うそつき 1 「ちょっと今年の天気は凄いね……」 挨拶より前にそんな事を言いながら対局室に入ってきた塔矢の声は、 憎らしい程に涼やかだった。 オレ達が名人戦のタイトルを争うのはこれが三度目。 去年は塔矢が緒方さんから獲って、一昨年は緒方さんとオレが 最後まで残ったけれど結局緒方さんに獲られて。 その前の年はこうしてオレと塔矢で争ったけれど負けて……本当に、手強い。 塔矢にとって、親父が守り続けた「名人」というタイトルは特別なのだと思う。 だとしても、一度も獲れないのはあまりにも自分が不甲斐ない。 今年こそは何とか、「名人位」を獲るという小さな夢をかなえたい。 って。 ……小さな夢? オレは、いつの間に「名人位」を「小さな夢」なんて言える程大きくなったんだろう。 小さくなんかない、強いて言えば「手が届きそうな夢」だ。 だって、塔矢はずっと前から叶えている夢。 塔矢の今の夢は「名人を守り続ける事」だろうから、オレにとっては遠い夢だ。 そんな事を鬱々と考えながら碁盤を見つめていると、 その向こうに袴の裾が見えた。 網戸みたいに透けた生地に、少し色が濃くなっている部分がある。 「おはようございます」 「……おはようございます」 丁寧に、裾をさばいて座布団の上に正座する。 上の着物の方は、袴よりも目が細かくて薄手の和服だった。 濃い色なので、襟が重なった部分が三角形に透けて見えている。 その下にも着物の下着を着てるみたいだったけど、目を凝らしても 何も見えなかった。 「進藤の所はどうだった?」 「え?何が?」 「雨。今年の夏は変な天気が多かったけれど、今日も朝晴れていたと思ったら さっきは土砂降りで」 「ああ……それで、濡れてるんだ」 「うん?ああ、車寄せが混んでて外で降りたから……。 こんな事なら、もう少し早めに来るべきだったね」 「余裕だな。オレは、昨日の晩から泊まってるから天気知らなかった」 「そう」 そんな、お互い上の空のおざなりな会話をしてまた碁盤を睨む。 タイトル戦を重ねると、こうして自分にとって一番良いスタイルが分かって来た。 開始ぎりぎりに入ったり、バカみたいに早く来たり。 直前まで周りの人と大声で冗談を言い合ったり、朝から一言も喋らずに臨んだり。 そんな試行錯誤の末、確立した現在のオレのスタイルは。 必ず前泊し、当日開始前は出来るだけ空白の碁盤を眺める事。 対局相手とは、余裕を持ってある程度言葉を重ねる事。 対する塔矢のジンクスは、今時コイツだけなんだけど、必ず羽織袴で来る事。 当日、可能な限り自宅から出る事。 地方の会場でも、近くの他のホテルに泊まって、そこから出発する事。 そんな事をお互い知り尽くしてしまう程、オレ達は沢山の大きな対局を経てきた。 だがオレには、塔矢が相手の時にだけ、してしまう習慣がある。 オレは基本的に盤外戦なんかしない。 けれどコイツ相手の時だけは……。 どうしても、何か驚かすような……相手が予想外だと感じるような事をしたくなるんだ。 「塔矢」 「何」 「透け透けだな」 「え。……ああ、これ?紗の着物と絽の袴だよ」 「透けて見えてる」 「何が」 「見えちゃいけないモノ」 「バカを言うな」 「そもそも、何でそんなに透け透けの着物着てるの」 「タイトル戦で何を着ようが勝手だろう。 夏に正絹の羽織袴もないから、この時期の為だけに誂えたんだ」 「そう?目のやり場に困るから、盤外戦かと思った」 「碁盤の上だけ見てろ」 徐々に荒くなっていく塔矢の声に、記録係がおろおろしている。 新人かな? 慌てるなよ。 塔矢とオレは、いつもこんなもんだよ。 そして緊張の第一局は、始まった。 五十手余り進んだ所で、少し長考してしまったが、やはりこれが最善手だと思う。 白い碁石にじゃらりと指先を入れると、ひんやりとした。 と同時に、塔矢がぴくりと動くのが見えた。 オレが打ったら、すぐに打つつもりか……? そう思い至り、何気なく腕時計を見る。 五時二十八分。 今打って、塔矢がすぐに打ち返してくれば、オレが封じ手……。 塔矢なら、そんな事はしないか? いや、開始前に揶揄った事を根に持ってる可能性もある。 コイツも、オレ相手になら、そんな馬鹿馬鹿しい事だってやりかねない。 そっちがそのつもりなら、こっちだって……。 オレは、打つ手が決まっているのに態と五時二十九分三十秒まで待ち、 徐に打ち込んだ。 「……っ!」 ちらりと見上げると、塔矢の耳が紅く染まっている。 ははっ!珍しい。 頭に血が上ったな? そう思った瞬間。 じゃら……ぱち。 ほぼノータイムで、受けられた。 コイツ……! ごり、と頭蓋骨の中で大きな音が響く。 食いしばった、奥歯が砕ける寸前の音だ。 ここで封じ手をさせられたら、負ける。 碁の内容ではなく、気迫で。 ぱち! さっきの長考を無にする勢いで、反射的に打ち返してしまった。 「……」 塔矢が険しい顔で腕を組んだ瞬間、 「それでは、十七時三十分になりましたので塔矢名人、封じ手をお願い致します」 定刻が告げられた。 外に出た途端、塔矢に「さっきのは何だったんだ!」と詰られるかと思ったが オレの方を見もせずに、さっさと自分の宿に帰って行った。 「おい。さっきのは何だったんだ?」 代わりに声を掛けてきたのは、見物に来た和谷だ。 「別に。意味はないよ」 「塔矢、滅茶苦茶怒ってたぞ」 「そう?」 「気がつかなかったの?集中しすぎ」 「塔矢が腕組んでたのは知ってたけど」 「その後、扇子で思い切り畳を叩いたんだ。あの塔矢が」 「マジで?」 「マジ。周りの奴らみんなビビってたもん」 なら、盤外戦には勝ったという事だ。 ……気合いでは負けてるような気もするけれど。 まあ、そんな事を考えても仕方が無い。 塔矢が今夜、苛立ちで良く眠れずに明日ミスをしてくれれば、 言う事はない。 「なあ、和谷。気分転換に、オセロでもしねえ?」 「何言ってんだ。囲碁棋士がする気分転換っつったら普通将棋だろ?」 「そうなんだ?でもルール知らないや」 「マジか!おまえ、変な所で常識ないな。 いいよ、教えてやるよ」 昔は、相手のミスを誘うなんてそんな卑劣な真似は嫌いだったけど。 今になると、どんな手を使ってでも勝つのが、囲碁の神様への礼儀だと思う。 実際、それくらいじゃないと勝てない世界だしな。 その辺り、塔矢よりオレの方が、一歩先に大人になったような気がする。 なぁ。 どう思う? ……佐為。 結局、その一局目はオレが勝ったが、二局目は塔矢に取り返された。
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