モノグルイ 〜エドワルド・ムンク『叫び』






(国立美術館/オスロ 現在所在不明)






「気狂いでなければ描けない」

取材の待ち時間に、偶々手に取った雑誌の中にその写真はあった。
ムンクの「叫び」が去年盗まれたが、そのちょっとした特集記事だ。
件のセリフはその絵の左上の辺りに引っ掻いたような文字で書いてあるらしい。

確かに、これは平均的な精神の持ち主には描けない絵だろうと思う。
折角のカラーグラビアだが僕はあまりじっくりとは見たいと思わなかった。
・・・それなのに、こんなに惹き付けられるのは。


画面の上、1/4〜1/3は赤を基調とした空に覆われている。
その下に青いのは海だろうか。
左手から手前に向かって、柵のあるまっすぐな道か橋が描かれているが、これは何色ともつかない。
左端には小さくて目立たない二人の人物の影。
そして、その道のこちら端に大きく、黒っぽい衣装を着ている曲がった身体の人物。

タイトルの「叫び」はこの、中央の人物のものだろう。
大きく口を開けて白い目を剥いているが、その頭に髪はない。
それどころかそれが顔であると辛うじて分かる以上のどんな描写もないシンプルさなのに
激情に駆られている事だけがよく伝わってきて怖いくらいだ。

人によってはコケティッシュに見えるかも知れない。
だが僕にはやはり不穏に見えた。
こんな叫びはきっと天地をつんざき、風景も自分自身をも滅ぼしてしまうに違いない。

そんな事を思い視線は目の前の絵に注いだまま、手を膝の上の鞄に当てた。





鞄の中には、進藤に出せなかった葉書がずっと入ったままになっている。
ごく当たり前の「モナ・リザ」の絵はがきで、逆に珍しいのか
捜すのに意外と手間取ってしまった。

なのに、その漸く見つけた一枚に、不用意な一言を書いてしまったせいで
出せなくなった。
かと言って捨てる事も出来ないでこうして持ち歩いてしまっているのは我ながら意気地がない。





どうして急にそれを思い出したのか、と気恥ずかしくなって慌てて意識を絵に戻す。
欄干の手前で、両手を耳の辺りに当てて口を開けている人物は
いったい何を叫んでいるのだろうかと、無理に想像してみる。

何となく、意味のある内容ではなく絶叫なのではないかと思った。
恐怖・・・に近いけれど、少し違う。
絶望・・・どうだろう。

この一見穏やかに見える景色の中で、彼(僕には男性に見える)だけが異質だ。
というか、彼のせいで穏やかだった景色までもが狂気を帯びたような。

一体彼は、何を見てしまったのだろう。
こちらに向かって叫ばれているようにも見えて少し心がざわめく。


その時ふと、自分がこの絵に妙に見入ってしまう理由に気付いた。


・・・この閉じられた青い部分は、海というよりは湖か池なんじゃないだろうか。
それが、僕に先日進藤と歩いた不忍池を思い出させるのだ。

あの日はロートレックを見に行って、池の畔を歩いて、
何も意識しないようにしていたのに「デートみたいだよな、」なんて言うものだから。
巫山戯ているだけだと頭では分かっていたのに、何かのタガが外れた。


進藤に対するこの感情を、何と表していいのか分からない。
「友情」とは多少ずれている気がする。
「恋愛」と似てはいるかも知れないけれど、男である彼に対してそれは勿論違うと思う。
ただ、彼が消え去ったりするのが堪らなく嫌だ。
それくらいなら自分が命を失う方が、ずっといい。

無論、両親や親しい人たちに対してはみんなそうだけれど、その度合いが強いというか。
溢れ出してしまうんだ。

これは我ながら不慣れな感情で、自分でもどう処理していいのか分からない。
けれど、進藤にも誰にも言わないでおこうと思った。

相手にそれを告げるというのは、同じ感情を返して欲しいという願望の裏返しだ。
そんな浅ましい事をして、進藤を困らせたくもない。
そう思っていた。


なのに。

不忍池のほとりで。

・・・文字通り忍べなくなってしまったのだろうか。
ふと、口を衝いて出てしまった。


言ってしまってから、叫びだしたい衝動に駆られた。


全てを歪めて毀さんばかりの叫びを。


「気狂いでなければ描けない」
その時の僕には、こんな絵が描けたかも知れない。





だが。
息を詰めて待った進藤の答えは、甚だ曖昧なものだった。
うん、とただ頷き、無言で池の水面を見つめ続けていた。

・・・僕は酷く安心した。

丁度言った時、鳥が飛んだから聞こえなかったかも知れない。
だから適当に話を合わせてみただけなのかも知れない。

実は聞こえたのかも知れない。
だとしても、取り敢えず頷いてくれたという事は、不快、ではなかったのだな?


正直、聞こえていて尚答えてくれたのなら嬉しいと思う。
けれど、そうでなくとも元通りだし、後悔しかけていた僕としては全く構わない。

ただ、口に出す事が出来ただけで恐ろしく胸がすっきりとした。


どうやら「気持ちを言いたい」というのは、相手に同じものを望むという所から
来るだけのものではなかったらしい。

聞こえていなかったとしても。
僕の気持ちは鞄の中のモナ・リザだけが知っていれば、いい。

そう肝が決まると僕の心は、一気に凪いだ。
天元戦に負けてから、自分の気持ちに気付いてから止めどなく溢れ出し、
ほとんど暴発しそうになっていた感情はこの小爆発によって沈静化した・・・。

僕は、狂っていない。
まだ自分をコントロール出来る。

それが分かっただけで満足だった。
だから僕は、ちゃんと聞こえていたか否かなどとは問わず、「碁会所に行こうか」
とだけ言った。





この絵の背景だけでなく、叫んでいる人物もまたその時のことを思い出させた。
進藤の答えがあるまでの短い時間、僕の中の心象風景は正にこんな感じだった。
後で思えば、滑稽だ。

が、その時。



『違うよ。』


不意に、耳の後ろで声がした。


『それは、叫んでいるんじゃない。』

「・・・・・・。」


ぞっと背筋が凍る。
背後には倉庫のドアしかない事を、僕は知っている。


『・・・の声を聞きたくなくて、耳を塞いでいるんだ。』




震える指で携帯を開ける。
グラビアの絵を携帯に取り込んで、数少ないメールアドレスの中から一つを選択する。

SOS
頼む。届け。

・・・盗難にあったオリジナルは、今、どこに、

そんな今考えなくてもいいような漫然とした思考の中で
「声の主」に送信した「叫び」の画像の。
左端の二人の人物の顔は、
間違いなく、

進藤と僕になっていた。







数十秒後、脳天気な着信音が鳴るまで金縛りにあったように息が出来なかった。

進藤は、とにかく話があるから明日、新宿のデパートの入り口に貼ってある
「鶏が沢山いるポスター(伊藤若冲の「郡鶏図」だろう)」の前で待ってろ、と言っていた。









−続く−







  • 6.The Night has a thousand eyes
  • 戻る
  • SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送