ファウル 22
部屋に戻ってからも進藤は一言も口を利かなかった。
泣きもしない。
笑いもしない。
淡々と手を洗い、淡々と歯を磨き、顔を洗って「風呂は明日にする」と言って
ベッドに潜り込んだ。
「進藤・・・。」
進藤の心情は、察するに余りある。
佐為さんが帰りたがっていないのだと思って身を引き、
それが早とちりだと分かって一転意気揚々と迎えに行った。
なのに、それこそが勘違いだと打ちのめすような対応をされたのだ。
しかし。
ボクは見た。
進藤が靴を履いている時、振り向いてみたら佐為さんがこちらを向いていたのを。
こちらを向いて、そして身を伏せていた。
その手の甲に落ちた、水滴は・・・。
「進藤・・・佐為さんは、」
「もう寝る。」
「大事な話なんだ。」
「寝るっつってっだろ?」
あからさまに八つ当たりな怒鳴り声に、カッと血が昇る。
進藤の為に言っているのに、と思うとそのまま殴り掛かりたくなったが
やはりやめた。
「・・・そう。おやすみ。」
「・・・・・・。」
それから黙って片付けものをする。
進藤は布団の中で何度も寝返りを打っていた。
案の定眠れないようだ。
佐為さんから受けたショックと、ボクに当たってしまった自己嫌悪で
泣きたい気分なんだろう。
ボクは意地悪にも黙ったまま洗い物をし、明日の回収日にそなえてゴミをまとめる。
それからシャワーを浴びて歯を磨いて部屋に戻った。
進藤はやっと眠れたようだった。
布団の端から頭が覗いている。
少しだけめくってみると、酷く苦しそうな顔をしていた。
今度はボクが、すぐに佐為さんが泣いていた事を伝えなかったのを後悔した。
「・・・進藤。明日にはきっと仲直りしよう・・・ね。」
その額にキスをすると、閉じられたままの進藤の目から涙が零れた。
ボクもほんの少しだけ泣いてしまった。
Charcoalのkai さんに頂戴しました!
私も泣けそう。
翌日、進藤は暗い顔をしたまま早くから指導碁に出掛けた。
ボクも仕事はあるが、近場なので早めに帰って来られるだろう。
時間はある。そう、彼のマンションまで往復するのに十分な時間は。
「もしもし。緒方さんですか?」
『アキラくんか。朝から何だ。』
「昨夜はどうも。」
『・・・用件は。』
「ご挨拶ですね。こちらも単刀直入に言います。佐為さんを返して下さい。」
ボクが佐為さんを取り戻す。
出来れば進藤が帰って来る前に。
仕事から帰ってきて、部屋に佐為さんがいたら進藤はどんな顔をしてくれるだろう、
どれ程驚き喜ぶだろうと想像すると気持ちは逸る。
けれど半面、あの緒方さん相手にそれ程すんなり行くとも思えなかった。
『・・・・・・。』
「聞こえましたか?」
『・・・聞こえたがそちらこそ忘れたのか。佐為は、帰りたがっていないと言っただろう。』
予想された答え。
なので用意していた返事を返す。
「それは嘘ですね。」
『・・・・・・。』
「ボクは見ましたよ。佐為さん、昨夜泣いていましたね?」
『だとしたらどうなんだ。』
「どんな手を使ったのかは知らない。けれど本人に嘘を吐かせてまで
留めておくのは悪趣味だと思いませんか。」
電話越しにくっくっと嫌な感じの笑いが響いた。
『生意気な口を聞くようになったものだ。』
「・・・・・・。」
『それで。進藤は?』
「ショックを受けていますよ。今日は仕事です。
ボクも仕事ですが、夕方から空いていますので・・・佐為さんを迎えに行きます。」
『何故だ。』
「ですから佐為さんが、」
『そうじゃない。何故キミがそこまで動く?』
「・・・・・・。」
『進藤と、佐為を会わせていいのか。また一緒に暮らさせていいのか。』
「・・・・・・。」
痛い、胸がちくりと痛んだ。
嫌な所を突いて来る。
佐為さんが帰ってきたら進藤は・・・、それは一番に考えたことだ。
この期の及んでまだ、怖れる自分がいる。
進藤の隣に、この部屋に、ボクの居場所はなくなるのではないだろうか・・・。
けれどこれはボクの弱さだと思う。
唇に手を当て、昨夜の口付けを思い出す。
もう一度勇気をくれ。
ボクに、進藤の言葉と自分を信じる勇気を。
「・・・ええ。いいですよ。」
『・・・・・・。』
「それが進藤にとっても佐為さんにとっても幸せな事だと思います。
勿論ボクにとっても。」
『キミにとっても?』
「確かにボクは進藤が好きです。だから彼が笑っていてくれると嬉しい。
佐為さんが戻る事によって自分が不幸になるとは思いません。」
『・・・これはまた、絵に描いたようなきれい事を。』
「何とでも。」
緒方さんはしばらく電話口の向こうで考えているようだったが
やがてゆっくりと口を開いた。
『よし・・・返してやろう。』
「本当ですか!」
『ああ。ただし条件がある。』
・・・緒方さんとは数え切れない程打って来たが、本当の真剣勝負、
公式対局はただ一度。
結果としては敗北したが、我ながら気合も十分だったし手応えもあった。
次に対局したら勝てる、その時はそう思ったのだ。
本当に今、真剣勝負をすれば、一体どうなるだろうか?
今まで勝った練習手合の盤面を思い出す。
どれもこれも今のボクからすれば未熟に思えて仕方がない。
それでも勝てたのは緒方さんが余程抜いていたのではないか・・・。
疑いは不安に変わり、どんどんと勝てる気がしなくなってくる。
緒方さんの条件とは、彼に碁で勝つ事だった。
正直、自信はない・・・それでもこの勝負、受けない訳には行かない。
勝てるかどうかは問題ではない。
勝たなければならないのだ進藤の為に。
自分以外の誰かの為に碁を打つのは、生まれて初めてだった。
それは吉と出るか凶と出るのか。
色々な感慨が押し寄せ、受話器を持つ手が久しぶりに武者震いをした。
ボクが彼のマンションに行ってもいいし碁会所や自宅で打ってもいいが
お互い目が離せない人がいるのでネット対局で合意する。
電話を切った後今度は進藤に連絡をして、寄り道をせず真っ直ぐに帰ってくるよう言った。
「え?ネット対局?」
進藤には、対局相手が緒方さんである事も、その意味も、言わなかった。
佐為さんが絡んでいるとは言えこれはボク達の勝負。
彼は何も知らなくてもいい。
「ああ。だから今晩一晩キミのパソコンを使わせて欲しいんだ。」
「いいけど・・・それでオレに早く帰って来いって言ってたの?」
「うん。」
PCを借りるのに進藤を呼び戻した・・・。
それは、許可を取ったとしても本人のいない所で起動されたくないだろう、という配慮も
あったがそれはどちらかというと表向きだった。
正直、怖かったのだ。
一人で緒方さんと向き合うのが。
勿論普段の公式対局などではそんな事は思わない。
どんなに恐ろしい相手とでも一人で向き合うのが当たり前だと思うし
また、その方が自分にとっても集中しやすい。
けれど今回は。今回だけは。
始まってしまえばきっと彼も部屋も脳裏から消えてしまうのだろうけれど
それでもその前に、どうしても彼の顔が見たかった。
気持ちを落ち着けたかった。
「ふ〜ん、まあいっけど。操作は分かるよな?」
進藤は手慣れた様子でPCを起動し、ネット対局のサイトを開く。
仕事から帰ってきて一見普段のテンションを取り戻したように見えるが
やはり目が死んでいた。
「えっと、ログインネームは『hikaru』のままでいい?『akira』に変える?」
「どちらでもいいよ。」
こちらから「ogata」に対局を申し込む手はずだし、『hikaru』でも『akira』でも分かるだろう。
「んじゃこのままにしとくわ。」
無表情のまま一つクリックし、進藤は用済みの操り人形のように
ふわりとベッドに身を投げ出した。
可哀相な進藤。
待っていてくれ。
この対局が終わる頃にはきっと、その笑顔を取り戻してみせるから。
−続く−
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