METAMORPHOSIS 2 「おい、進藤に会ったか?どうだった?」 大手合いの日、和谷くんと顔を合わせたらそれを聞き合うのが 慣例のようになっていた。 「ああ、昼休みみんなでメシ食ったけど変わった所はなかったぜ」 「そうか…」 また顔を見合わせて二人でそっと息を吐く。 元々彼とは仲の良い方じゃない。 以前からすれば考えられない光景だろう。 ……そう。進藤の事がなければ。 進藤は、若くして幼なじみと結婚したのだがその後すぐに彼女を亡くしてしまった。 彼は若かった。 しかしその年齢の平均以上に幼かったり、精神的に未熟であったという事はなかったと思う。 それでも突然手に入れた幸福と(謂わゆる「電撃結婚」であった)その直後の 同じく突然の奈落との落差に、その心は耐えきれず安定を失った。 初めは、そう。 落ち込んではいたようだが異常な感じはしなかった気がする。 その内ふと立ち直ったように見えたかと思うと・・・ 夫人の死に関する話題を一切受け付けなくなったのだ。 どんなに目上の相手にでもその話をされるとウトウトと眠ってしまったり。 しまいには・・・自分自身が夫人になってしまった。 『何の話をしてるんですか?私はここにいます』 初めて彼が「夫人になってしまった」時、偶々ボクもその場に居合わせたのだが その時の衝撃は忘れられない。 姿は進藤なのに、口調は確かに何度か会ったことのある幼い花嫁。 律儀で、しかしやや舌足らずな敬語。 何故か巫山戯ているのだろうとは思えなかった。 以来、棋士も棋院のスタッフも彼と接する時は腫れ物に触るように神経を張りつめ、 極力夫人の話はしないようになった。 そうしていれば、進藤は以前と何も変わらなかったから。 ただし。 以前和谷くんに指摘されたように、何故か塔矢家の者や緒方さんの前では 偶に「夫人化」していたのだが、それは公には知られていなかった。 しかしそれもある小さな事件をきっかけに止んだ。 彼の中の夫人、そして和谷くんやボクの記憶と引き替えに……。 最初から彼女が存在しなかったように振る舞う進藤は痛々しかったし、 ボク達に他人行儀にされるのも閉口した。 しかし不意に女言葉で話し始めて周囲を当惑させたりするよりはずっと良い状態だ。 「進藤ヒカル」を取り戻した彼に、周囲は根気よくボク達の事を説明してくれたし 彼も、思い出した部分があるのか納得した振りをしているだけなのか分からないが とにかく少なくとも表面上は以前と同じ様な関係を取り戻すことが出来た。 和谷くんにはまだ鬱屈とした所もあるようだが、ボクは彼が碁を打ってくれさえすれば 構わないと思う。 棋力は以前に優るとも劣らないし、ボクを思い出していなくとも、一局打って ボクをライバルだと改めて認めてくれたから。 そう、彼の碁に対する情熱はいや増している。 それは時に情熱を通り越して執着と言いたくなる程だったが。 だからこそ恋愛などにもかまける事もなく 精進していくのだろうと。 だから当分は何も問題はないだろうとタカをくくっていた。 けれど。 進藤には、まだ秘密がある。 いや、新たに出来たというべきか。 それは今の所和谷くんとボクだけが知るところのもので。 特に彼のことを気に掛けているからなのか、記憶喪失と関係があるのか。 分からないがそれが、和谷くんとボクを結びつけているモノだ。 「……進藤は、本当に今でも『ああ』なのかな」 「どうだろう」 「なっかなか確認出来ねーよな」 「うーん、自然な会話の中では難しいね」 和谷くんが最初に気付いたのは、エレベーターの中で進藤の胸の辺りに 肘が当たった時。 微かに嫌そうな顔をしながら腕で胸を隠すようにされた時違和感を感じたという。 ボクが知ったのは、もっとあからさまな出来事によってだった。 女子トイレから出てきた進藤に出会ったのだ。 ボクは驚いたが、進藤は首を捻っていた。 「……どうしたんだ」 「いや、おばさんに変な顔でじろじろ見られてさぁ、トイレ入れなかったよ」 「……」 「何だろ。気味悪いな。ちょっとおかしい人なのかな」 「…何言っているんだ。キミはこっちだろう?」 男子トイレの扉を指さすと、進藤は仰け反った。 「え!…そ、そうなの?オレってこっちなの?」 「当たり前じゃないか。そんな記憶もなくしてしまったのか?」 内心不安が広がるのを感じながら、努めて冗談めかせる。 進藤も自分の記憶に自信がないらしく、今ひとつ納得いかない様子ながらも 男子トイレの扉を開けた。 そして小用便器の前に立ったボクから目を逸らすように個室に入った。 …最初にそういった事態に直面したのがボクで良かったと思う。 それからも進藤は訝しそうにしながらも男子トイレを使っているから。 だから、今の所バレていない筈だ。 進藤が自分を「女性」だと思いこんでいる事は。 「夫人になりきっていた」時とは明らかに症状が違い、自分が「進藤ヒカル」である自覚はある。 前回の後遺症なのかそれとは無関係なのか。 それは分からない。 当時のように精神科の治療を受けるべきなのかも知れない。 しかし今は「完治」とは言わないまでも「安定した状態」だと思われているので 和谷くんとボクは相談して他言しない事にした。 友人として、これ以上進藤が好奇の目に晒されるのが耐えられなかったのだ。 それに今も一人称は「オレ」であるし言葉遣いも粗雑だ。 友だちづきあいも変わっていないので傍目には絶対分からない。 あとは、奈瀬さんあたりと「女同士の話」をしないか目を光らせ、 性別を記載するような書類は極力預かって提出するまでに訂正して。 自分でも何故ここまで世話を焼くのか不思議だったが 後で思えば、ボク達は進藤のナイト気取りだったのだ。 勘違いしていたのは、ボク達の方だった……。 危うい三角形が最初にヒビを見せたのは、それもやはり棋院。 進藤を探して階段を上がった所で見てしまった時だ。 和谷くんが、少し背の低い進藤を壁に押しつけて キスをしている所を。 「何をしているんだ」 動揺しすぎて逆に平静な声音になったと思う。 その声に進藤は顔を上げると、見る見る内に真っ赤になってばたばたと 逃げていった。 「…何を、していたんだ」 「……」 残った和谷くんに尋ねると、少しふてくされたような顔をした後にやりと暗く笑って 「進藤がまだ女かどうか確かめようと思って」 戯けた。 「気持ち悪がったら男だろ?」 「だからと言って」 「いいじゃん、前にもアイツとはやってんだしさ。 それで記憶も戻ったりしたらそれはそれでラッキーじゃん?」 軽く流そうとする口調に、妙に腹が立った。 それは。 それは、言い訳だ……。 何がどうなのか分からないが、とにかく、和谷くんにはどこか欺瞞があり 自分がそれに酷く戸惑い腹を立てている、と思った。 いや、本当に腹を立てているのは和谷くんに対してではなく 「気持ち悪がって」いなかった、照れた顔をしていた進藤に対してなのかも知れない。 「……進藤は、女性じゃない」 「知ってる」 ボク達は睨み合い、そして何も言わず別れた。 しかしだからと言って和谷くんとボクが決定的に仲違いをした訳ではない。 どうしても、自分の目の届かない所では相手に進藤を守って欲しいと 思わずにはいられないから。 それに和谷くんはどうか知らないが、ボクは自分だけが進藤と接近するのは 怖かった。 進藤は、女性じゃない。 けれど自分では女性だと思っている。 そんな友人と「特に仲良く」なる事に躊躇を覚えない者はいまい。 けれど進藤から見て「その他大勢」にはなりたくないし、ボクにとっても進藤は 今も唯一無二のかけがえのない碁のライバルだ。 そういう訳で進藤と和谷くんがボクを差し置いて「特別」親しくなってなってしまうのには 抵抗があるのだが、かと行って和谷くんより進藤と近づく気にはなれなかった。 同じ距離、同じ角度を保つ正三角形が、一番居心地が良かったのだ。 …………あの頃が、ボク達にとって一番幸せだったのかも知れない。 そういった和谷くんとの小さな軋轢もあったし二人で進藤の秘密を守るのは大変だったが、 それでもボクたちは楽しかった。 しかしそんな日々は、ボクが二十歳になった日に意外な形で終焉を迎えた。 いつも通り進藤と碁会所で打った後、帰る間際に市河さんから 「お誕生日おめでとう」とプレゼントを貰った。 それを見て「今日誕生日だったんだ?おめでとうな」と祝ってくれた進藤が 帰りのエレベーターで何気なく、本当に何気なく口を切ったのだ。 「なあ」 「うん?」 「おまえ、彼女とかいる?」 「いや」 「そっか……んじゃあさ…、んじゃあ、オレと結婚してくんない?」 −続く− ※「おかしな進藤」が割と気に入ってしまいまして。 あかりちゃんにもこんな風に申し込んだんでしょうかね。 話と関係ない事ですが。 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||