はなのおもかげ  〜クロード・モネ『睡蓮』








天元戦 五番勝負の第2戦、鎌石義郎天元×塔矢アキラの
熱戦は、都会の喧騒を離れた、三重県桑名市の『六華苑』で
行なわれていた。


イギリス人建築家、コンドルの設計になる洋館、和館及び
池泉回遊式日本庭園、からなる一連の建造物は
国の重要文化財にも指定されている。

日の光を受けて静かに佇む明治生まれの建物は、
その一室で行なわれている対局の激しさとは対照的に、
うつらうつらと、まどろんでいるかのように平和そうに見えた。





「う〜〜〜ん〜〜〜」

屋外に出ると、まずは思い切り両手を天に向け
ヒカルは体を伸ばした。
あまりの気持ちよさに、つい声が出てしまう。
対局に見入ってしまい、知らず体が強張っていたのだ。

緊迫する応手の後、ちょうど鎌石天元が長考に入った、と見て
気分転換に、庭へ出てきたヒカルだった。

以前、骨董屋へ一緒に行ってから、少し、ライバル兼友達めいた
雰囲気になってきたヒカルとアキラではあるが、
ヒカルとてわざわざアキラのために地方に来るほどは、ヒマではない。
ただ、丁度中部総本部で対局があり、そこまで来たならと
電車で30分足らずの桑名まで足を伸ばしたのだ。

既にタイトルを争っているアキラの実力を目の当たりにするにつけ
いいようのない焦りに苛まれる。
そのイライラを忘れるかのように必死で先ほどまでの対局を
反芻しながら庭園を歩いているうちに、
いつのまにか、池のほとりに立っていた。
池とはいえ、結構な大きさがあり、対岸に人がいても
その顔の判別は無理な程だ。



どうも、水まわりは、得意じゃないな。

つい声に出して、呟いていた。

川とか海とか、とにかく、流れ、のある水は、まだいい。
いけないのは、湖とか池とか、淀んだ、閉じ込められた水。
昔はなんということもなかったはずなのに、
佐為と別れてから、段々に、何故だか湖とか池とか、が怖くなった。

ここにいちゃいけない、直感的にそう思った。


あーっ、ダメダメっ!なにやってんだろオレ!
ほら、こんなところでボーッとしてると塔矢にまた差をつけられちまう!
さーっ、もどろぅっと!

無理に大声で叫んでみる。
もし誰かがいたら、相当に間抜けな行為だが、あいにく人っ子一人いない。
まあ、広い庭園だし、今日は施設全てを天元戦に貸し切っているので
囲碁関係者以外は敷地内にいない。とはいえ、
対局場の和館から、洋館を通って、この池にくるまで誰ともすれちがわなかったのは
いくらなんでもおかしい、とヒカルは今更ながらに気がついた。

意を決し踵を返そうとした瞬間視線が水面に吸い寄せられた。
綺麗な花が浮かんでいる。
なんという名前か、思い出せないが、ぽわりぽわりと水面に浮かぶ姿は
どこか高貴ささえ感じさせる。
だが、ふと花の横をみると、水中にからまりあう根っこが見えた。

まるで、水中にひきとめる鎖のようだ。





この湖水で人が死んだのだ





突然、昔、授業できいた詩の一節が蘇った。

ふいに目の前の視界が閉ざされる。
しばらくして、見えてきたのは
花の根に捕らわれ、水中から湖水をとおして
かすかに見える日の光を夢中で追い求める自分。
不思議と息苦しさは覚えず、ただ、このまま眠りたいような
そうすれば、すごくラクになれるような、暗い欲望に
侵されて行く。
ぼんやりしていく意識の中、体じゅうに絡まる根っこだと思っていたのは
愛しい人の長くて美しい黒髪に変わっていった。










気がつくと、心配そうな顔で塔矢がのぞきこんでいた。

あれ、なんだろ、こいつのこんな顔、はじめてみた。
なんていったらいいのか、こんな頼りなげな塔矢ってはじめてだ。
え、もしかして、オレの事心配してくれてんのかな?
へー、ふーん、なんだ、かわいいとこあるじゃん。

「あ、の。オレどうして・・・?」

「気がついたのか進藤っ!」


ゆっくりと体を起こすと、オレはどうもソファの上に寝かされていたらしい。
まわりを見回すと、塔矢だけでなく、解説にきていた桑田さんや
事務局の人とかが不安そうな面持ちでオレのことを見ていた。

「ここのロビーで倒れてたんだよ進藤クン。
 大丈夫?どこかおかしいところない?」

事務員の人が畳み掛けるように聞いてくる。
オレは、・・・オレは?どこにいたんだろう。
鎌石天元が長考に入って、そいで、対局場を出て・・・
気がつくとここだ、何か忘れてるような?

「あー多分だいじょーぶです、オレ
 すいません、ご心配をおかけしました。」

「ならいいけど、気分が悪いようなら、タクシーを呼びましょうか?」

「いえ、しばらく休んでいればだいじょうぶです。」

「なーんだ、進藤、大丈夫そうだな。
 よし、昼メシの続きだ。ハマグリ、はっまぐり〜」

オレが大した事ないとふんだ倉田さんは、
事務員の人をひきつれ、一目散に食堂へ消えていった。




「塔矢、こんなとこにいていいのか?」

「うん、ちょうど打ち掛けになったから。
 キミこそ本当に大丈夫?
 いっとき、酷い顔色をしてたから・・・」

「うん、へーき、へーき」

真っ赤な絨毯の敷き詰められた洋館のロビーは
塔矢と二人でいると、なんだか、だだっぴろくて
手持ち無沙汰になる。
あれ、なんでオレ緊張してるんだろ。
塔矢と二人なんて、大したことじゃないのに。
でも、二人の間の沈黙がどうにも居たたまれなくて
視線を当たりに彷徨わせていると、壁にかかった一枚の絵が
目にとまった。
瞬間オレの体中に恐怖が充満した。
本能的に目の前の塔矢にしがみついていた。

塔矢が驚いて息を呑むのがわかった。

でも、もうコワくてどうすることもできない。
ただただ、塔矢にしがみついた。
しばらくして手の感触がおかしいことに気がついた。
しがみついている塔矢のスーツがみるみるうちに色合いを濃くしてゆく。

どうしたことか、オレの体はびしょぬれで、
滴る水が塔矢のスーツにまがまがしい沁みをつけていった。



オレはもうただただ言葉もなく壁に掛かった睡蓮の絵から
逃げるように塔矢に縋り続けた。







(大原美術館)



  • 3.君のためなら死ねる
  • 戻る
  • SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送