WWU Continent 11
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11.キスケ




大型プロペラ機の後部の座席には、かの蒋界石、そして米軍将校が並んで座っていた。
確か以前往来で由梨と言葉を交わしていた東洋系アメリカ人だ。
二人は時折英語で少しく言葉を交わしているが、当然爆音に遮られて操縦席には届かないし
届いたとしても社には聞き取る力もない。

代わりに、すぐ後ろに座っている由梨が何度も


「本当に大丈夫なんでしょうね?」

「戦闘機乗りでもこんな大型機が飛ばせるの?」


しつこく話し掛けてくる。


「うるさいの?。実際飛んどるやんけ。」

「そうよね。そうよね。」


どうやら由梨が柄にもなく緊張して、やけにこちらに構ってくるのだと気づき、
社は前を向いたままニヤリと笑った。


「そう言うたらあのおっさん、何で日本語しゃべれんねん。」


おっさん・・・蒋界石は飛行機に乗り際、社に「よろしく頼む。」と日本語で
声を掛けていた。


「お若い頃、日本の陸軍士官学校に留学なすっていたのよ。
 ところで仮にも中華民国国府主席に向かって失礼な口の訊き方はしないでちょうだい。」


社はどうせ聞こえへんからええやん。と思いつつ、言うとどやされそうなので
話を変えた。


「それにしても姐さん、えらいしゃべり方違ごとるなぁ。
 いくら蒋界石はんの前やいうても。」

「それは。」

「大体、蒋界石はんかて、あのアメリカさんかて、無理に日本に行かんでもええんやろ?
 いうたら姐さんの為に飛んどるようなもんやんか。
 もしかして、ホンマに公家さんなん・・・?」


由梨の答えはなかった。
だが社は、その答えを厚木の飛行場に着いてすぐに知ることになる。








「・・・・・・!」


アキラが前戯もなしに押し入った時、ヒカルの目尻から涙がこぼれた。
もがくように手が差し伸べられたが、アキラがその上体を倒して縋らせてやることもなく、
指は虚しく空を掻いて、そして落ちた。


「進藤。」

「・・・・・・。」

「・・・気持ちいい?永夏を思い出す?」


アキラは眉を顰めながら、また少し腰を進める。
ヒカルも目を閉じて顔を歪めたまま無言だった。
思ったより薄い反応に、アキラは苛立ちを隠せなかった。


「・・・ねえ。ボク、永夏に抱かれてたんだ。北京でキミを待っている間に。」


投げつけるように言ってもヒカルは薄目を開けて痛ましげに見上げるだけ。


「驚かないね。」

「オレも・・・同じだから・・・。」

「そうだね。じゃあ同じく緒方さんにも抱かれたって言ったら動じてくれる?」

「!!・・・・・・。」


ヒカルの目が見開かれたのを見て、アキラは漸く満足そうに微笑んだ。


「『同じ』だろう?ボクの方は商売にするほどではないけれど。」

「そんな・・・。」

「聞いたよ、緒方さんに。・・・寝台の上で。」

「どう・・・して・・・。」


鼻の奥が、痛くなってきた。
涙がせり上がるより前に、何もかもが可笑しく思えてきた。


「笑ってる余裕あるんだ?」


アキラが少し腰を動かすと、ヒカルはまた息を詰めて『ふ。』というような声をあげる。
肩の包帯から滲んだ血が、じわじわと広がってほとんど白い部分が見えない程になった。

月明かりの中黒ずんだ包帯が、弓の射手の肩当のようだ。

実際にヒカルを撃ったのはアキラなのに、アキラにはやはり自分の胸がヒカルの矢に
貫かれたように思えた。

そして自分はまた今、ヒカルを貫き傷付けている。

こうして撃ち合って、刺し合って、共に滅んで行けたら。




アキラが動きを止めて思索に沈んだので、ヒカルは漸くゆるゆると息を吐き出した。


「・・・塔矢。」


じわりと上げられる顔。
月明かりに光る目。


「・・・オレは本当に・・・今でもおまえが好きだ。 」

「・・・・・・。」

「昔も今もこれからも、ずっとおまえを好いている。」

「黙れ。」

「塔矢、オレは、」

「うるさい!」


アキラはまたひとつぐいっと腰を押し付けながら、ヒカルの首に手を伸ばした。
自らも痛みに耐えながら、きりきりと両手で締め付ける。


「と・・・や・・・。」

「知らないくせに。知らないくせに!」

「・・・」


日本で。太平洋の船の上で。北京で。
どんな思いでキミを待っていたのか。

言葉で言って、言い切れるものではない。
察してくれと言って、絶対に分かるはずなどない。


締め付ける腕に本能的に爪を立てていたヒカルがくたりと力を失う直前、
恐ろしく筋肉が収縮してアキラは思わず悲鳴を上げ腰を引いた。

あまりの痛みに歯を食いしばって蹲り、しかし収まるとすぐにヒカルの胸に耳を押し当てる。


・・・トク・・トクッ・・・


思わず安堵の息を吐いてから、自嘲した。

・・・殺すつもりで。
本気で殺すつもりで来たのに、すぐにヒカルの身を案じてしまう自分が馬鹿のようだと思った。


キミが案に違して殊勝な事を言うから。


アキラはため息を吐くと、隠しから小ぶりの袱紗を取り出した。
手のひらの上でゆっくりと開き、無表情にじっと眺めおろす。

そこには、歪に二つに割れた黒石が乗っていた。

体温が移る程の時間見つめつづけ、やがて人差し指と親指で摘むと、
こと、こと、と丁寧に枕元の机の上に置き、


「これが、ボクの、答えだ。」


気を失っているヒカルに、聞こえるはずはないと判っていても
出来るだけ冷たく響くように努めて、言った。



それからアキラは、しゃがみこんで声も無く泣いた。
石を叩き割った時に出来た小さな手傷が、やけに痛んだ。








「なんや?これ。」


飛行場が見えてきたと思ったら、驚くほど大勢の人間が滑走路で旗を振って誘導していた。
この飛行機に対する丁重な迎えなのであろうが、正直邪魔であった。


「ひいても知らんでぇ。」


思い切って操縦桿を押し、それからゆるゆると引く。
旋回計、速度計、高度計の順に確認してから水平儀を睨んで、
もう一度両手でしっかりと操縦桿を握り、車輪ブレーキに掛けた足を確認した。

危なげのない空の旅であった。
狙撃されることも十分考えられたが、追尾してくる飛行機もなかった。
やはり中国の飛行事情に関する楊海の下調べが利いていたらしい。

久しぶりの祖国の空気。
もう二度と吸うことはあるまいと思って横浜港を後にしたものだが、
やはり悪くない。





「着きましたで。」


完全にエンジンを切ってから振り向くと


「謝謝。ありがとう。」

「Thank you very much.」

「ごくろうさま。」


三ヶ国の言葉で礼を言われた。


まず社が降りて、後部座席の扉に手を掛けると、
小柄な日本人が駆け寄ってきて、手伝った。


「米国陸軍!コウ・エイカ曹長殿であらせられますか!自分は!」

「いや、オレはちゃうねん。」


社が口を挟むと出っ歯の小男は、関西弁にであろうか眉を顰め、
そのまま社を無視して扉の中に向き直って見上げた。


「米国陸軍!コウ・エイカ曹長殿と!助手!シエ・セキカイ殿で在らせられますね!自分は!」

「No.My name is KO-YONGHA.」


昇降口から飛び降りた永夏にまた遮られてその古瀬村という男は目をぱちぱちさせた。
背後には占領軍が控えている。
どうも日本の通訳らしいのだが、必要あるのだろうか。
すぐに永夏は古瀬村を無視して彼等と親しげに会話を始めた。

それにしても、

『コヨンハ』?

社が永夏の横顔を見つめていると、背後から由梨が


「ちょっと!」


と尖った声を上げた。

慌てて社と永夏と米兵の一人が機の入り口に駆け寄り、蒋界石が降り立つのを手伝う。
その後永夏が由梨の腰に手を回して抱き下ろそうとしたが、
由梨はその手の甲をつねって跳ね除け、社の肩に手を置いて身軽に飛び降りた。


笑いながらつねられた手の甲をさすっている永夏と、

由梨の隣に立った社の、目が、初めて合った。






「由梨さま!」


ほとんど悲鳴のような女の声に振り返ると、滑走路には永夏(というより蒋界石)の
迎えの米兵達以外に異様な集団が居た。


「・・・ばあや。」


晩夏とは言えまだまだ蒸し暑い上に日に焼かれたこの滑走路の上、
きっちりと襟元正しく正装して髪を結い上げ、使用人に日傘を差し掛けられた数人の女性。
麻の三揃えにソフト帽、口ひげを蓄えた紳士たち。
紋付きを羽織って銀の柄がついた杖をついている老人。

社が今まで見掛けたことはあっても、会ったことはない人種だった。


「姐さん、やっぱりあんた・・・。」


ばあやと呼ばれた女性が、立ったままの由梨の足元にしゃがみ込んでおいおいと
泣いている。


「おねえさま・・・。」

「由梨さん。」

「由梨さま。」


女達が涙ぐみながら歩み寄って来る。
男達も、温かい目でじっと由梨を見つめている。



ああそうか・・・。

姐さんには、待ってくれとる人がこんなにぎょうさんおったんやん。
そんで、まさかと思たけどやっぱり別世界の人やったんやな。

ついこの間まであの汚い胡同の路地で侃々諤々友だちのようにケンカしていたのに、
今は遠いお姫様になった気がして、社は何とも不思議な感傷を覚えていた。

やっぱりあれは外地やった。

お互い日本におったら、一生言葉を交わすこともなかったはずや。


もう二度とあんな風にはケンカ出来へんかな。
でも、楊海は姐さんに多分本気で惚れとったし、オレは楊海結構好きやから、
台湾に送ったりたかったけど。

二人を応援したかったねんけど。


無理、かな。




「由梨ちゃん!!」



その時、裏返った男の声がした。


「芦原さま!」

「よう!よう!お越さっしゃいました!」


皇族の登場に、由梨の親族が、へりくだって礼をした。
それに鷹揚に手を振りながらも、早足で由梨の元にやってくる。
由梨に縋っていたばあやや、数人の女達は遠く下がって控えた。


「由梨ちゃん・・・。」

「芦原さま・・・。」


なんや?コイツ。
社にもかなり身分が高い者だとは分かる。


「・・・生きて、たんだね。」

「ええ。お陰様で。」

「その、ボクの為に、向こうでは苦労を掛けたね。」

「・・・・・・。」

「ああ、こんなにみすぼらしい・・・はしたない服を着て。とりあえず着物を作ろう。 」

「・・・芦原さま。」

「いいんだ、キミの屋敷は残ってるから山ほど着物なんてあると思うけど、それでも、
 その、北京で何があったって、そんなこともう忘れて、」

「・・・アッシー。」

「そうだ、キミは、外国へなんか行かなかったんだ、前みたいに、乗馬をして、
 一緒にヴァイオリンを、」

「ばかアッシー!」

「・・・・・・。」

「・・・アキラに会ったのね?」

「・・・・・・。」

「私が向こうで出会った日本人はこの人と彼しかいないわ。
 そういえば碁が得意だったかしら。その繋がり?」

「・・・アキラは、塔矢先生の息子さんだよ。」

「・・・そう。」

「・・・・・・。」

「私、彼と寝たわ。」


芦原が目をつぶって天を仰いだ。


「・・・・・・聞いた。」

「そう。」


沈黙が流れる。
遠くで控えている親族には聞こえていないだろうが、社には丸聞こえで、
どうも聞いていてはまずい話のようだ。
上つ方々っちゅーのはオレらみたいなもんは人の内に入らへんのやろか、と
思いつつも社は足を動かすことが出来なかった。


社はアキラという人物が、『コヨンハ』の家で進藤をずっと待っていたのは、聞いた。
進藤もそのアキラを迎えに来るつもりだったはずだ。
でも、アキラはコヨンハに手を付けられていて・・・。
何となく男名前の少女を想像したが、少年だと聞かされて内心驚いた。

そんななよなよしてそうな男が、この男勝りの姐さんとねぇ・・・。



「それでも。それでも、ボクは迎えに来たんだ、由梨ちゃん。」

「・・・・・・。」

「それで分かってくれ。許すから。水に流すから、だから、」

「ホンッとにバカねぇ!相変わらず。」

「へ?」


由梨は突然蓮っ葉に腕組みをして片足に体重を掛けて立った。


「誰が許してくれなんて頼んだのよ。アキラだけじゃないわ。
 彼とも、この人とも、もっと沢山の男と寝たのよ。」


永夏を指さし、社を指さす。

いや!オレはちゃう!濡れ衣や!


「そういう商売をしていたの。分かるでしょ?
 でも私は自分を卑下しないわよ。
 異国の地で女一人生きていこうと思ったら、そうするしかなかったんだから。」

「由梨・・・ちゃん・・・。」

「それに迎えに来たって言っても、厚木までじゃない!北京に来なきゃ意味ないわよ!
 そうだ明日美、覚えてる?あの可愛くて気の利く小間使い。
 あの子だって、あの子だって、一人で死んじゃったわ!
 ああもう、アナタには言いたいことが多すぎて頭の血管切れそうよ!」

「・・・・・・。」


頭から湯気が出そうな由梨を口をあけて見つめていた芦原が、やがて


「由梨ちゃん!」


由梨に近づいて、そして抱きしめた。


「ゴメン!ゴメン!由梨ちゃん、ボク、知らなくて、ゴメン・・・。」

「・・・・・・ばかアッシー。」


なりふり構わない芦原に、さすがに苦笑して眉を開く。


「ゴメン、由梨ちゃんにばっかり辛い思いをさせて。もう向こうの事は忘れよう。ね?」


由梨ははああ?、と大きく息を吐いた。


「・・・あのね。アッシー。忘れればなくなるってもんじゃないの。
 実際に私は北京で生活をしていたのだから。」

「・・・・・・。」

「それに、私自身が忘れたくないのよ。」

「そんな、分からないよ、どうして、」

「どうして自分の眼鏡でしか物事を見ないのかしら。
 異国で身体を売って生活していたのは、それは辛いだけなの?消すべき記憶なの?」

「当たり前じゃないか!だってそんなの、許されるはずないし、
 これからの生活に差し支えるし、日高家の体面だって、」

「それがアナタの眼鏡。」

「どうして?分かんないよ。ボクが許すって言ってるのに、そうじゃなきゃキミが困るのに。」

「困らないわ。許して貰う必要もない。」

「だって結婚、」

「アナタと結婚はしない。この人と一緒に台湾に行くわ。」


今まで完璧に無視されていたので忘れられていると思ったのに、
突然由梨に腕を掴まれて、社は飛び上がりそうになった。


って。
え?


芦原が目玉がこぼれ落ちるほど見開いた目で社を見る。


「は、はぁ?」

「まさか、本気じゃないだろ?由梨ちゃん。」

「本気よ。」

「そんなことある訳ないよ。日高家のお姫さまともあろうものが、こんな飛行機乗り風情と。」

「風情で悪かったわね。アナタに飛行機の操縦が出来る?」

「出来ないけど!だけど、そんな、有り得ないよ。」


言った芦原を、由梨は静かな目で見つめ返した。
芦原はまた口を開けたまま、目を逸らせない。

やがて・・・膝に手を突いて崩れそうになった芦原の肩に、由梨の手がそっと置かれた。


「弘幸さま・・・。」


名前アッシー違ごたんや。


「由梨はもう、海を渡る前の由梨じゃあなくてよ・・・。
 遠い国で色んな経験をして、そしてとても大事なものをみつけたの。」

「日本よりも?日高家よりも?・・・ボクよりも?」

「ええ。」


俯いたままの芦原の膝の間に一粒、二粒、水滴が落ちる。
すぐに蒸発して、よく見ないと分からない程の染みになった。

由梨も、社も、やがて芦原が顔を上げるまで何も言わなかった。




「・・・・・・でも、やっぱり由梨ちゃんは、以前のボクの大好きな由梨ちゃんだよ。
 強くて、勇ましくて、いつもボクを引っ張ってくれた、」

『戦友。』


二人の声が揃う。
くすくすと笑い合う。


「アナタも私の大好きなアッシーのままだわ。」

「ボクは・・・ダメだよ。戦争を止める事が出来なかった。」

「それでも、自分に出来るだけの事はしたのでしょう?」

「・・・・・・それに由梨ちゃんを迎えに行かなかった。
 大事な人を・・・傷つけてしまった・・・。」


社は『大事な人』が由梨だと思ったが、由梨は敏感に何かを察した。


「でも・・・まだ取り返しがつくんでしょう?」


芦原が一旦沈んでいた顔を上げた。








「・・・ええんか?」

「何が?」

「日本におったらおひいさんやのに、わざわざ外地で苦労するつもりなん?」

「そうね。」

「っちゅうか、アイツ相手がオレやって勘違いしたで。」

「いいのよ。嘘は言ってないでしょ?あなたが台湾に連れていってくれるんだから。」

「まあ、なぁ。」

「具体的な相手が目の前にいた方が納得するのよ。
 お父様に報告するときも同席してね。」

「ええ?!」

「友だちでしょう?」


公家のおひいさんの、オレが友だち、ねえ。
社はくすぐったい思いだった。
それに、楊海の前では全然素直でない由梨が、実はもう彼に一生着いていく事を決めている。

国を捨て、家を捨て、名を捨て。

そんな日本女性がいる事が、そして自分を友だちだと言ってくれる事が、
なんだか嬉しく、誇らしかった。







「そや!」


思い出したことがある。


「姐さん、あの男。」

「高永夏?」

「そう。あいつがもしかして、塔矢アキラっちゅうガキを・・・」

「え?アキラを・・・知ってるの?」


社は目を丸くする由梨に答えず、米軍兵士と話し込んでいる永夏の元に、駆けた。


「おい!」

「What?」

「そや。アンタや。アンタにな、話があるんや。顔かしてくれや・・・。」






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