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2.柿




またあの子だ・・・・・・・。

アキラは小さく笑みを漏らした。

こうやって永夏が家を空けると、決まったようにやって来て、戸口の辺りから物珍しそうに覗き込んでいる。

「和谷・・・・・くんに・・・よく似てる。」

あの太平洋の島で、束の間を共に過ごした人たちは、無事日本に帰ったのだろうか。そして進藤は、今どうしているのだろうか。

アキラの顔つきが少し和んだのであろうか、ついにその少年がおずおずと家の中に足を一歩踏み入れようとした。

その時。

「こんにちは。包子持ってきたわよ!」

威勢のいい日本語と共に、短髪の女性がその後ろから姿を現した。

「ヨウリィさん・・・。」

あっけにとられた少年は、由梨に向かって真っ赤な顔でまくしたてている。手振り身振りを交えて、興奮して一生懸命話しているのだが、しばらく経つと、由梨に大声で笑い飛ばされた。早口すぎてアキラは全く聞き取れないでいたが、やがて少年が「バア」とも「ババア」とも聞き取れる悪態をひとつ吐くと、由梨がチャイナ服の長いスリットから形のよい足を伸ばして見事な蹴りを決めた。

・・・・・悪態は日本もこちらもそれ程変わらないらしい。

舌を出して逃げていく子供に、げんこつを振り回して追い掛けんばかりの様子の由梨を見て、アキラはため息を一つついた。

「まあーったく。生意気なんだから。ああ暑い。ちょっと、中入るわよ。いいでしょ?」

アキラの返答も待たずに由梨はどんどん家の中に入り込み、勝手知ったる居間に腰を落ち着けた。

「・・・・・ああ、大丈夫よ、心配しなくても。今日、永夏はアメリカから来た上官の接待で大忙しなの。多分夜のご接待まで付きっきりでしょうね。今晩は麗源の女の子たち貸し切りだもの。」

いや、心配をしているのではなく・・・

アキラは必死で頭の中を整理していた。

ヨウリィの話す日本語は・・・・・恐らくわざと蓮っ葉な物言いをしているのであろうが、それでも十分に綺麗な東京言葉だった。そしてそれを隠しもしない。

「それでね、笑っちゃうじゃないの。アナタ清朝のお姫様だと思われてるわよ。悪いアメリカ人に捕まっているから助けてあげなくちゃいけないんですって。ヤン先生だったら助けてくれるんですって。」

一息にそう言うと、涙を浮かべんばかりに笑っている。

「ええと・・・あの。」

「何よ。」

アキラの物問いたげな様子に、由梨はいらいらと顎を上げた。

「アナタ、見た目ほどお利口じゃないのかしら。このあいだ、『私は日本人です』って、きちんと礼儀は通しておいたでしょ?他にまだ何か聞きたい事でもあるの?」



貴女はなぜここにいるのか。

何故日本に帰らないのか。

こうやって自由に出歩けるところを見ると、どこかに囲われているわけでもなさそうなのに、

・・・・・・何故永夏と情を交わし続けるのか。



結局アキラは全ての問いを飲み込み、一つだけを問い掛けた。

「・・・・・ヤン先生、というのはどなたですか?」

由梨は、ふふん、と鼻を鳴らすと口の端だけで笑った。

「やっぱりお利口さんね。・・・・・・・ヤン先生っていうのはね、この先の倒れそうな胡同に住んでいる中国人よ。この辺りの小汚いガキを集めて読み書きを教えているの。」

でもあの男はただの鼠じゃないわね・・・。

由梨はその一言を飲み込んだ。

「ふふ。そんなに硬くならないでよ。別にアナタが『何故ここにいるのか』とか『何故日本に帰らないのか』なんて事聞くつもりはないから。・・・・・・・・そうね、聞いたって私にはどうしてあげる事もできない。だったら最初から聞かないわ。」



この人は、ひどく淋しいのかもしれない。



まるで自分を見ているようで、アキラはこの年上の女性にふと親近感を抱いた。

「それでは、貴女はどうしてここに?」

アキラの問いに、由梨は顔を上げた。

「アナタ、私を口説いてるの?」

「・・・・・・いえ。」

「抱きもしない女に自分ではどうしようもない事を聞くんだったらね、お酒でも用意しなさいよ。」

由梨がうっとりと笑ったのでアキラもつられて笑みを返し、永夏秘蔵のコニャックとカットグラスをそっと卓子の上に置いた。

「そうね、どこから話したらいいかしら。・・・・・・・・・・戦争も末期の頃、ある宮家が停戦のために奔走していた、って言ったらアナタ信じる?」

「・・・・・いえ。」

アキラは目を伏せたまま呟いた。

「まあ、そういう事があったのよ。それで、私は満州国に調停役で出向いていたの。・・・・・・・満州国の皇弟殿下、ご存知かしら。あの方の奥様はまた別の宮家のご出身で・・・浩子さま、って仰るんだけれど。私も見知っていた方だったし・・・。何とか、満州国の皇帝側内部から、この戦争を終わりにする方法はないものか、って。」

話が込み入って来るに従って、自分の言葉遣いが地に戻っている事にこの人は気がついているのだろうか、アキラは心の中で微笑んだ。彼女の話し方からは、かなりの地位の高さと教養が感じられた。

「まあ、結果はご覧の通りね。満州国は倒れ、皇帝ご一家も拘束されて・・・。私は何とかここまで逃げては来たけれど、このまま日本におめおめ帰るのも何だか癪に触るじゃない?」

筋金入りの意地っ張りだ・・・。

アキラはそれを聞いて思わず吹き出した。

「・・・・・・・失礼ね。まあいいわ。私も随分甘いお嬢ちゃんだったのね。許婚の助けになると思って、単身満州に渡ったんだから。」

この女性が語る『許婚』に心当たりがありすぎて、アキラはそれを彼女に語ってよいものかどうか考えあぐねた。

「今度会ったら容赦しやしないわ、あのばかアッシー。」

ああやはり。

アキラは心の中でため息をついた。

「アナタは?アナタと永夏は『何か』を待っているように思えるんだけれど。」

さりげない問いかけにアキラは小さく笑って答えた。



「『何か』ではありません。『誰か』ですよ。」





同じ頃。

時ならぬ悪寒に芦原弘幸は大きく震えた。

「どうしました?お風邪ですか?」

今日のホストである越智会長が尋ねた。

「いや・・・・・・そうじゃないんだけれど・・・・。何だか、物凄く大事な事を忘れているような気がして・・・・・。」

多分思い過ごしだろう、と芦原は気を取り直した。

なにしろ今日は、この越智グループ初の大型ホテルの落成式である。

連合軍の将校、そのご夫人令嬢、新興の財閥などに混じって、公然の秘密である『宮家の庶子』芦原弘幸は、賓客としてもてなされていた。

越智会長が語るところによれば

「これからは、今まで富貴に縁のなかった者たちが大金を掴む時代がやってくる。そういう輩がありがたがるのは、自分たちが決して手に入れられない名門の血だ。」

だそうで、芦原などさしずめその筆頭として、このホテルの名誉顧問として名を連ねているのだった。



その時、ロビーに喧騒が起こった。

広いティールームの隅で、ひときわ目立つ長身の米軍将校と話をしていた白いスーツの男に向かって、少年が一人駆け寄っていったのだ。

「緒方少佐!生きてたんだね!」

少年の着ていた菜っ葉服は、このホテルにあまりにも不似合いだったけれど、彼の全身から立ち上る喜びに、回りの者たちも一瞬、その行動を制止することを忘れた。

けれど、白いスーツにむしゃぶりつくように両腕を広げる少年に、スーツの男は眉一つ動かさず、ただ

「知らんな。」

と冷たく答えるのみであった。

それを合図にしたかのように、従業員たちも呪縛から解かれた。数人が駆け寄って、少年を男から引き離そうとする。

離せよ!オレだよ!進藤ヒカルだってば!!

その少年・・・・・・進藤ヒカルは、じたばたともがきながらも叫び続け、なお男に詰め寄ろうとする。

突然、男がにやりと笑った。

「ああ!進藤ヒカルか。思い出した。すまんな、君たち、オレの知り合いだった。」

打って変わったようにヒカルの肩を抱くと、先刻まで話をしていた将校に二言三言何かを囁いた。将校は天を仰ぐような大袈裟なジェスチャーをすると、彼にウィンクを送って寄越した。

「わかった。じゃあ部屋に行こう。」

男に肩を抱かれたまま、ヒカルはエレベーターに連れ込まれた。



その様子をじっと見ていた人間がもう一人いる。

「進藤ヒカル・・・・・・・・。生きていたのか。」

言わずと知れた、越智会長の孫、越智康介である。

『あのガキ、今度会うたら絞め殺したる!』

越智の耳に空母の上で聞いた社清春の絶叫が、まざまざと蘇ってきた。

「・・・・・・・社に連絡・・・してやるかな。」

それにしても、あの白いスーツの男はどう見ても怪しかった。

急に態度を変えて彼を部屋に連れ込み、どうしようというのだろうか・・・・・・・。

「まあ、ボクには関係ないけどね。」

そして越智は再び人の波の中に紛れていった。



話は一時間ほど前に遡る。

常勝の名を欲しい侭にした中隊長倉田厚は、収容所から解放されて帰国するやいなや、土建会社を立ち上げていた。やがて日本が未曾有の建築ラッシュに見舞われる事を見越しての設立であったが、フィリピンに収容されている間も、その人間的魅力を活用して深めていたアメリカ人、現地人との交流はまさに先見の明と言えるであろう。

「日本の材木は高くなる。それに品不足にもなる。」

倉田の予言は的中し、フィリピン、マレーシアからどういうつてを利用したものか、次々と運ばれる材木で街を復興させ、収益ははうなぎ登りに上がっていった。

収容先から同時に引き上げた仲間たち、口コミで集まってきた復員兵たち、今や倉田の回りは、懐かしい面々で溢れ返っていた。

毎日土木作業の後には、ドラム缶一杯に綺麗な湯を沸かし、祖国の土の上で湯につかりながら夕空を眺めれば、全てが懐かしい思い出話になる。

「・・・・・・・・進藤、おい、進藤、聞いてるのか?」

和谷の声に、ヒカルははっと我に返った。

「お前・・・・・また塔矢の事考えてただろ。」

しょうがねえなあ、といった調子で口を尖らせる和谷を、伊角がそっとたしなめる。

「そうじゃないんだ・・・。ちょっと違う。」



また塔矢の事を考えていたんじゃない。・・・・・・・思い出そうとしないと・・・忘れてしまいそうなんだ。



ヒカルは、そんな自分を持て余していた。

橋がかかって歓声を上げて渡り初めをする人々を眺めるひと時、焼け落ちた駅舎が再建されて、戦後初めて機関車がその駅に止まった時、出来上がった小さな家に手を合わせて拝む老人の目に涙を見た時・・・・・・・

ヒカルは、アキラの事を忘れていた。

日本中が新しい時代に向かって走り出し始めていた。

倉田も、伊角も和谷も、目に希望の光を灯して、一日中汗にまみれて働いていた。

このまま・・・・こいつらと一緒に、楽しく暮らしていちゃ・・・・・・・どうしていけないんだろう・・・・・。

ヒカルが白いスーツ姿の男を見たのは、その時だった。

「おい!進藤!どうした!?」

突然走り出したヒカルに、倉田が慌てて声をかけたが、ヒカルからの返事はなかった。

まだまだ数の少ない自動車の窓からかすかに見える白いスーツ、少し斜に構えたその姿は、見間違えようもない緒方少佐だった。



その緒方少佐は、部屋のキーをロックすると、先程までの笑みをあっさりと消してヒカルに尋ねた。

「いくらだ?」

「何?何言ってるの?緒方・・・・・」

「知らん、と言っているだろう。」

ヒカルの言葉を男は途中で遮った。

「男娼にしてはなかなか頭がいいじゃないか。あんな場所で抱きつかれたら、こちらとしてもいい迷惑だからな。・・・・・まあいい。男は抱いた事がないが、何事も経験だ。」

ヒカルの目が昏く光った。



これは罰かもしれない。

塔矢の事を忘れていたオレに対する。



「お金はいらないよ。」

「じゃあ何が欲しいんだ?」

ヒカルは、男のスーツに手をかけた。


塔矢を探そうと・・・手を尽くさなかったオレの罪なんだ。



「アメリカの将校と親しいみたいだね。・・・・・・・・・・・アメリカ兵に連れ去られたある人物の消息が知りたい。できれば・・・探しに行きたい。」

はっ!と男が笑った。

「でかい口を利くじゃないか。自分にそれ程の値打ちがあるとでも思っているのか?」

ヒカルの手がネクタイを解く。



「男は抱いた事がないんだろ?・・・・・・・・・試してみればいいじゃないか。」






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