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052:真昼の月 【WWII版】 こう、こう、 咳が、もう咳でない。 咳の役割を果たさない。 ごほん、と気持ちの良い咳をしたのはいつが最後だったろうか。 今すれば、もう肋が折れると思う。 胸からだけでなく、腹筋から、血が出るのではないかと思う。 「ですから、韓国の高永夏は老獪ではありますが、覇王戦を見る限り・・・」 こう、こう、 「ああ。もっと諸外国の情報が・・・」 こう、 「そう、先日の二次予選の棋譜を見ていただけますか。」 こう・・・こうこう。・・・あ・・・ああ。見せてみなさい。 「ほら、驚くでしょう。初手が。」 な・・ほど・・・彼の・・・他の棋譜は、あるか・・・。 こう、こう、こうこうこう、 「はい、一次の時のを用意してあります。・・・お義父さん。」 この出来過ぎた程の息子は、布団脇からすぐに古新聞を取りだした。 ご丁寧に、赤い鉛筆で囲った棋譜と評。 こんな事をしている暇があったら、自分が碁の勉強でもして欲しいが 言えばきっと彼は「自分も勉強になりますから」と笑うのだろう。 余命幾ばくもない体に、碁の話ばかりを。 それが、一番僕の心を安らがせるのだと知っている、この世で唯一の人。 数少ない見舞客の「きっと良くなります。」「頑張って下さい。」は とうに聞き飽いた。 どうせ十代で一度亡くした命なのだ。 そして自分がこの世に残すべきものは、息子の中に全て伝えた。 もう、満足なのだ。 それをお前は分かってくれていると思っていたが。 「ね?中盤のここ、オレならこっちを押さえて置きたい・・・。お義父さんなら・・・。」 微笑みながら、碁の話をしながら、 そんなに涙を流すのは何故なのだ・・・。 こう、こう・・・。 ・・・や。・・・とうや。 う・・・ん? だから、オレならこっちを押さえて置きたいって言ってんの。 ・・・何の話だ。 おい、棋譜見てなかったの?寝ぼけてんなよ。 見ていたさ。何の話だと言ったのは、それはもう光洋が言った事だからだ。 そっか・・・。惚けてなくて良かったよ。 そう言って、アキラを抱きしめたのは金茶色の前髪。 「・・・やめろ。キミこそ惚けてるのか。 こんなに衰えた、黴だらけの体を抱いてどうする。」 「あれ、お前もしかしてまた夢だと思ってる?・・・お前は、綺麗だよ。昔通りだ。」 そう言われて手を見ると、十代半ばの頃の病んだ、しかし白く滑らかな指があった。 「進藤・・・キミ、進藤なのか?」 「他に誰に見える?」 夢を見た。 何度も、何度も繰り返し。 夢の中でこれは夢だと分かりながら、それでも縋った。 「しん・・・どう。」 「ああ。」 「進藤。」 夢の中ではどうしても触れられなかった褐色の腕に、指先が触れる。 ぎゅっと掴めば肉が窪む。 そのまま指を這わせれば半袖のシャツの手触り、シャツの中には 肩があって、その肩には細い首がついていて、その細い首の上には。 「進藤っ!」 「うわっ!やめ、押し倒すな!」 自分の下にあるびっくりまなこが、驚く程進藤だった。 進藤。 写真一枚ないのを寂しく思ったこともあるけれど。 進藤。 「進藤・・・接吻して、いい?」 「うん。いいよ。」 おずおずと、顔を近づける。 あと二寸、という所になって自分が震えているのが分かり、唾を飲み込む。 あと一寸。 「・・・どうしたの?」 「・・・・・・。」 「しないの?」 「・・・・・・ねえ。キミがいるという事は、ここはあの世なのか?」 「ここはここだよ。でも、お前がいた場所から見れば、あの世かも知れない。」 「そうか・・・。では、ボクは死んだのか。」 「そうだな。」 と言うことは、このヒカルは自分の妄想の中のヒカルではなく、 本物の。 アキラは体を起こして、髪を耳に掛ける。 油染みた固い感触ではなく、洗い立てのようにさらさらで、女性のように細い髪だった。 「光洋は寂しがってるかな。」 ヒカルも少し訝しげな顔をしながら、起きあがって座った。 「あ、光洋というのはボクの息子で、いや息子と言っても血は繋がってないんだけど、」 「知ってるよ。」 「え?」 「ここからだったら向こう側の事は何でも見えるんだ。ほら。」 ヒカルが指さした所に鏡が置いてあるのか水たまりか、つるりとした円が現れる。 二人で並んで覗き込むと、件の光洋が布団の横でぽたりぽたりと涙を落としていて その布団の中には顔に白い布を掛けた物が横たわっていた。 「・・・アイツ結構泣き虫だよな。」 「そうなんだ。小さい頃から碁で負けたと言っては泣き、犬に追われたと言っては泣き。」 「お前は泣かないのに、不思議だ。」 「ボクだって泣くさ。」 「少なくともオレの前で泣いた事はないよ。」 「そう・・・だったかな。」 「なぁ、アイツを選んで育てたのって、オレに似てるから?」 ヒカルが悪戯っぽく笑って、アキラの顔を覗き込む。 「そんな・・・ただ、道端で打ってるのを見て、」 「でもアイツ、オレにそっくりじゃん。」 「そっくりって事はないよ!そりゃ少し髪は茶色いし、顔立ちだって・・・だけど。」 「あの・・・、オレが言ったのは棋風って意味なんだけど・・・。」 内心少しはそうなのではないかと思ったが、あまりにもアキラが照れるので ヒカルは自分まで恥ずかしくなってしまったのだった。 二人は赤い顔を背け合った。 「とにかく!光洋はきっと、日本一の棋士になるよ。ボクがそう育てた。」 「オレもそう思う。オレにも似てるけど、お前の勝負強い所も受け継いでるし。」 「ああ。」 「つまりアイツの中には、行洋先生も・・・佐為だっているんだ。」 「きっとその師匠もね。」 「そう思うと、凄いよ。日本一どころか、きっと世界一にもなれるさ。」 「うん。・・・あ、そうだ、韓国に高永夏っていう棋士がいるんだけど・・・。」 「あの、高だぜ。」 「・・・やはりそうか。アメリカ人だったからまさかと思った。」 「祖国に戻ったんだよ。こないだ王位獲ってた。 これからはアイツが韓国の棋界を強くするんだろうな。」 「光洋も、いつか会うだろうか。」 「戦うことになるかもな。心配?」 「まさか。」 「でもオレ、あいつのこと嫌いじゃないよ。」 「・・・・・・。」 「そんな顔するなよ〜。情が移ったとかそんなんじゃないって。 こっから見てたら分かるんだけど碁に対しては真剣だからだ。そして、強いから。」 そう言われてアキラがもう一度水を覗き込むと、少し年はとったが 相変わらず端正で冷たい、瞳が碁盤に一心に注がれている。 そうか。そんなに強いのか。 そう言えば彼と過ごした数カ月、一度も碁を打った事がなかった。 今思えば、体くらい差し出しても沢山打って貰えば良かった。 「ってお前って現金だよなぁ。碁が強ければ誰でもいいの?」 見るとヒカルが苦笑をしている。 「違う!ボクがキミに惹かれたのは、勿論碁だけじゃない。」 「いや、まあ分かるけどね。オレも同じ事、考えた。 こっからあいつが打ってるの初めて見た時、『しまった!』って。」 何とも言えない物を含んだ目と目が合い、しばし止まった。 「・・・まあ、いいよ。あいつがオレの事を忘れていなければ、いずれここに来る。 いや、その前に光洋に引導渡されるかな?」 「どうだろう。これからあれは苦労すると思うが。」 「うん。でも、乗り越えられるよ。きっと。」 「・・・そうだ、倉田部隊の人たちはどうしているだろう。」 「ああ。みんなまだ元気だし、越智との繋がりもあって会社も順調だよ。」 「じゃあボク達は少しは彼等の役に立ったかな。迷惑もいっぱい掛けたけど。」 「そうなんじゃない?まあ、どっちにしろ気にしない連中だけどな。」 あ。由梨さんと楊先生だ。結婚したのか。 へぇ、オレ知らないなぁ。 うん、北京で凄くお世話になった。・・・楽平!大きくなったなぁ! 和谷じゃん! 似てるけど中国人なんだよ。へぇ、彼も碁で身を立ててるのか。奇遇だな。あ、芦原さん! 隣にいるふっくらした人、優しそうだな。 ・・・・・・あ。 緒方、だろ? うん・・・。 凝りもせずあこぎな事やってるのな。でも碁はすっぱりやめた振りしてるくせに、 偶にこうやってこっそり職業碁打ち呼んで負かすのを楽しみにしてんだぜ。 「相変わらず性格が悪いな。」 「ああ。でも佐為がいるからな〜。ぜえったいここに来るよなぁ。」 「え!佐為さん?」 「あ、言ってなかったっけ?あっちに佐為もいるんだ。 んでな、驚くなよ。今、行洋先生と対局してんだぜ!」 「本当?!それは見たい。 ・・・というか息子の死に際でものんびり対局している所がお父さんらしいな。」 懐かしそうに目を細めて走り出そうとした腕を、しかしその時ヒカルが捉えた。 「・・・何?」 「ちょっと待てよ。」 「だからどうして。」 「何でさっきから、オレの目を見ない。」 「そんなこと。」 「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。」 「・・・・・・。」 「じゃないと、折角こうして会えたのに、また別の場所に行っちゃうかも知んないじゃん!」 「・・・その方が、・・・いい。」 強く掴むヒカルの手を、アキラは振り解けずにいた。 離して欲しい。 捕まえていて欲しい。 逃げたい。 逃げたくない。 せめぎ合う心が、本気で抵抗するのを邪魔している。 「何で?」 何でって。 進藤は忘れているのかも知れない。 ならば思い出して欲しくない。 でも、思い出さなければそれで無かった事になる訳ではない。 だって、ボクは覚えている。 「何で逃げるの?」 何を言っているんだ。 好きな人から逃げる理由なんて一つしかないじゃないか。 後ろめたいからだ。 罪を、犯したからだ。 「塔矢。」 「ボクは、」 「・・・・・・。」 「ボクが、」 「・・・キミは優しいから忘れた振りをしてくれているのかも知れない。 けれど、若くて健康だったキミを死なせた原因は・・・、全てボクだ。」 「・・・・・・。」 「ずっとずっと、考えていた。キミを死なせたのは緒方さんだと、永夏だと、 回りの人間だと、挙げ句の果てには時代のせいだとまで、思おうとした。」 「・・・・・・。」 「・・・でも、どう考えたって無理なんだよ。」 アキラの顔が、泣き笑いのように歪む。 ヒカルはただそれを見守る。 「キミを撃ったのは、ボクだ。 キミを犯し、その傷を抉ったのもボクだ。 キミの最後の夜に・・・大切な対局の前に無茶をさせて、弱らせたのもボクだ・・・。」 努力して無表情に戻ったアキラの唇は、それでも震えていた。 ヒカルはそれを暫く見つめた後、ぽつりと口を開く。 「・・・そうだな。」 「・・・だから。ボクにはこんな極楽のような場所にいる資格が、ない。 キミの側にいるわけには行かない。」 「・・・・・・。」 「・・・さようなら。」 だが、ヒカルはその腕を掴んだままだった。 「放してくれないか・・・。」 「待てよ。」 「・・・・・・。」 「オレの話も聞けよ。」 「消えない、ボクの罪は、」 「でも、お前は最後に最善を尽くしてくれた。」 「尽くしてなんかいない!」 ぎりぎりと、ヒカルを睨む目は、それでも赤くなっていて。 「キミが弱っていたって、素直に緒方さんでも高にでも渡せば キミは死なずに済んだかも知れない。命長らえたかも知れない!」 「それでも!」 「キミを独占したい、ボクの我が儘で、大切な、キミを、」 「違う違う違うっ!」 アキラを睨み付ける目も、潤んで、光る。 「違うんだよ、塔矢・・・。例え高永夏の側で十年長生きしても、オレは幸せなんかじゃない。 それよりもお前と一緒に数日過ごして、オレがどれだけ幸せだったのか、分からないのか?」 「・・・・・・。」 「オレは幸せだったんだよ。お前に出会えただけで、幸せだったんだ。」 「・・・・・・。」 「そんな事言うなら、オレだって病気のお前置いて出征したよ。 でも、その時戦場で死んでいたとしても、それでも幸せだったんだ。」 「・・・進藤。」 「お前の顔を思い浮かべながら死ねたら、もう、思い残すことはなかった。」 「・・・・・・。」 「オレ達は出会えただけで、幸せだったんだ・・・。」 「・・・・・・。」 「お前だってそうだろ?」 耐えきれずにヒカルの目から涙の雫がぽろりと落ちる。 一度転がりだした涙は、次々と溢れ、その顔を隠すように ヒカルはアキラを抱きしめた。 「・・・泣き虫だな、キミは。」 「うん。」 「それにしょってる。『お前だってそうだろ』なんて。」 「だってそうだもん。オレ達二人とも、出会った時の姿だよ。」 「?」 「ここでは人生で一番幸せだった時の姿なんだ。」 「そう、か・・・。」 「お前も初めてオレの前で、泣いてくれたな・・・。」 アキラの双眸からも、涙の筋が伝っていた。 「・・・はは。そうだっけ。」 「ああ、そうだよ。だから今度は。」 初めての、接吻をしよう。 何度もしたよ。 違う違う、それ、オレが死んでからのお前の夢の中の話。 そうだったっけ? 最後の夜の事は勿体ないんだけどさ、オレ夢中でよく覚えてなくて。 唇に柔らかい物を感じた途端に、今まで知らず堰き止めていたものが溢れ、 アキラはあらん限りの力でヒカルを抱きしめ、 彼は死んでから初めて、子どものように大声を上げて、泣いた。 泣き続けた。 ・・・なあ、オレ達の打ち掛けの一局、覚えてる? 当たり、前だ・・・。 佐為達の所へ行って、続き打とうぜ。 ・・・父に会う前に涙を乾かさないと。 そうだ、驚くぞ、行洋先生若いから。 そうなの? うん。『多分アキラが生まれた日の姿だ』ってにこにこしながら言ってたよ。 ・・・そう。 ほら、見てみろよ。 お前の家の庭に、お月さまみたいにキレイな雛菊が咲いているよ・・・。 −了− | ||
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