WWU Continent 14
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14.柿




ヒカルの容態をずっと案じていた桑原医師が、その家族達が続々と離れに顔を出した。

小さな白熱灯に照らされたその部屋は、それぞれの表情から立ち昇る気配によって温められ、アキラの腕の中で再び目を閉じたヒカルの血色は、確かに赤みを増して来ているようだった。
暖かい物がひたひたとアキラを満たしていた。

同じ場所で壊れ物のようなヒカルをこの腕に抱き、自らの手で割った黒石を凍えた思いで置き、このまま離れ離れになってお互いが朽ちてしまえばいいと思ったあの晩を思い返すと、今更ながらに自分がいかに誤った選択をしかけていたか、と身の内に震えが走った。





自分の中の一番大事な思いに素直になる事。

それだけで全てはこんなにも劇的に変化し、何もかもが受け入れられる。





埃だらけの北京の街も、饐えた臭気の篭るあの引き上げ船も、全てが過ぎ去った過去の物語のように思え、まるで当時の自分を物語の登場人物のように別の場所から俯瞰できる新しい自分にアキラは気付いた。

その視線が、引き上げ船の船上に膝を抱えて蹲る自分の姿の上で止まった。



膝の上に固く抱き込まれた荷物の上で止まった。



ヒカルを抱く腕に力が篭った。





ボクは・・・・・・麻薬を運び込んでしまった。
消し去りようも無い犯罪の事実は、いつの日かボクだけではなく・・・・進藤にも災いをもたらすのだろうか・・・・。





人々は口々に安堵の言葉を洩らし、やがて母屋へ引き上げていった。



「生きとるのが不思議なくらいじゃと思っとったが、ワシの見立て違いだったようじゃな、ひょっ、ひょっ、ひょっ・・・・・・」

そう言って笑う老人を軽く嗜めた医師夫人は、ヒカルを見守り続けるアキラの為に寝具の用意まで申し出てアキラを恐縮させた。
結局その言葉に甘えるような形に落ち着いて布団を延べては貰ったものの、アキラはいつまでもヒカルの枕頭に座って、その寝顔を見続けた。



時間が無い。



先刻から徐々にアキラの頭を占め始めた思いは、思考を重ねれば重ねるほど真実に近く感じられた。
高永夏が来日し、まさにこの場所につい先程まで座っていたという件の女性の話は、中国での出来事が決して夢物語ではなかった事をアキラに再認識させた。

そして緒方は緒方で別ルートでヒカルとの接触を望んでいる。他人を捨て駒のように扱う彼が、何故そこまでヒカルに拘るのか、それを考えている暇はない。一刻も早くヒカルを緒方の元から、少しでも遠く移さなければならない。

緒方の動き如何によっては、自分が警察機構に追われる身の上になる事も十分考えられる。





自分をヒカルから引き離すためだったら・・・・


緒方なら平気でするだろう、そう考えたアキラはぞくりと身を震わせた。









そしてアキラは机に置かれた文箱を開き、長い手紙を書いた。













「シンドーはどこだ!シンドーを出せ!」

狭い和室の中で大声を上げ歩き回る男に、中年の看護婦は先程から一言も口を利く事ができずにいた。そもそも彼の話す英語はとんと判らないし、長髪を振り乱して大股にあちこちを開いて確かめている彼の姿は大型の肉食獣のようで怖くてとても近寄れなかった。

「ひっ・・・・・・・!」

その彼が髪を逆立てたまま自分に詰め寄った時に、看護婦は思わず悲鳴にならない声を上げた。



「・・・・・・・・・・あの小僧なら、もうここにはおらん。」



時ならぬ騒動に、何事かと顔を出した医師が永夏に向かって諭すように言うと、看護婦に向き直り小さく頷いて彼女に出て行っていい、と合図を送った。縋るような目で医師を見ていた看護婦はほっとしたようにぺこりとお辞儀をすると、飛ぶように離れを後にした。

「さて・・・・・・。」

永夏に向き直った桑原医師は、おもむろに英語で語り始めた。
元々豪胆、かつ老獪な人物であった。

それでなければ、いかに戦後の混乱期とはいえ、銃で撃たれた未成年の身柄を預かれる筈もない。永夏に比べればその身の丈はいかにも小柄で、脂肪の削げ切ったような体つきは頼りなげであったが。

永夏はシミの浮かんだ老人に向き直った。

「おらんと言うておるだろうが!その汚い言葉をどうにかせんかい!」

何度目のshit!だったか、それともbitch!だっただろうか、桑原医師が永夏に厳しい目を向けた。

「ワシもな、維新前にはサムライとして教育を受けた人間じゃ。オマエさんがたのような無礼な人間にこれ以上話す気にもなれんわ。」



「サムライ!?」



永夏がハッと笑い声を上げた。



「くだらない。そのサムライの国を壊して新しく作った成り上がり国家が、身分不相応な相手に喧嘩をしかけて・・・・このザマはどうだ!?こんな国に壊されたサムライの国はそれ以下だったんだろうさ!」

桑原医師は片方の眉を上げて覗き込むように永夏を見た。

「ならばその最低の国の年端もいかない小僧っ子の青いケツを追いかけ回しとるおまえさんは何なんじゃ?サル以下とは言わんのかな?ワシは自分の患者をサル以下の奴に渡す気は毛頭ないからな。・・・・・ふむ、まあ、あの塔矢アキラという小僧は・・・・・人として、あの患者を愛しんでおったからの。」

「塔矢・・・・・アキラだと・・・!?」

永夏の形相が変わった。

「キサマ・・・・・・・シンドーをトーヤに渡したのか!」

永夏の手が医師の襟元にかかった。



・・・・・昨日の夜・・・・・。



永夏の胸を苦いものが通り過ぎた。
昨日の夜にアキラはヒカルの元に辿り着いていたのだ。

緒方との不意打ちにも似た邂逅、そして先手をすべて取られ、自分の手をすべてはぐらかすかのような彼の術中に嵌る事が悔しくて、ついヒカルの病室から背を向けてしまった。



「これだけいれば塔矢アキラだって手を出せないだろう。日を改めろ。」



あんな男の言葉に何故素直に従ってしまったのか。

確かに、アキラといえども昨夜ヒカルに危害を加える事はできなかっただろう。けれど・・・・・・けれどもし二人の思いが通じ合ってしまっていたら・・・・・。

「小僧は・・・・・・塔矢というボウズの声でな・・・・・目を・・・覚ましたんじゃよ。」

喉元を締め付けられながらも、掠れた声で桑原医師は言った。
永夏の手が滑り落ちた。

「シンドーが・・・・・・目覚めた・・・・のか?」

自分が毎日語りかけてもぴくりとも動かなかったあの人形が。

頬を撫でても、髪を漉いてもぴくりともしなかった固体が。



「目を・・・・・・・そうか。目を覚ましたのか・・・・・・・・」



腕を落とし、力なく項垂れた永夏の上から、桑原の声が降った。



「小僧が目を覚ましたのは、まさに奇跡じゃよ。再び意識が戻ろうとはワシも思ってもおらんかった。あやつらが・・・・・どこへ行ったのかはワシも知らん。だが・・・・・・あいつらは打つだろう。碁を打ち続ける。アキラ、っちゅう方が置いていった手紙にも書いてあった。どこでどう打とうと、決して囲碁だけは捨てん、とな。それであれば・・・・・・きゃつらはいずれワシらの前に再び戻って来るだろうて。」

永夏が理解できない、という表情で桑原を見上げた。

「こんな最低の国で、全ては滅茶苦茶じゃがな、いつかは平和がやって来るだろうて。おまえさんの祖先の国もな・・・・・・・不幸な事じゃ。38度線で分断される事じゃろう。だがな・・・・・・きっとまた皆が碁を打ち、向き合える日がやって来ると・・・・・・まあ、ワシの勘じゃがな。」



囲碁は、中国で生まれて、朝鮮半島を経由し、そして日本に辿りついたんじゃよ・・・・・・・ワシが言うまでもないがな。

ひょ、ひょ、ひょ、という奇妙な笑い声が永夏の耳に降り注いだ。



「打ち続ける限り、おまえさんたちは再び巡り合うじゃろう。どんな形になるか判らない。いつになるかも判らない。じゃが、きっとその日はやって来るて。」

「・・・・・オレには時間も、その自由もない。」

永夏は今朝ほど、中国大陸への帰国命令を受け取っていた。

蒋界石氏とGHQとの話し合いが決裂した今、彼が日本に留まっている必要はもうなかった。そして大陸に戻れば・・・・いずれは縮小される軍部の一要員として祖国に戻されるのだろう。

「あのボウズたちにもな・・・・・・・自由も・・・・時間もなかったんじゃよ。」

アキラの手紙は、桑原医師に、ヒカルのその出征の折から始まる全てを伝えていた。

「なに・・・・・・・全ておまえさんが決める事じゃよ。自分の事を自分で決める自由と時間すらない・・・・とは言わせん。」



そうじゃ、おまえさんに一つ、奇跡とやらを見せてやろう。



そう言って桑原は文箱から小さな石の欠片を取り出した。

アキラが感謝を込めて、とその大事な一組を置いていった物だった。

「こっちはな、銃弾が当たって割れた白石じゃよ。それから・・・・・・・こっちの黒石はな、アキラというボウズが手ずから砕いた物らしい。じゃがな・・・・・・この二つをこう・・・・・ぴったりとな・・・・・・・」



黒白の石は勾玉を二つ重ね合わせたように、見事な正円を描いた。



「おまえさんのお国じゃあ・・・・・・この模様は・・・・・なんとゆうたかのう・・・・・・?」



「・・・・・・・・太極・・・・・・・・・・。」



永夏はがくりと膝を着いた。















「だからってこんな重病人ここに連れてくんなよ!」



和谷義高は、明け方近くに無理やり叩き起こされた不機嫌をそのままアキラにぶつけた。

雛菊寮、とその名も美しい平屋は、戦災で焼け残った長屋を改修して再利用している物で、防犯にも防音にも何の配慮もされていなかった。

玄関から入って一番最初の左の部屋が、和谷、伊角、そしてヒカルの雑居部屋であった。それを知らずに飛び込んだアキラにとってその采配は僥倖であり、和谷、伊角両名にとってはある意味災難でもあった。

「手伝って下さい!病人を連れているんです。」

そう言って二人を叩き起こした塔矢アキラは、二人の記憶に残る先日来の彼とは別人物のようだった。

ヒカルを銃で撃ち、白いスーツの男に連れ去られ、そして倉田の部屋で取り憑かれたようにヒカルの所在を求め続けたあの彼はもうそこにはいなかった。

有無を言わさず二人を往来まで引っ張り出し、どこから調達したものかまだ数少ないタクシーの扉を開けて中を覗き込む。
その後部座席に座るヒカルを見て、二人は息を呑んだ。

「・・・・・・動かして・・・・大丈夫なのか?」

伊角が疑わしげに尋ねた。
自身が大怪我を負い、その回復の緩慢さを知っているだけに、彼の目にはアキラの行動は暴挙としか映らなかった。

「動かさないと、命に拘わるんです。」



あの南の島以来だ・・・・・・。



伊角は思った。

こんなアキラの目を見るのは久し振りだった。

思えば自分の出征前、最早風前の灯に思えた命のあらん限りで「運命の相手を探している」と言い切ったアキラ、薄暗い船倉に、そこにヒカルがいると思って飛び込んできたアキラ、倉田が拾った白と黒の石を見た途端に全てを投げ打って再びジャングルの中に消えたアキラ・・・・・・・。

「そうか。」

よく見れば、アキラの服はあちこち汚れ、膝を何度か突いた跡すら見えた。

「判った。倉田さんに連絡を取ろう。」

「伊角さん!」



納得がいかずに声を上げた和谷に、二人を部屋に上げて暖めてやってくれ、とだけ言い残すと、伊角はしらじらと明け始めた道を、倉田の寝起きする社屋に向かって歩き始めた。






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