WWU Continent 10 10.柿 「しつっこいわねえ・・・どこまで付いて来る気よ・・・・」 由梨は大仰に溜息をついて、後ろを歩く社を振り返った。 「これじゃ仕事にもなりゃしないわ・・・。もう、いい加減にして楊海の家に帰っていて頂戴!」 びしりと人差し指を突きつけられて、社は大きな体を丸めた。 「んな殺生な!日本人同士やないか!・・・・あそこなあ・・・なんや目付きの悪い奴らばっかで落ち着かへんのや。」 それから、そういえば・・・といった風に顔を上げて屈託なく尋ねる。 「姐さん、何の仕事しとんの?オレ、何か手伝ったろか?」 由梨は口の端をぴりぴりと震わせながら笑顔を作った。 「そうね、美人局でもする時にはお願いするわ。」 それからさっさと歩みを進めようとしたのだが・・・・その先を大柄な体が遮った。 「・・・・・・・久しぶりじゃないか、リリィ。最近オレ相手の『お仕事』はないのか?」 由梨は挑戦的な目を永夏に向けた。 「こちらこそお久しぶり、永夏。生憎とね、軍隊を縮小して、帰国していく米兵にはもうこちらの政府は興味がないみたいよ。・・・・・・・・残念でしょ?亮のことを聞きたかったんじゃなくって?それとも・・・・・・・ああ、亮を探しに誰かが日本からやって来たら、まず私に連絡を寄越すとでも思っていたの?・・・・・・・ふん。待チ人来タラズ・・・・・・顔にそう書いてあるわ。」 永夏は大袈裟身振りで片手をひらひらと振り、あくびでも噛み殺しそうな顔をしながら彼らの横を通り過ぎていった。 けれど。 「なあ・・・・今の人に何言わはったん?あれは米軍の制服やろ?」 社の問いかけに由梨は首を傾げて答えた。 「別に。単なる社交辞令よ。」 そうなんやろか・・・・。なんや、えろう傷ついたような顔してはったな、あのアメリカさん・・・・・・・・。 社の目に永夏は、妙に忘れがたい不可思議な男として映ったらしい。けれど、由梨が口にした「YONG?HA」という音だけでは、彼こそが楊海の語っていた、そして自分が『コヨンハって誰や!』と突っ込んでいたその人物であるとまでの推量はできなかった。 「お、帰ってきたか!」 ニコニコ顔の楊海に迎えられて社はぎょっとしたように後ずさった。 「気持ち悪いなあ。あんたがそういう顔しとる時は、どうせまた何か悪い事でも考えついとるに決まっとんねんから・・・」 「まあそう言わずに。ヨウリィも一緒なら都合がいい。さあ、入った入った!」 手を取らんばかりに二人を招く楊海に、社を引き取らせるつもりだった由梨も渋々と言葉に従う。 「・・・・・・で?私たちに何の用なの?」 出された花茶を一口飲んでから由梨が尋ねた。 「『撃墜王 社清春』・・・・・・・お前の事だろ?」 にやにやと伺うような口調に社の体が強張った。 「何や・・・・・そんな戦争中の話持ち出して・・・。別に特別の事したった訳やない。ただの飛行機乗りや。」 「俺たちの情報網も捨てた物じゃないだろ?・・・・・・・・・ああ、心配しなくていい。君を責めているんじゃないんだ。ただ・・・・・・そう、君に頼みたい仕事がある。」 「オレに・・・・・・・?何や一体。飛行機で何か運ぶんか?」 「そう。・・・・・・・・・・ただし、人を運んで貰いたい。」 「人?」 きな臭い方向に話が進んでいくのを感じ取った由梨は鼻を曲げて胡散臭そうに楊海を眇めた。 「俺たちの党首だ。・・・・・・・・・・・蒋界石氏を台湾まで護送して欲しい。」 「なあ、アキラ。少しは食えよ。ほら、これ美味いんだから。PXでしか手に入らないんだぞ。」 芦原は手にした紙袋の中から次々と極彩色の包装に飾られた食べ物を取り出した。彼自身初めて見る物も多く、スプレー缶入りの生クリームを手の平の上に出して大騒ぎをしてみたり、真っ黒なゴムにしか見えないお菓子を恐る恐る口にしてみたりと騒がしい事この上ない。 アキラは椅子に座ったままぼんやりと外を眺めていた。 今日、用事があって出かける緒方の代わりにやって来た芦原は、まるで戦前の彼のように何の屈託もなくアキラに接している。 「・・・・・・・・・・さっさと抱けばいいじゃないですか。」 まだ窓の外を見たまま、騒いでいる芦原を一顧だにせずアキラは静かに呟いた。 アキラから見えない場所に座っていた芦原はその言葉にびくりと動きを止め、それから思い切り傷ついたような声を出した。 「・・・・・・・・・・悪かったよ。このあいだはさ・・・。その・・・魔が差した、っていうのかな。オレは元々ああいう趣味はないし・・・・それにオマエをどうこうしたいなんて思ってないしさ。・・・・・・・・だからもう、許してくれないかなあ。」 芦原の言い方か、口調か、何が気に障ったのかアキラには判らなかった。けれど、自分一人が傷ついたように安穏と許しを請う、兄同然に思っていた男をこの手で踏みつけにしてみたい・・・。湧き上がってきた凶暴な感覚を楽しむ自分をそこに見つけていた。 「いいですよ・・・・・・・・・・・・・。そうだ、ボクも由梨さんを抱きましたからね、これでおあいこかな。」 芦原の表情が凍りつき、抱えていたポテトチップスの缶がゆっくりとその手から滑り落ちる様を、アキラは振り返って十分に楽しんだ。 「ウソ・・・・・・・だろ?」 最初の衝撃が去ると、芦原は泣き笑いのような表情になり、アキラに懇願を始めた。 「なあ、ウソなんだろ?おまえ・・・・・オレの事やっぱり許せないんだろ、だからそんな事・・・・。なあおい、ウソだって言えよ!」 「ウソじゃありませんよ・・・・・・・・。由梨さん、ここに黒子があるでしょう?」 アキラは自分の右胸を押さえた。 その一言でカッと我を忘れた芦原がアキラに圧し掛かった。 「ウソだ!ウソだ!出鱈目言ってんだろう!オレが由梨ちゃんのどこに黒子があるかなんて知らないと思って!そうだろ?そんなところに無いだろ!」 血走った目付きで芦原はアキラの首を締め付けた。アキラは咳き込みながらも、自分の左手の甲と、首の後ろを指差し、それから口だけで笑ってもう一度右胸を示した。思い当たる黒子の場所を示された芦原は逆上したように手に力を込めた。 霞んでいくアキラの脳裏に、あの黄色い砂が舞う乾いた街が浮かんだ。 ・・・・・・・・・あそこでボク達がどうやって暮らしていたのか、知りもしないくせに・・・・・・・。 やがて、芦原の手から力が抜け、がっくりとそこに座り込むのを見届けると、アキラは言った。 「芦原さんがボクの見張りをしていたって何の役にも立ちませんよ。緒方さんもそれは判っているはずでしょうにね。・・・・・・・あなたにはボクを殺す事はできない。ボクが死ぬ時は進藤と一緒です。」 力なく項垂れている芦原をその場に残し、アキラは部屋を出て行った。 「ねえ、ちょっと!判ってんの?アナタが引き受けたのは『囮』よ!」 楊海からの依頼を気安く引き受けた社を、由梨は近くの屋台まで引っ張っていった。 「いちいち説明しなくちゃなんないのかしら・・・・。いい?国民党がアナタみたいなどこの馬の骨か判らないようなヤツに、大事な党首の命を託すと思うの!?」 出来の悪い生徒を諭す女教師のような頭の痛い気分を味わいながらこんこんと語る由梨に、社は思いがけない微笑を返した。 「姐さん、あんたええ人やな。」 にっこりと笑った社の予想外の反応に、由梨はとっさにリアクションを返す事ができなかった。 「あんなあ・・・・オレかて判ってるて。・・・・・オレらは囮や。多分オレらの他にもたくさんの囮がおんのやろ。・・・・・でも、そんでもな、ひょっとしたら本物が回ってくるかも知れへん。・・・・・・・それにな、この仕事引き受けて、囮運んでも、オレは別に失くす物かてないんや。どっちにしろ、ここで一旗あげたろ思て来たんやからな。・・・・そやったら、一つ恩売っといてな、後で生かした方がなんぼか得や判らへんやろ?・・・・・・・・そやな、裸一貫、ここかて新しい中国かてオレにはおんなじや。そやったら・・・・・・・・・あいつらが造る新しい国、っての見て見たいと思わへん?」 「アナタ・・・・・・・・・・・・・大馬鹿ね。」 由梨は信じられない物を見たような顔をして社を眺めた。 「失う物がないんですって?・・・・・・・・迎撃されたら・・・・・・・命が無いのよ?」 社は顔をくしゃりとほころばせた。 「オレは撃たれへん。・・・・・・・・・・オレの操縦する飛行機はな、絶対に落ちへんのや。」 楊海が提示した仕事とは以下のような物だった。 曰く、日本の外務省からの「消息不明日本人及び早期帰国依願者リスト」とやらが中国両政府に送られてきている。恐らく日本の高官等と何らかのコネクションのある日本人たちを早期に帰国させて欲しいという、裏取引まがいの要請であろう、と。 「それでさ、その中に『日高由梨』さんっていうお嬢さんがいらしてねえ。」 その時楊海は思わせぶりに由梨を見た。 「誰か、ロイヤルファミリーと縁続きでいらっしゃるお嬢さんらしくて。ヨウリィ・・・君、そのお嬢さんに成りすまして社君の飛行機で日本に帰ってくれないかな。」 「・・・・・・・・・・蒋界石を日本に送ってどうすんのよ。」 「だからそれはダミーでさ。本編はここから。厚木の基地と外務省との連絡は取れている。蒋界石氏にはアメリカにも友人がたくさんいらっしゃるからね。・・・・で、給油をすませた社君は、中国から連れてきた中国人の助手と一緒に、中国から厚木経由でバカンスに出発するアメリカ人将校を台湾へ輸送する、っと。」 「そやったらその助手の中国人、ってのが・・・・・・・・・・。」 うんまあ、言わぬが花ってね、そう言うと楊海は社に向かってウィンクをした。 「・・・・・・・・・・穴ぼこだらけ。」 吐くように言った由梨は、もちろん社がこの話を受けるとは思ってもいなかった。だから彼の次の一言には心底仰天したものだった。 「ええで。飛んだる。・・・・・・・・・・・・そのかわり、報酬はばっちりはずんでえな。」 暖かい日差しに包まれながら、越智はいつしかまどろんでいた。 だから最初はその声は夢の中から聞こえてきたものだとばかり思った。 「・・・・・・・・・の人?」 もう一度繰り返された問いに、越智ははっきりと目を覚まし、己の醜態に内心狼狽していた。 だから、この離れは日当たりが良すぎるんだ。 苦々しげに思いながら、心持ち不機嫌な顔を上げて越智は答えた。 「違う。警察の人間じゃない。ボクの名は越智康介だ。」 単純に名前だけを告げられて、ヒカルの視線は一時宙を彷徨った。記憶の中にある知人を思い浮かべようとしたのだろうが、やがてふいに気が付いたように小さく口を開いた。 「HOTEL OCHIの人・・・か。・・・・・・・・そうか、迷惑かけたもんな。悪かった。」 「迷惑?そんな簡単な物じゃないだろう。」 越智は、先程から微かに紅潮したままの頬を見られたくなくて、再び下を向いてぶっきらぼうに呟いた。 「ホントだよな、自殺するなら他にいくらでも場所はあるもんな。」 乾いた笑い声を上げたヒカルに、越智は眦を吊り上げた。 「・・・・・・・・・そんな子供だましが通用するって、本気でそう思ってるの?」 あの時だって、子供じみた挙動で社を上手に騙して飛行機に乗って行った。そんな手がボクにも通じると思っているんだろうか。それに・・・・コイツはボクの事をまるっきり覚えていない。 苛立ちに、つい辛辣な物言いをする越智に今度はヒカルが下を向いた。 桑原医師の元で応急手当を受け、その後会社の寮で静養をする筈だったヒカルはその後敗血症を起こしかけ、再び同じ医院に収容された。 越智がこの医院の本宅、その離れにひっそりと匿われているヒカルに会いに来たのは、これが三度目である。二度目まで一向に目を覚まさない様子のヒカルを無理には起こさず、そのまま立ち去っていた彼であったが、三度目の今日、日中は殆ど起きているのだが、そう言った医師の言葉に従い、ヒカルが目を覚ますまで待ってみようと、そう思っての事であったのに、あろうことか自分が一緒に寝入ってしまった。越智は自らが招いた痛手からまだ回復できないでいた。 「だいたいね・・・・・・傷口の大きさと撃たれた距離、それからわざわざ胸のペンダントを狙ったかのような撃ち方、どこを取っても自殺には程遠い。・・・・・・・・まあね、とっさに思いついたにしては悪くなかったさ。さすがのボクでもホテル内の殺人未遂事件まで秘密裏に始末することはできないからね。」 殺人未遂、という言葉を越智が口にした時、ヒカルが小さく震えた。その様子は越智を更に饒舌にさせていく。 「自殺、ってことで、発砲した塔矢アキラも取調べを受けないで済んだ・・・。あのまま警察に連れて行かれて、袖口の硝煙反応でも調べられたら一発だからね。」 得意そうに眼鏡を軽く持ち上げて越智は続けた。 「それに指紋!いくらおまえが自殺だって言い張ったって、あの銃には塔矢アキラの指紋がべたべた付いている筈だ。それに反しておまえのはどうだ?五本の指でも足りないくらいじゃないか・・・。ああそう、それからね日本じゃあ銃刀法って法律があって、やたらな人間が銃や刀なんか持っちゃいないんだ・・・・・・」 とうとうと探偵小説から仕入れた知識を披露していた越智はやがて、ヒカルがこちらを見ているだけで、その話を全く聞いていない様子にやっと気がついた。 「・・・・・・・・・・・・聞いてないな。」 ヒカルが驚いたように顔を上げた。 「聞いてたよ。それで・・・・・・・・考えてた。」 「何を?」 「塔矢はさ・・・・・・・・・・」 「うん。」 「・・・・・・・・・・オレを憎んでるのかな。」 こいつは初対面のボクに、いや初対面と思い込んでいるボクにそんな大事なことを聞くのか。そもそもボクが塔矢アキラを知っている事に何の疑問も感じないのか! 自分が答えても答えなくてもどうでもいいかのようなその問いかけは、ヒカルの中での自分の存在がいかにちっぽけであるかを越智に痛いほど認識させた。 越智の思いはそのまま言葉となって滑り落ちた。 「・・・・・・・・・・殺したいくらいだからね・・・・・・・・・・・・・・。」 突き放すように呟く。 「やっぱそうか。」 越智の脳裏に、放心したように何かを見詰め、血の海の中に膝を着いた塔矢アキラの姿が蘇った。 「何でだろう・・・・・・・。何でこんなことになっちゃったのかな・・・・・・・・。」 そして今度はあの太平洋の真っ青な海と空が視界を覆う。 ・・・・・・・・あの戦いの最中、コイツラは離れ離れになっていたけれど、それでも真っ直ぐにお互いを求め合っていた。 やっと会えたんだろうに・・・・・。 どうしてこんなことになってしまったんだろう。 「もう一度塔矢アキラに会えよ。」 越智の言葉にヒカルが顔を上げて目を閉じた。 例え殺されようとも。 二人が呑み込んだ言葉は期せずして同じであった。 「ちょっと!何コレ!どういう事よ!冗談じゃないわ!!!」 由梨の言葉はプロペラの轟音にかき消された。 すでに社は操縦席に着いている。荷物を纏めて機体に近づいた由梨は、そこに立つ楊海ともう一人の人物を見て腰を抜かしそうになった。 「・・・・・・・・まあ、歴史の教科書には載らんだろうがな。」 にやりと笑う楊海の横に立つ、長身の穏やかな物腰の男性は、まごうかたなき蒋界石その人であった。 「裏の裏をかく。・・・・・・・・こんな大事な仕事でなけりゃアンタまで巻き込むわけないだろ。」 「・・・・・・・信じられない。こんな杜撰な計画とあたしたちに党首を任せるの・・・・・・・?」 「アンタだからさ、由梨。・・・・・・・・・・・・・日本に帰って身辺整理を済ませたらさっさとオレんとこに来いよ。一緒に貧乏暮らしでもしようぜ!」 ゆっくりとプロペラ機に乗り込んだ要人のあとに由梨を押し込むようにして楊海は怒鳴った。 ドアが閉められる。窓を叩いてまだ何か叫んでいる由梨に対して、楊海は大きく手を振った。 機体が浮上した。 「・・・・・・・・・・・・・由梨、って。ちゃんと呼べるんじゃないの。バカ狸・・・・・・・・・・・・。」 一気に高度を上げた機体の中で由梨は小さく呟いた。 「そしたら行くでえ!」 社が高度を上げた。 後に台湾随一と謳われる楊財閥を築き上げる男と、その片腕にして賢夫人との誉れも高い由梨夫人との物語は、この時から始まったと人々は語る事になる。 ・・・・・・思ったより面倒なことにはならなかったな・・・。 一仕事を終えた緒方は、昼間からグラスを傾けていた。 ヒカルが中国に行かなかったことで、粗製ヒロポンを安く仕入れるルートが立ち消えになったかと思ったものだったが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。二枚用意した切符のうちの一枚を持った男はそれなりに仕事を片付けていた、と今日確認することが出来た。 「信頼される必要はないが・・・信用は大事だ。」 時間も予定より大幅に余った。こうして何の用もなく漫然と過ごすのも久しぶりだったが、さて他のことを考えようとしてもまたぞろ未完に終わったヒカルとの棋譜が一手、また一手と浮かんでくる。 「・・・・・・・オレが勝った碁だ。何を今更・・・・。」 そう呟いて見ても、緒方は自分があの対局が未完に終わった事にどこかで安堵していた。 どう見ても、誰が検討をしても、緒方の優勢に間違いはなかった。 けれど。 「・・・・・・・佐為なら・・・・」 ヒカルが対局の最中にその可能性に気が付かなかったのは緒方にとって僥倖だった。 「佐為ならどう打つか・・・そこまでは気が回らなかったようだな。」 緒方は小さく震えた。 それに気が付いた時にヒカルは自分を破るのかもしれない。 結局囲碁の神に愛されるのはまたしても進藤ヒカルなのだ。 ならばその前に。 アキラ君と打つ前に。 進藤ヒカルを完膚なきまでに叩きのめし、永遠に自分の物にするチャンスは今を逃したら二度とやって来ないような焦りを緒方は感じていた。 下らない焦燥感だ、と理性は告げていた。 けれど本能は先程から緒方に警報を鳴らし続けていた。 「進藤を探すか・・・。まだ間に合う。」 そう呟くと緒方は足早に立ち上がった。 「だから進藤がどこにいるかなんてオレらは知らないって。」 倉田は、その日二度目の同じ答えを訪問者に返した。 「だいたいオマエ、あんな事しておいて今更進藤に会ってどうするつもりなんだよ?」 目の前には、ほんの数日前にヒカルに銃口を向けた塔矢アキラがいた。雛菊建設の倉田の事務室には、ヒカルの身を案じる面々が続々と集まってくる。 「さっきはあのおかしな白スーツで今度はオマエか・・・。同じ事を言わせて貰うけどな、仮に知ってたってオレはオマエらに進藤の居場所なんか教えるつもりはないからな。大体!」 倉田はアキラの眉間に人差し指を突きつけた。 「あいつはなあ・・・ここで皆と楽しくやってたんだぜ?それをおまえらは壊そうとしているんじゃないのか!?」 皆と楽しく・・・倉田の不用意な一言がアキラの態度を一層硬化させた。 「教えて下さい。ボクはどうしても進藤に会いたい・・・・いえ、会わなくちゃならないんです!進藤は、進藤は生きているんですよね!」 「しつっこいなあ・・・・・・・・・」 倉田が腕組みをして宙を仰いだ時、ドアから声が届いた。 「生きてるよ。」 その場にいた全員が声のした方を見遣った。 「進藤は生きてる。僕は今日会ってきた。君たちに進藤の回復を伝えようと思ってここに来たんだけれど・・・・・・・」 どういうつもりだ!そう叫んで駆け寄った和谷が越智の胸倉を掴んだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・会わせてやれよ。もう、いいじゃないか。」 もう、いいじゃないか。 越智の言葉が、あの戦場をくぐり抜けてきた男たちの胸の中にストンと落ちた。二人が、どんな思いであの戦いの中お互いを求め合っていたのかを、ふいに全員が思い出した。 「こいつらを・・・二人だけで会わせてやれよ・・・・・・・・。もう、戦争は終わったんだ。」 同じ頃。 緒方は無人の部屋で訳の判らない胸騒ぎを煙草とウィスキーで鎮めていた。 芦原は、厚木基地から打電された電報を握り締めて神奈川に向かっていた。 予感があったのかもしれない。 だからヒカルは離れの廊下に面した障子を開け、ガラス戸も開いたまま横たわっていつまでも月を見ていた。 そしてその月明かりの中にアキラを見つけた時も、ただ黙ってそこで待っていた。 「・・・・・・・・・・・あの時と同じだ。」 音もなく部屋の中に入り込んだアキラの冷たい頬に手を伸ばしてヒカルは呟いた。 「同じじゃない。キミも・・・・・・・・・・そしてボクも変わってしまった。」 アキラもその手をヒカルの体に伸ばし、夜着の中頑丈に包帯に包まれた傷口に愛おしそうに触れた。 「キミは・・・・・日本に帰ってからボクの事を忘れて・・・・・・・・」 おがた、という名を口にすることはアキラには出来なかった。 「違う?」 何か言いかけたヒカルを目で制する。 ヒカルは一瞬目をきつく閉じると、溜息混じりに 「違わない・・・・・・・・・・。」 とだけ答えた。 しばらくの間、二人とも無言だった。 「あの雨の夜に・・・・・・・・・」 ボクを抱いてくれていたらよかったのに。 そうすればボクは今の自分自身をこんなにも呪うことも、キミをこんなにも憎む事もなかったかもしれないのに。 アキラの声にならない思いをヒカルは全身で受け止めていた。 「オマエは・・・何ひとつ変わっちゃいないよ。今でも・・・オレの大事な塔矢だ。」 身を起こそうとしたヒカルの顔が小さく引き攣る。アキラは、包帯の上にそっとあてがった手でその動きを軽く留めた。 「いいよ、起きあがらなくて。そのままでいて。」 布団に横たわったヒカルの胸の上に置かれたままの手、アキラはその手にぐっと圧力をかけた。ヒカルの表情が苦痛に大きく歪む。 「痛むの?・・・・・・・・・・・・ボクもね、ずっとここが痛いんだ。」 そして空いているもう一方の手で自分の胸を押さえた。 「キミが出征してしまってから・・・・・キミが死んでしまったと聞いてから・・・・・・。キミを探している間中・・・・・・・・・・それからやっと会えたのに中国に連れて行かれて。・・・・・・・・・もう痛くて痛くて、以前の自分がどうだったかなんて思い出せない。そしてね進藤、痛みの中心から腐っていくような気がするんだ・・・・・・・・・・・。」 アキラの脳裏に蘇ってくるのは、永夏や緒方の慰み物になっている自分、日本に帰りたい一心で麻薬まで運び込んでしまった自分、あれほど世話になった由梨を貶めてまで芦原を蹂躙していた自分、そして血まみれのヒカルの側で死に切れずに呆然としている自分。アキラにとってすべてが唾棄すべき出来事の連続だった。 「それでもキミの大事な『塔矢』なのかな。」 ヒカルの包帯からじわじわと血が滲んでアキラの手を湿らせ始めていた。 「それでもまだキミはボクを受け入れられるのかな・・・・・・・・・・・・」 だんだんと青白くなっていく顔色のままでヒカルは叫んだ。 「どんな卑怯な手を使っても、どんな恥辱にまみれようとも生きて帰って来てくれって・・・・・・・・そう言ったのはオマエじゃないか。だったら・・・・・・・・オマエがそうやって生きてオレの所に帰って来てくれたんなら・・・・なんでオレがオマエを受け入れられねえんだよ!」 「だったら進藤・・・・・・・・・こんなボクでも大事だとまだ思っていてくれるのなら・・・・・・・」 「いいよ・・・・・殺しても。」 消耗し尽くし目を閉じて呟くヒカルの体を壊れた人形のように抱きしめたアキラは小さく首を振った。そして、 「だったらボクに抱かれてよ。」 そう言うと、その目蓋に唇を落とした。
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