黒い薄 〜月岡芳年『藤原保昌月下弄笛図』













古い店ではないと思う。

ショーウィンドウの中に、箪笥や囲炉裏、衝立や様々な古道具が並んでいた。
いわゆる古美術に限らず昔の生活雑貨がごちゃごちゃと、しかし実は計算された
配置で並べられており、戦前の生活が端的に再現されている。


「お。見ろよ、塔矢。古い碁盤もあるぜ。」

「ああ。」


偶々棋院の手合いが同時刻に終わった進藤と一緒に碁会所に向かう道。
この道を通るのは進藤は初めてらしく、珍しそうにしていたが、やはりあの碁盤に
目を留めた。


「いつぐらいのんだろ?」

「さあ、この店は戦前の物を主に扱ってるみたいだから、大正時代あたりかもね。」

「ふう〜ん・・・。」


ガラスにべたりと手をついて、凝っと見つめる。

進藤は、意外にも古い碁盤や古い棋譜が好きだ。
だからこの店の前を通ればきっとあの碁盤を見つけると思った。


「江戸時代・・・って事はないかな?」

「さあ・・・僕にはよく分からないけれど。」

「秀策と、同じ時代・・・とか。」

「というより、秀策が使っていた碁盤だったらとか思ってるんだろう。」

「バレたか。」


くしゃり、と顔を弛めて笑った。

北斗杯以来、進藤が異常なまでに秀策に拘っているという事を知る人は増えたが
その内容について正面切って聞いた者はいない。
みんなは単なる趣味で、特に深い意味もないと思っているのかも知れない。

僕も・・・そう思わなくもないが、実はやはり気になってはいた。
現代に甦った秀策・・・「sai 」と、関係があるような気もする。
しかし、進藤が打ってくれればよいと、自分からは聞くまいと決めたのは自分自身だ。

それでもこうやってごく偶に秀策の名前が出ると多少の緊張を伴うのだけれど、
進藤は屈託無げに


「あの碁盤の裏を見せて貰おう。」


と、僕の意見も聞かずに横のドアをきぃ、と開けた。

そう言えば、進藤は秀策の筆跡鑑定が出来るような事を倉田さんが言っていた。
恐らく冗談だとは思うけれど、最初の出会いからして進藤は意外性の固まりなので
もしそれが本当であったとしても驚かない。







「いらっしゃい。」


店が新しいので、何となく今風の店員かアルバイトが出てくるかと思っていた。
しかし奥に座っていたのは思いがけず如何にも古道具屋の主といった、
老眼鏡をずらした老年に近い男性だった。

店主と進藤が話している間に辺りを見回してみる。
どうも新しいのは表だけで、内装からして実は相当に古い店らしい。

階段箪笥の上に、髪の茶色く灼けた市松人形が座っている。
行李の中には古そうな着物がいくつも入っているようだ。
古い金庫、木の置物、唐三彩、やはり表に置いてあるのが値打ちものなのだろうか。
店内のものは申し訳ないが僕にはどう見てもガラクタに見えた。
家の蔵に片付けてあるのと大差ない。

壁際には伊万里というのだろうか、派手目の大皿が飾ってあり、古いランプなども
吊されている。
あと、昔の看板、中国の美人画の描かれたガラス絵、浮世絵・・・。

ふと。
横長の額縁に入った三枚続きの浮世絵に目が行った。
それは、僕が今まで知っていたような写楽とか歌麿とかとは違って、妙に写実的で
奥行きのある絵だった。

広重だろうか・・・などとまず生意気な事を思ったのは指導碁先に浮世絵が趣味の
ご老人がいて、その方が広重は浮世絵の中では写実を重んじる人だと仰っていたから。
僕自身には浮世絵を見る目などない。

顔を近づけて見てみたが、作者名は「大」と「芳」しか読めなかった。
年号を見ると明治時代の絵らしい。


「気に入られましたか。」


突然すぐ後ろから話しかけられて、少し驚いてしまった。
振り返ると店主がいる。
進藤はもうショーウィンドウを見終わった後らしく、所在なさげに辺りを見回していた。
その顔から察するに、収穫はなかったのだろう。


「この絵は。」

「『藤原保昌月下弄笛図』ですな。芳年の中でも特に評価の高い作品で。」

「芳年・・・。」


知らないな、と呟こうと思ったら、進藤が急に


「え?藤原の、・・・何て?」


素っ頓狂な声を上げた。


「藤原保昌という人が、月の下で笛を吹いている、という題です。」

「やすまさ。ふ〜ん・・・。」


急速に目の光を失ったが、それでもじっと見上げ続ける。
客でないのは一目で分かるだろうが、それでも店主は親切に説明をしてくれた。

・・・無の境地で笛を吹く「保昌」の威厳に、さすがの大盗賊・「袴垂」も
手も足も出ないという図なのです。
この後「袴垂」は「保昌」にひざまづいてしまい、家に招かれて厚衣を賜ります。


「ああ、『保昌と袴垂』ですね。」

「ほう。ご存知ですか。」

「宇治拾遺物語でしたか、学校の授業で習いました。な、進藤。」

「へ?」


進藤はとぼけた顔を返した。
そうか、教科書が違うから葉瀬中では習わなかったのかも知れない。


「藤原ってよくある名前なの?」


いや、やはり進藤が極端に歴史・古典が苦手なだけなのか・・・。


「多いよ。平安時代の要人は藤原だらけだ。」

「へ〜、そうか。藤原って偉いのか。」


何故か、不思議な笑顔を見せた。

笑顔に不思議も何もないだろうけど、何というか、流れに相応しくないというか。
そう・・・まるで、子どもが学校で褒められたと聞いた母親のような。
変な例えだけれど、正にそういう感じで、微妙に誇らしさの混ざったような。

ああ・・・親戚に藤原姓でもあるのか・・・?


「その人って、いつぐらいの人?」

「そうですね、約千年前でしょうか。」

「へえ・・・。」


またにっこり。
そして、絵に目を戻した。


僅かに雲のかかった、真ん丸の月。
薄と共に保昌の衣が翻り、秋の清冽な夜気がリアルに伝わってくるようだ。

いい構図だ。中央の男性の気品も遺憾なく表現されている。

程良い湿気、足元から忍び上がる冷気も自らの背後の殺気すら気にも掛けず
渺々と吹き続ける笛の音は、さぞや澄み渡っている事だろう。


「・・・保昌は、どうして盗賊に衣を与えたんだろう。」

「え?」

「だから、自分の命を狙った奴をわざわざ家まで連れてって衣やったんだろ?」

「ああ。」

「どういう気持ちで・・・そんな事したのかと思って。」


う〜ん・・・。
他のお客さんが入ってこないのを良いことに、二人で絵の前に陣取って
腕組みをして考える。
しかし、考えて分かるような事でもない。


「とにかく・・・貴い人というのは、そういうものなんだろう。
 自分を滅ぼしかねない者にも平気で与えることが出来るのだろう。」

「そうかぁ・・・。」

「そんなものじゃないか。」

「・・・でも、結構ワガママだし、子どもっぽい所もあんだぜ?」

「え・・・?」


しかし凝っと見つめていると、確かに保昌が不意に悪戯な笑いを
浮かべそうにも思えてくる。

見つめ続けると何処からかひんやりとした風が吹いてくるような
微かな笛の音が聞こえるような、気がした。


やがて絵の中の黒い薄が、揺れ始めた。






進藤と碁以外の事で話し合ったのはそれが初めてだったが、
それから僕達は度々絵に縁を持つ事になる。


次に進藤が見たのは、モネの「睡蓮」だ。















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