WWU Continent 4
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4.柿




悔しい悔しい悔しい!

由梨は、雨が降り始めた未舗装の道を泣きながら走った。
顔がぐちゃぐちゃなのも、回りの人々が呆気に取られたようにこちらを眺めている事も気にならなかった。
こんなに泣いたのは久しぶりだった。後から後から涙が湧いて出た。

雨粒に叩きつけられて一瞬舞い上がった黄砂に咳き込み、目を腕でかばいかけた時、足元の大きな石に右足を取られる。
由梨の視界の中で、眼下のぬかるみがスローモーションのように大きくなっていった。

・・・ああ、最悪。これでドレスも泥だらけだわ。汚れたら・・・・・私が自分で洗うんだわ。もう嫌。こういうのを『泣きっ面に蜂』とか言うのね・・・・・・・・。
けれど、最後の瞬間にそのぬかるみは、泥の中に片膝をついた骨太い姿によって覆われた。
そのまま広い肩に抱きとめられ、由梨は安堵で大きく息をついた。

「・・・・・・・汚いわね楊海。あなた泥だらけじゃないの。」

「・・・・・・・お互い様だろ。」

由梨を立たせると、ぱんぱんと手に付いた泥を払う。

「あんたらしくないな。お姫様のところで悪者にでも苛められたんだろう。」

「放っておいてよ!あなたに関係ないでしょう!」

由梨は赤くなった鼻をずいっと吸い込んで毒づいた。

「風邪ひいたのか?顔中鼻水だらけじゃないか。美人が台無しだぞ。」

「こんな埃っぽい街に住んでいればね!鼻だっておかしくもなるわ。そうよ!具合が悪いの。早く家に帰って乾いた物を着たいの!」

鼻をすすりながら背を向けて歩き始める由梨の背中を、楊海がくいと引っ張った。

「何よ。・・・・・・・・・ああ、ありがとう。これでいい?」

あのなあ・・・と楊海が天を仰いだ。

「まあいい。・・・・・・・・・・・例のお姫様、な。懲りずに力になってやれよ。」

由梨は楊海を睨み返した。

「何よ・・・・・・・・何も知らないくせに勝手な事言っちゃって。自分一人さえ持て余してるっていうのに・・・・これ以上どうやって人の力になんてなれるの!」



雨が降っていてよかった。

涙を見られなくてよかった。

私には人を助ける力なんてないんだから。



「それでも。
きっとあんたはお姫様の力になってやれるし・・・・それであんた自身も救われるとオレは思うけどな。」

「何よ偉そうに!いつも自分だけ『何でも判ってます』って顔して。あなたなんかにお説教されるほど私は落ちぶれてませんからね!」

お、調子が戻ってきたじゃないか、そう言うと楊海は肩に掛けていた汚い手拭を由梨の頭に載せた。

「早く帰れよ。本当に風邪ひくぞ。」

そう言って飄々と元来た道を戻ってゆく。
と、突然振り返って言った。

「あんたが探してる日本人娘な、消息がわかるかもしれないぞ。」

「ちょ・・・・・ちょっと待って!どうして知ってるの!」

けれどそれだけ言うと楊海は去って行った。
由梨は固まったようにその後姿をいつまでも見続けていた。



あの時も雨だった・・・・・・。

臨江で匪賊に囲まれ、あの子と必死で逃げた。
ばかな子。
日本に残れ、ってあれほど言ったのに一緒に行くといってきかなくて。
馬に乗れなかったから、私が手綱を取って前に抱えるようにして逃げて。
振り落とされないようにしっかり腰を押さえていたのに。
ほんの少し距離があいて、ほっとして顔を見合わせたら

「こんな事なら、憎まれ口叩かずにお嬢様と一緒に乗馬を習っておけばよかった。」って。

そう言って気丈に笑ったから腕の力をほんの少し緩めただけなのに。
あの子は自分から私の腕をすり抜けて降り立ち、それから手近にあった石で思いっきり馬を殴った。

「大丈夫!後から必ず追いつきますから!私一人でも残ればあいつらを少しでも引き止められます。」

狂ったように走り出した馬の上に途切れ途切れの声が届いた。

追いつけるはずがなかった。

降りることができなかった。

暴走する馬から飛び降りて、例え地面に叩きつけられて死んでしまったとしてもそこに残るべきだった。




私は妹同然に思っていた子を見殺しにしてしまった。





綺麗な黒い髪を見た時に、あなたかと思ったのよ。
顔を見たら全然違った。おまけに男だった。
でも・・・・気の強い子が一人で泣いていると思うと我慢ができないの。

小さい頃あなたがよく使用人部屋の鏡台の裏で泣いていた事を思い出して、今もこの国のどこかでこんなふうに辛い思いをしているんじゃないかと思うといてもたってもいられないの。



ねえ明日美、私、ここであなたを待っているから。












雨は一晩中降り続いていた。
翌日には落雷を伴って一層激しく、全ての物音がかき消されるほどに降り続けた。

「・・・・・・・・・・電気も点けないで何してるのよ。」

由梨は、薄暗い部屋の長椅子の上で、顔を上げず体を抱えるように座ったまま微動だにしない少年に声をかけた。
スイッチに手を伸ばそうとする気配に、少年は掠れた声で

「点けないで下さい。」

とだけ答える。
こうなる事は判っていた。それを止める力は二人ともに持ち合わせてはいなかったけれど・・・・・・。
由梨が長椅子の隣に静かに腰を降ろすと、少年の体がぴくりと震えるのが判った。

「アキラ・・・・・」

アキラがまた震えた。

「アキラでいいわよね、これからそう呼ぶわ。ねえ・・・・いい?こっちを見なくていいから話を聞いて。」

由梨は、アキラの頭をそっと抱えて静かに語りかけた。

「ねえ、いい?こんな時代に言葉も通じない国で暮らすからには・・・時にはこんな乱暴なコミュニケーションも必要になる事があるのよ。

ねえ・・・・会話だってそうでしょ?大好きな人とは、交わす言葉一つ一つが宝物みたいに素晴らしいけれど・・・でも時には不愉快だったり、意に染まない相手と話さなきゃいけない事もある。でもね、大事な事は、嫌な相手とコミュニケーションを取ったからって、それにいちいち傷ついたり、自分を卑下したりしてはいけない、ってこと。
相手の憎しみをそのまま受け取ったり、ただ暖かさを求められたり・・・そんな事もいくらでもあるけれど・・・アナタはアナタなんだから。」

アキラは答えない。

アキラの脳裏に、昨夜永夏が自分に強いたことが蘇ってくる。

「シンドーはこうされるのが一番好きだった。」

そう言っていた。

最初は抵抗して逃げようとしていたのに、永夏がヒカルの名を連呼するのを聞いているうちに、別の感情が生まれた。
この手が進藤に触れ、この唇が進藤の唇を覆い、この肉体が進藤を埋めたのだ・・・と。
行為の最中にヒカルの痴態を聞かされ続け、ヒカルを貶め続けられる度に、アキラは自分の感情が制御できなくなっていった。

『オマエ・・・・初めてだったのか・・・』

永夏の言葉に羞恥が蘇った。

『初めての割には筋がいい。残念だったな、シンドーに綺麗な体を抱かせてやれなくて。』

怒りで頭の中が白くなり、また快楽に溺れて、永夏が憎いのかそれとも彼を通してヒカルを感じたいのか、そもそもこれが誰の手なのか、最後には朦朧とした意識の中で、ヒカルの名を叫んでいたような気がする。

「ボクは・・・・・・・・。」

必死の思いで声を出す。
ボクは汚いのかもしれない。
永夏の腕の中で進藤を思い出した時、ボクは確かに幸せだった。

「・・・・・やめなさい。何があっても自分を責めてはだめ。」

そう言って由梨は、アキラの手を自分の胸元に運んでいった。

雨音が大きくなった。












「私が愛しているのはアナタじゃない。・・・・・・でも、私が感じているのは判ったでしょ?」

長椅子の上でアキラの体を受け止めながら由梨は尋ねた。
その問いにアキラは頷く。

「それでアナタは、私の事を汚いと思った?」

アキラが顔をあげて驚いたように首を横に振った。

「そして、私と寝たからって、アナタは私の事を愛してはいないでしょう?」

「・・・・・・・・・ええ。ごめんなさい。」

「謝らなくていいのよ、バカね。・・・・・・・・・・アナタも同じよ。少しも汚れてなんていないし、永夏に特別の感情を抱く必要もないの。いい?大事なのは生きて愛する人ともう一度会う事なのよ。」

それだけ言うと、由梨はさっと身を起こし、手早くドレスを着込んだ。

「ごきげんよう、アキラ。もっといい男になりなさいよ。」

振り返りもせずに背筋を伸ばして部屋を出て行く深紅のチャイナドレス姿に、アキラは心の中で頭を下げた。







その晩、永夏は珍しく酔って帰宅した。

「雛菊は首でも吊ってるかな。」

半ば自嘲気味に呟く。
先刻まで秀英に散々たしなめられていた。
中国の趨勢が、共産党に傾いている事はもはや明白であった。自由主義を標榜する国民党は、各地で連敗を重ね、党首蒋界石の国外脱出の噂も囁かれ始めている。

「アメリカが、政権を握れない党をいつまでも支援するはずがないだろう。」

秀英が言っていた。

戦後処理として中国に配備された米兵たちも、やがてこの国が社会主義国家として成り立っていく流れには逆らえず、次々と帰国の途についている。

「今、北京では潜伏している国民党要人をいぶり出しにかかっている。なぜ命令を無視してまでここに留まるんだ。」

秀英の言う事は尤もだ、と頭では理解している。共産党が支配する国になったら、いずれにしろここにはいられない。けれど、アメリカに・・・・アメリカまでシンドーはやって来れるのだろうか。

「・・・・・・・・・・・ボクの次の配属先、言ってなかったよね。・・・・・・・・・日本の横田だ。トーヤを・・・・連れて帰るよ。」

頭から冷や水をかけられた思いだった。

秀英がトーヤを日本に連れて帰る。

シンドーの元に・・・・・・・。







「なんだ・・・・・・死んでるかと思った。」

家に足を踏み入れ、そこに変わらずアキラの姿を見た永夏は、苦々しく呟いた。


死んでしまっていればよかったのに。

そうすれば、オマエは二度とシンドーに会えないのに。

せめて逃げ出していれば秀英に会わせる必要もなかったのに。

胸の内のどす黒い怒りと共に、アキラの体をその場になぎ倒す。

昨夜と違ってアキラは抵抗しなかった。



「・・・・・・・・・シンドーと同じだな。そんなに良かったのか?」

永夏の挑発に、アキラは笑みを返した。

『由梨さんが言っていたことをずっと考えていた。これは単なるコミュニケーションだ、と。それなら・・・・ボクはあなたの体を利用させてもらう。』

「・・・・・・何だ?オレに判る言葉で話せよ。」

アキラは、胸元から鋭利な剃刀を出して、永夏の喉元に突きつけた。

「動かないで。・・・・・・・ボクは男なんですよ?」

アキラは器用に剃刀を回しながら、永夏の体を反転させた。

『こんな物は無くたっていいんだけれど・・・・それでも後であなたの言い訳くらいにはなるでしょう?』

「だから何だ!!オマエ・・・・・・何考えてる!?」

飲み過ぎていた。それでなくともふらつく体の上に圧し掛かられ、凶器を押し付けられて、永夏の額に脂汗が浮いた。

『あなた・・・・・本当は進藤に抱かれたかったんでしょう?』

シンドー、の一言が呪文のように永夏の耳に届いた。アキラの手が自分の軍服のボタンにかかっても、そして自分の体に触れ始めても、永夏は身動きできずにいた。

『進藤の手はもっと熱い。』

冷たい石の床の上で、永夏の体は冷え始め、アキラの手が辿る場所だけが発熱していた。

アキラは自分の体の下にある永夏の体を通して、その下にヒカルの姿を見ていた。

ヒカルを散々苛んだこの体を、今度は自分が自由にすることによって、ヒカルの苦しみも快楽も共有して救い出せるような気がした。

「やめろ・・・このクソがきが・・・」

永夏の言葉を斟酌せずに動き回るアキラの手の動きに、永夏が反応を示した。

「勃ってる。・・・・・・・・・案外節操がないんですね。」


アキラの言葉に永夏が腕を振り上げようとするが、次の瞬間にアキラの口の中に自分自身を含まれ、声を詰まらせた。

『進藤の唇はもっと優しい。』

ボクはまだ触れたことはないけれど・・・・・・。

進藤、と口にするたびに永夏の顔が引き攣ることにアキラは気が付いていた。


長い指を永夏の体の中に滑り込ませる。

『進藤の指はね、もっと筋張っていて乾いている。』

指を増やす度に、永夏の顔が苦痛に歪む。

「・・・・・・・・シンドーが・・・・・・・・・何・・・だ。」

『あなたなんかに進藤は渡さない。』

アキラは、指で永夏の体内を探り、彼の反応を確認しながらもう一方の手を中心に添え、激しく動かした。

やがて、屈辱の表情と共に永夏が精を吐き出したのを見て取ると

「あなたが一生知る事のない話ですから。」

とだけ言い残し、バスルームに消えていった。











「なあ、あいつさあ、思いっきりここに馴染んでないか?」

ヒカルと笑い転げる社の姿を見て、和谷が呟いた。
ヒカルを絞め殺さんばかりの勢いで上京してきた社清春は 「とりあえず今晩のメシと宿。それから仕事や。何しろ明石の鯛漁ほっぽって来とんのやからな。話はそれからや。」 と啖呵を切り、「メシ・宿・仕事」の三拍子が揃ったここ「雛菊建設」に仮入社と決め込んでいた。翌日にはすでに倉田の目に留まり

「オマエはじっくり成長していい土建屋になる素質がある。」

とまで言われる嵌りようであった。

「うん・・・・・・・・まあ。でも、進藤にとってはいい気晴らしになるんじゃないかな。アイツは俺たちと違って、塔矢のことは何も知らないし・・・・。」

麦が混じりながらも立派な白米の昼食を取りながら、社はヒカルの背中をばんばんと叩いている。

「もっとよう食え!そんな細っこい体相手じゃ、よう喧嘩も出来ひん。・・・・・・・・・・大体自分、毎晩宿舎抜け出してどこ行っとんのや。子供は夜は寝え!!。」

オマエよりずいぶん大人だと思うけれど・・・。

ヒカルは苦笑した。

「しっかし、ここはええ職場やな。オマエ知っとる?現場によってはな、作業員全員ヒロポン漬けで、そんで作業能率上げてるとこもあるらしいで。何しろ薬局で売り始めてるくらいやからな。・・・・・・・・ほんでも、薬局で買ってる奴なんかはまだ恵まれた方でな、中国辺りの粗悪なヒロポンで体がたがたになった奴がようけおるらしいわ。」

「ふう?ん・・・・・・・。」

倉田以下、回りの者が一切薬物と関係がなかったために、その時のヒカルには何の感慨も浮かばなかった。

身近な人間が、その粗悪なヒロポンと密接な関わりを持っている、と知るまでは。

「中国辺り・・・・か。船で密航でもしていくのかな。」

ヒカルは空を見上げて呟いた。






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