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1.キスケ




1945年秋。北京。

汪兆銘の樹立した南京政府が終戦によって倒れ、国共内戦に突入した時ではあったが
この国際都市ではまだまだ官僚は豪奢な生活を続け、様々な思惑を持った諸外国人が
跳梁跋扈していた。

「中華人民共和国」、そして「首都北京」が生まれるのはもう少し未来の話で、
今は目まぐるしく変わる政権に都市名だけでなく人民もくるくると踊らされている。

そんな街の中で。






塔矢アキラは中国服に身を包み、窓際でぼんやりと外を見ていた。

その窓には刺繍を施された長いカーテンが掛かっていて、広い部屋の真ん中には
美しい天津緞通が敷かれている。
大きな花瓶には、重そうな頭を持った菊の花が活けられていた。




「ねえ・・・あの子は何なの?いつもしゃべらないけど。」

「英語を覚えようとしないのさ。」


本当は、大体分かる。
覚えたくもなかったしその気もなかったが、船の中で、そしてこの大陸で、
周りでまくし立てられる英語を聞くともなしに聞いている内に、ある時ふ、と理解している
自分を発見した。

だが、それは言わない。
あの、高永夏と会話したくない。
どこからか薬を調達し、きちんとした医者に見せてくれるのは有り難いが。


「Rearly? ...What your name?」

「・・・・・・。」

「名前も国籍も分からないんだ。戦災遺児さ。」


・・・嘘つき。






高永夏は9月にモンテンルパの収容所長の任を解かれて帰国命令を受けたが、
自ら志願してこの北京にやってきた。
総司令部は永夏が父祖の国の側に居たいのだと思ったかも知れないが、
実のところは少し違う。

勿論祖国の側、この東洋で戦後を見届けたい、という思いもあったかも知れないが・・・
ヒカルが、米国までは追って来られないだろうと、思ったのだ。
本当は日本進駐軍に志願したのだが、それはさすがに叶えられなかった。


永夏は、自分がアキラを握っている限り、必ずヒカルの方からやって来ると信じていた。

信じてはいたが、やはり今すぐは無理だろうとも思う。

そういう訳で、ただ、漫然とアキラを飼っている。
身辺から離さない為に、捕虜ではなく、ただ国籍も名前も不明な拾い子として。






「男の子、よねえ?」

「ああ。」

「あんな綺麗な旗袍(チィパオ)を着せて。いたずらっ子ね。」

「似合うだろう?それに本人が分かってないからいいんだよ。」


分かってないはずないだろう!
永夏が呼んだ娼妓のように今風のぴったりしたデザインでないのが救いだが
それでもこれはどう見ても女物だ。


その娼妓は最近永夏が気に入って呼んでいる女で、『ヨウリィ』と呼ばれている。
思い切った断髪で、体のラインがよく出るチャイナドレスを着ていて、そして英語が上手い。




「それで、アナタの夜の遊び相手って訳?」

「そんな趣味はない。」

「うそ、うそ。この間『麗源の店』から男娼を呼んだでしょう。」

「・・・全く、キミらの情報網にはFBIも真っ青だね。」

「ふふふ。麗源のお母さんとは仲が良いのよ。」



その、男娼、というにも幼いような少年を、永夏はアキラの前で、抱いた。
シンドーにこんな事をした、あんな事もした、と言いながら。


英語が分からないと思われているのを幸いに、
無表情を保った。
何とか保てていたと思う。

だが、心の中は荒れ狂っていた。

言葉が分からないのにあんな事を言うということは。
進藤は・・・本当にこの男に・・・。


気が狂いそうだった。


それでも何とか理性が保てたのは、
危ういところで秀英の「オマエに会うため」という言葉を思い出したからで・・・。




その、やはり英語が分からないらしい少年は抵抗もしないが最後までアキラと目を合わせず、
やがて詰まらなくなった永夏に放り出された時には、かなりホッとした顔をしていた。


生きるために。
生きるために甘んじてこんな苦痛と屈辱を受け入れている少年に進藤の面影が重なり、


今度は涙を堪えなければならなかった。





そう。何故か永夏は私生活では片時もアキラを身辺から離さない。
寝るときもベッドは違うが同じ部屋で。

だから、いくら広い部屋でも、当然永夏の夜の生活は筒抜けだ。
そして、永夏の部下には彼らの関係を誤解している者も少なくない。


全く。
どういう神経をしているんだこの男は。
本当は今すぐ逃げ出したいが、この部屋の外にはどういった世界が広がっているのか見当も付かず、
マニラでヒカルと行き違った事を思うと、どうしても踏み出す気になれなかった。

少なくともヒカルは、アキラが生きていて、そして永夏の側に居ることを知っているのだ。


必ず迎えに来る。
きっと。


マニラ近郊での一瞬の邂逅の時に、ヒカルと分け合った黒石を、見つめた。







抱き合う二人を呆気にとられたように見つめていた米軍であったが、
やがて倉田隊を捕虜した一隊と永夏の部下が、二人を引き裂いた。

最後の瞬間にヒカルに黒石と白石を差し出すと、酷く驚いた顔をしていた。


「これ・・・オレが磨いたのだ。これをどこで?」

「佐為さんが、」

「佐為が。」

「これを、ボクと思って、」

「バカ!絶対に、絶対に迎えに行くからな!待ってろよ!絶対に死ぬなよ!」


そして白石の方だけをむしり取って・・・それが最後だった。

石に引き合う力など無い。
分かっている。
分かってはいるが、今はこれだけがヒカルと自分を繋ぐよすがで。

アキラは、小さな袋に入れていつも首から下げ、大事にしている。







「韓国人じゃないんでしょう?中国人かしら。『シェンマミンツ?』」

「・・・・・・。」

「日本人?『あなたの名前は?』」


思いがけず流暢な日本語を聞いて、アキラは小さくひくりと震えてしまった。
永夏が何気ない振りをして遮る。


「まあいいじゃないか。何人か分かったって帰られる訳でもなし。」

「その内にアナタのペット。」

「その内に、ね。抱くよ。」



伏せた瞼が、また震えたのに気付かれただろうか。

初めの内こそ永夏に何かされるのではないかと戦々恐々としていたが、
同じ部屋に寝泊まりしていても手を出してこないので、少し気が緩んでいたようだ。

何故、抱かないのだろう。
この男は何故かヒカルに執心しているようだが、それと関係があるのか。
それとも、単なる気まぐれか。

あの娼妓が帰ったら、また神経の休まらない恐怖の夜が、始まる。



「今はただの綺麗な人形だ。」

「お人形遊びをするにはアナタはちょっとトウが立ってるわねえ?」

「だから本当はキミみたいな美女がいい。・・・オレの、リリィ・・・。」


永夏が座ったまま娼妓を抱きしめて、その首筋に顔を埋める。
ヨウリィという名前から、「リィ」あるいは「リリィ」というあだ名で呼ばれる事もあるらしい。
だが、女は苛立ったように永夏を振りきって立ち上がった。


「やめてよ。アナタのリリィじゃないわ。」

「そうだったな。みんなのリリィだ。」

「そういう意味じゃないわよ。アナタのリリィは、他にいるでしょう・・・?」


永夏が目を見開いて固まる。
女が、それを冷たい目で睨み付ける。

やがて凍った空気を破ったのは、永夏の笑い声だった。


「全く、キミには敵わないな。」


女も笑いながらアキラの側に移動した。
そしてその顎に指を掛けて上向ける。


「・・・本当にただのお人形かしら?」


小声で呟いてから永夏を見返って、


「名前が無いなら、なんて呼んでるの?」

「『雛菊』。・・・前に、ソイツの事をそういう風に言った奴がいてね。」

「そう・・・。」




「あらいやだ。もうこんな時間。迎えが来てる。」

「残念。」

「永夏といると、時間を忘れるわ。」

「オレもキミといると我を忘れそうになるよ。」

「・・・アナタ、明日からお店に出る?娼妓顔負けのリップサービスね。」

「キミが白々しい事言うから。」

「ふふっ。Good night, YONGHA. See you Daisy.・・・アナタも、大変ね。」



思わず、振り返る。
最後は、日本語だった。とても自然な。
名前を聞いたりちょっとした挨拶程度の片言では、ない。





ヨウリィ(由梨)・・・あの人は、一体・・・?






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