合わせて言い争いをしている。 その姿は、越智が知っている二人よりもほんの少しだけ若かった。 ヒカルの方が先に越智に気が付いた。 「よう!越智、来たのか!」 手を上げたヒカルを見て気が付いたアキラが、越智に向き直った。 今までの諍いを聞かれていた事に突然気が付いたらしく、照れくさそうに微笑んだ。 「塔矢光洋君が・・・・・・今、高永夏と戦っている。」 越智が伝えると、二人は微笑んだ。 「知ってる。漸くここまで来たな。」 「本当に・・・・・・・・・長かった。」 アキラの感慨深げな声をヒカルが揶揄った。 「うわ、じじむせえ。大体、お前時間かかり過ぎだっての。オレなんかさ、そんなに長いと思わなかったぜ?」 「当たり前じゃないか!大体キミはさっさとこんな所に来て、一人で高みの見物をして・・・・・!」 再び始まった言い争いが越智の笑いを誘った。 「・・・・・・長・・・・・・・会長・・・・? お休みですか?・・・・・・・・・・・車を回しましょうか?」 遠くから声が聞こえる。 「越智!来いよ!みんないるぜ!」 越智は大きく頷くと、小さく、軽くなった体で思い切り駆け出した。 完
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