WWU Continent 6
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6.柿




「そうすると、社君が今こうして生きとるのも、芦原さんのおかげ、そういう事になりますな。」

上機嫌で追従を言う祖父と対照的に、社は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

・・・・・・それはそうだろう。

あの時の社の気持ちは誰にも判らない。

あの時同じ場所に、同じ時間にいた自分にすら、出撃許可が反故にされた社の胸中は計り知れなかった。ましてや、ずっと内地に留まり、飢えることも無く終戦を迎えた彼らにそれを理解しろというのは無理な話だ。
今日の会食は、孫息子があの『撃墜王社清春』と顔馴染である、と芦原に吹聴した祖父のお膳立てで執り行われた。

芦原と社の顔を交互に眺めたあと、越智は視線を空に彷徨わせた。

戦争中、あれほど生き生きと指令を下し、若い兵士たちの命を救おうとしていた芦原の姿は、今の彼からはもう伺いようがなかった。

こうして思い出話に花を咲かせ、進駐軍が我が物か顔に振舞うホテルの役員の席に臆面もなくついている。敗戦によって、今まで信じていた物を根底から覆された大人たちが時々見せる、妙に世の中を舐めきったような、残りの人生を持て余してるような気だるさを、越智は芦原から感じ取っていた。

あの人たちは、こんな日本人を守るために死んでいったのだろうか・・・・・・・。

「ああ・・・・・・・・・今日は社君に会えてよかったよ。オレさ、二人、どうしても会いたかったのがいてね。その内の一人なんだ、社君は。」

芦原の言葉に越智の祖父が問いを挟む。

「ほう、もう一人はどなたですかな。」

「進藤ヒカル、って言ってね。オレが懇意にしていた軍医の愛弟子なんだけどさ、その軍医の遺言届けに行ったらもう戦死しちゃってて。せっかくオレがあんなところにまで行ったのにね。・・・・・・・・・ああ、そうそう、彼が戦死した、っていうことが信じられなくて、病気で死にそうなくせにフィリピンまで探しに行ったアキラ君、ってのもいたけど。二人とも・・・・・・もう死んじゃってるんだろうなあ。」

まるで夢物語を語るかのようなうっとりとした口調だった。

芦原にとって、戦時中自分の周りで起こった事は文化祭の劇で突然主役を振られたかのような出来事だった。終わってしまえば、すでに自分には地位も権力もない。そして、自分の人生の一番の見せ場はあの敗戦の日を境に終わってしまい・・・・・・・物語ならばクライマックスで『完』の文字が出るところが、実際の人生においては、いつ果てるともない亡羊とした日常が横たわり続けるのだ。

芦原が出した名前に社が顔を上げたが、口を開く前に越智が目でその言葉を制した。

「・・・・・・・進藤ヒカルなら生きていますよ。このホテルの落成式の時、ロビーで騒ぎがあったのを覚えていませんか?」

越智が言葉を選びながら芦原に尋ねた。

「え?騒ぎ?・・・・・・・あったっけ。なんだかざわざわしていたような気もするけど。あの時オレ、何かを思い出そうとしてぼうっとしてたからな・・・よく覚えてない。何、何?進藤ヒカル?なんで康介君進藤ヒカルを知ってるの?」

「知りませんよ。本人がその騒ぎの最中に『オレだよ、進藤ヒカルだよ!』って、大声で叫んでいたんです。」

あのいかにも怪しげな白いスーツの男にね・・・。

越智は心の中で呟いた。

何しろあれ以来進藤ヒカルはこのホテルに頻繁に姿を現している。あの白スーツの男とだけではなく、アメリカ兵と連れ立って歩いている事も多い。ヒカルを舐めまわすように視線を這わせる米兵の表情を見れば、二人がこれから何をするのか、または何をしてきたのかは一目瞭然だった。

ヒカルと同じ職場で寝食を共にしているという社にもその話はしていなかった。

自殺行為に等しい離陸を行ったヒカルに、社が自分自身を投影し共感すら感じ取っていたことを、越智は敏感に悟っていた。そしてそのヒカルが生きていた事を本当は喜んでいることも。その彼が男娼を生業として生きていると告げるには・・・・・まだ歳月が足りない。大陸に渡れば、進藤が自ら社に告げる時も来るだろう。

ボクが口を挟む問題じゃない。

それにアイツは・・・・・ボクが見送った最後の・・・・・・・・・・。

「ふうん、じゃあ同姓同名の他人かもしれないね・・・・・」

芦原はつまらなそうに呟いた。



「・・・・・・・なあ、なんで本当のこと言わんかったのや?」

自分を送って行く自家用車の中で、社はしまっておいた問いを発した。

「別に・・・・・・。君が進藤を知っている、なんて言ったら、今日みたいな退屈な会食がもう一回増えるからさ。君が進藤と一緒に中国大陸に渡るなんて聞いたら、明日にでも、って話になるだろ?」

「ああ、そら勘弁や。」

笑うと目尻にかすかな皺が寄る社の顔を、越智は見なかった。

・・・・・・そうだよ。なんであんなことしてるのか知らないけれど、中国に行って、社と新しい仕事を見つければいいんだ。それでもうボクもこいつらに関わるのはお終いにしよう。・・・・・・・・・戦争は終わったのだから。

「出発はいつ?」

「なんや、見送りに来てくれんのか?今度の金曜日やけど。横浜まで蒸気で行って、そんで午後五時に出航や。」

「18日か・・・。あいにく予定が入っている。それなら・・・・・・・君と会うのも今日で最後だな。」

「そうか・・・・・。」

何やら感慨深そうに社が呟いた。

「何やしらんけど、おまえのおかげでまた道が開けたわ。・・・・・・あん時、おまえの所為で飛べんようになった時・・・・ほんま、一生呪ったる思ったんやけどな。」

「君に呪われても痛くも痒くもないけどね。」

車から降りた社を見送りもせず、越智は車を返させた。







「それで、これをここに住む『足木』という人に渡せばいいんですね。」

アキラは、手渡された地図と、厳重に梱包された包みを交互に眺めた。

「そうだ。まだまだ日本人の帰国はごった返しているからな、役人どもも荷物の中身を確かめる暇もないだろう。この役目は、きみのような純粋な日本人が引き受けてくれるととても助かるんだ。」

よもやここで再び『足木』の名を聞くとは思わなかった。アキラは、その名を口にした時、自分の声が震えていなかったかどうか自問した。驚きか、怒りか、それともひょっとすると喜びで震えていたかもしれない。

目的地があの二人がともにある場所だとは。

この荷物とてロクな物ではないだろう。この男も、温厚そうな顔つきの下で随分と危ない橋を渡ってきたようだ。

・・・・・・・・それでもいい。

アキラは自嘲気味に思った。

万一この荷物の中身が知れて罪に問われることになったとしても。

ボクはもっと大きな罪を犯すために日本に帰るのだから。



「ちょっと待ちなさいよ!」

その時、大きな音を立ててドアが開いた。

「由梨さん・・・・・・」

アキラに眼もくれず、由梨は楊海の側まで行くと、その胸倉を掴んで揺さ振った。

「楽平が言ってたわ!お姫さまが先生たちの造る国のために大事な仕事をするんだ、って。どういう事よ!あなたこの子に何させる気なの!?」

「ヤレヤレ・・・・・・・楽平のおしゃべりにも困ったもんだ。」

楊海はしばらくの間、腕組みをし口をへの字に曲げていたが、小さくため息をもらすと、まだ自分の胸倉を掴んだままの由梨の手をそっと抱えた。

「いいか?ヨウリィ。よく聞くんだ。・・・・・・・・・・・この子はアンタが探している日本娘じゃない。この子は自分の意志で、危険な方法であろうとも帰国したいと、そう願っているんだ。アンタにそれを止める権利はない。この子はアンタの使用人じゃないんだからな・・・・・・・・・。」

由梨のコブシが硬く握られた。

「・・・・・・・・・何を知ってるのよ。」

「元気になった、という知らせが来るのをオレも待っていたんだがな。」

楊海は苦々しそうに続けた。

「主に・・・・・・中国北東部だな。共産党の勢力が強ければ強い場所ほど、残留している日本人の帰国作業が一向に進んでいない。国民党の方針が、中国に残る外国民間人の早期解放であるのとは対照的に、だ。このままでは、数十年後に、国家間の軋轢を生む、そう判断された党首の意向で、我々の仲間が視察と幇助目的で各地に配備されたんだ。
それで、だ。陸力、覚えてるか?」

ええ、と由梨は力なく答えた。

・・・・・・・・・・陸力・・・・そう、彼も国民党の党員だったのね・・・・・。

「あいつが、アンタの写真を首飾りに入れて、後生大事に持っていた日本人娘を保護したらしい。」

「!」

顔を上げた由梨を、楊海は痛ましげに見詰めた。

「その時すでに虫の息だったらしいが・・・・。数日前に息を引き取ったと連絡が入った。」

「・・・・・・・・だったらどうして!!」

「『もっと早く教えてくれなかったのか』か?共産党のスパイとしてアメリカ人将校の情報を集めてるアンタが、オレたち国民党の口車に乗せられて北京から脱出したら・・・・・・・アンタ、殺されてたぞ。」

だってそれじゃ!

それじゃあ・・・・・・私はまた守られて・・・明日美を見殺しにしてしまったんじゃないの・・・・・・。

唇をかみ締めたまま震える由梨に、楊海は言葉を継いだ。

「・・・・・・・アンタの悔しい気持ちは判る。だから・・・・・・・もうあいつらのために働くのはよせ。この国は、しばらく悪い方向に進んで行きそうだ。それまで・・・オレたちは台湾にオレたちの中国を造る。一緒に・・・・・・来ないか?」



だって他に方法がなかった。

やっとの思いで逃げて、たった一人だけ親切にしてくれたおばあさんが共産党員だった。・・・・・・・共産党の、中国のために働けば、明日美を探してくれる、って。

「バカなこと言わないでよ。なんであなたみたいな貧乏人と一緒に逃げなきゃならないの。」

やっとの思いでそう口にすると、由梨はアキラの方を振り向いた。

「私の尋ね人は・・・・・もう見つからなくなっちゃったわ。・・・・・・・あなたは?あなたも会いたい人がいるの? 」



その人は・・・・・・日本にいるの?



「どんなに危険でも・・・・・その人に会いに帰りたいの?」

アキラは無言で頷いた。

「それなら・・・・・・・行ってらっしゃい。あなたを守ったつもりでここで引き止めたら、二人とも一生後悔しそうだわ。」

赤い目をしたまま、由梨はふふふ、と微笑んだ。

「元気でね。きっともう・・・二度と会うことはないでしょうけれど。・・・・・・・・私が果たせなかった分まで、あなたがその人に会えるよう、祈っているわ。」

そして、来た時とは打って変わったように、静かに玄関のドアを開けた。

「おい!ヨウリィ!さっきの話、考えておけよ!」

いつも通りの調子で、その背中に楊海が声をかける。

「ゆ・り、よ。日本語話せるんじゃないの、このクソ狸。・・・・・・・・そうね、台湾で一旗あげる見通しがたったらもう一度申し込んでごらんなさい。」







東京駅に着いた大叔父の一行を自家用車で迎えに行き、ホテルに落ち着いた後、東京観光の前に「HOTEL OCHI」のティールームで戦前のようにハイ・ティーを楽しみたい、と言い出した従姉妹に付き合った越智康介は、その場に親しげに会話を交わす芦原と件の白スーツを見つけた。

上席へと案内しようとするウェイターを軽く手で押さえ、さり気なく芦原の背中側に回るように席を取る。

「ええー、じゃあやっぱり緒方さんだったんだ。あしぎ、って誰かと思いましたよ。O・G・A・T・A・S・E・I・J・I・・・・・・・でしょう?ひどいなあ、それで進藤君のことも騙してるんだ。」

「・・・・・・・楽しそうだな、芦原。まあ、オレも人の事は言えんが。・・・・・・・そうだ、もっと面白いことを教えてやろうか。その取引相手が日本に寄越す子供、っていうのが実はアキラ君らしいんだ。」

ええっ?どういうことですか?アキラ、生きてたんだ!

芦原が頓狂な声を出す。

「とっくに血を吐いて、あの白の礼装血まみれにして南洋辺りで死んじゃってたかと思ってたのになあ・・・。アキラにはそういう華々しい最期のほうが似合ってたのに。」

「残念そうだな。」

緒方がくくく、と笑い声を漏らす。

「事実は小説より愉快だぞ。進藤を囲っていたアメリカ兵に気に入られて、そいつに入れ代わりのように中国に連れていかれたらしい。」

「あれ?でも、進藤君を中国に行かせちゃうんでしょ?また二人がすれ違っちゃうじゃないですか。」

全く非難の色を感じさせない口調で芦原が尋ねた。

「そこが一番面白いところなんじゃないか。進藤は、オレの取引相手、楊海という中国人のところに行く、ところがどういうわけか、こいつとそのアメリカ兵、というのが目と鼻の先に住んでいるらしい。そして、進藤は憎んでも憎み足りないそいつに再会する、と。そういう訳だ。しかも、楊海の話によればそのアメリカ人は、アキラ君も手篭めにしてるらしいからな。」

「可哀想になあ、進藤君。アキラを助けに行くために緒方さんやアメリカさんたちに抱かれていたんでしょ?」

「さあな。あいつらの運が悪いのさ。・・・・・・・・・それより芦原、今度はアキラ君がオレの手元にやってくるわけだが・・・・お前も興味があるか?」

そこから先は声を潜め、二人は何やら楽しそうに密談を続けていた。

越智の背中が強張っていた。

頭の中ですべての符号が一致するようだった。

白い礼装に身を包んで、広い南洋で誰かを探し続けていたという、あの「血まみれの慰安婦」こそが、彼らの話すアキラに違いない。

そして、なぜ進藤ヒカルが社の愛機を奪ってまでどこかを目指したのかを悟った。

なぜ、あの時自分は、最期の特攻兵を見送ったような気がしたのか。

あの時の進藤は、自分の命を犠牲にして何かを守ろうと散っていった全ての兵士たちと同じ眼をしていた。




進藤、おまえはまだ誰かを守ろうとしてるのか。

まだおまえの戦争は終わっていないのか・・・・・・・・・・。




「ちくしょう・・・・・・・。」

時計を目にして呟いた越智に、向かい側に座っていた従姉妹の正子が顔をあげた。

「汚い言葉使わないでよ。どうしたの?アンタらしくもない。」

もうこれで最後だ。これが最後のおせっかいだ。

これでボクの戦争は終わるんだ。

「ボクらしくないんだけどさ・・・・・。悪い、正子さん。午後は付き合えない。叔父様たちによろしく伝えておいて。車も・・・・・・貸してもらう。」

慌しく起ち上がり、ウェイターにサインの素振りを見せ自分に勘定をつけて貰うと、越智はエントランスへと走り出した。

「ふん・・・・・・・。むきになって走っちゃって。アンタが走ったところ、私生まれて初めて見たわ。」

越智によく似た小さな眼をさらに細めて、金子正子はその後ろ姿を見送った。



「横浜港・・・・・・・いや、まだ間に合う。横浜駅まで急いでくれ!」

午後のドライブのために車を磨き上げ、ていねいに毛バタキをかけていた運転手は、突然の変更に内心では驚きもしたが、さすがに戦前からのお抱え運転手だけのことはあり、何の質問も発せずに車を動かした。

まずは社だ。直接二人に渡航するな、と言っても押し切られるのは目に見えている。

進藤ヒカルを大陸に行かせるわけにはいかない。

社を説得しなければ・・・・・・・・。



「それにしても、今の緒方さんを佐為先生が見たら何て言うでしょうね。」

深く考えもせずに呟いた芦原の言葉に緒方は答えなかった。

嫌な間が空いた。

「・・・・・・・・・・・・お互い様だろ。」

伝票を掴むと、緒方は席を立った。







「どういう事だよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

オマエの旅券見せてみい、どのくらい上手いこと偽造できてるかオレが確かめたるわ、そう悪戯っぽく笑った社に同じように笑って旅券を渡した。

この船に乗って塔矢を迎えに行く。

あと何日かで塔矢に会える。

悪い夢が全て終わるような思いだった。

そのヒカルの目の前で、社は旅券を二つに引き裂いた。

「悪いな、進藤。大陸にはオレ一人で行くわ。あん時のオレの気持ち、これで少しは判ったか?」

大きな背嚢をよっこらしょと担ぎ上げ、社は港に停泊した船に向かって歩き出した。

「待てよ!社!ちくしょう、この野郎!!!あの時のことだったら謝るから!いくらでも謝るから!!」

背中にヒカルの絶叫を聞きながら、社は心の中で謝っていた。

すまん、進藤。詳しいことはよう判らん。でもとにかく、オマエの生死にかかわることらしいのんや。あいつは・・・・・越智はすかした奴やけど、卑怯な真似はせん。



ここに残る事がオマエのためらしいのや・・・・・・・・・・・。





ヒカルは引き裂かれた旅券を握り締め、いつまでもそこに立ち尽くしていた。

やがて船が出港し、陽が落ちても、ただひたすらに遠い海の彼方を見詰めていた。






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