ツァラトゥストラはかく語りき 1 あの時も、こんな天井の高いホールで。 自分の舌打ちの音が、思いの外響き渡る事に驚いたものです。 それまでにも判断を誤って部下を死なせてしまった事はありましたけどね。 結果論だったんです。 確率の高い方に賭け、そして破れた。それだけの事。 本人も納得していた筈です。 いえ、だからと言って私が苦しまなかった訳ではないのですが。 でもあの時は、本当に、言い訳のしようもなく私の判断ミスでした。 ワタリから渡された紙切れ一つで、自分の足下が崩れるような気がして。 過去の自分の迂闊さに、思わず舌打ちせずにいられなかったのです。 ……何故、監禁する前に健康診断を受けさせなかったのか。 何故、手錠で繋ぐ前の健康診断で、もっと精査しなかったのか。 火口が死に、キラ事件が一応の解決を見て、 夜神月を手錠から外した時。 ……何故、あの手を離してしまったのか。 形式的に受けさせた健康診断のX線で。 あんなに大きな影が映るというのは、余程の事だと素人の私にも分かります。 医者に話があると言われた時点で、夜神局長に丸投げしてしまえば 良かったのかも知れません。 でも私はまた判断ミスをした。 本人には内密で、家族に話がある。 そんな事言われたら、余命宣告の話に決まってるじゃありませんか。 なのに私は、信じたくなくて、まずワタリに行かせたのです。 戻ってきたワタリは、何も言わず私に診断書と医者の意見書を渡しました。 一人にしてくれたのは、気を利かせたつもりでしょうが。 泣いたりしませんよ。涙なんか出る訳ないじゃないですか。 それに、それが本当なら考える事はたくさんあります。 まあ本当に決まってるんですけど。 何度診断書を見直しても、 『患者氏名 夜神 月 男 生年月日……』 『診断の詳細 部位 右肺 胃 肝臓 癌』 『組織型 ……』 印字された文字に変化のあろう筈もなく。 夜神くん……。 ちょっと疲れが出ただけと、背中が凝っただけと言っていたのに 転移しまくりじゃないですか。 どんだけ繁殖力強いんですかあなたの癌細胞は。 医者の意見書には、手術は出来なくもないが成功率が低いこと、 成功すれば少しは命が延びるけれど、内臓を殆ど失って 寝たきりの余生を送らなければならない事が事務的に書いてありました。 要するに、手術はお薦め出来ないと言う事でしょう。 「個人的な意見では、投薬と放射線治療を受けながら、 のんびりと好きな事をして過ごすのがベストではないか」 そう付け加えてありました。 冗談じゃありません。 夜神月は、間違いなくキラです。 好きなことは、神を気取っての犯罪者裁きです。 そんな事、許せる筈がありません。 意見書の最後には、専門の治療機関でセカンドオピニオンを 受けるなら、紹介書を書くと書いてありました。 勿論受けさせますよ。 理性では分かっています。 診断が覆る可能性はほぼゼロだという事など。 それでも、毛筋ほどの希望に縋らずにいられない時もあるでしょう。 人間なら。 しかしそうすると、夜神本人に伝えなければなりませんよね。 一般的にはその前にご家族、夜神局長に言わなければならないのでしょうが……。 もし私が夜神なら、先に自分に知らせて欲しいと思うし、 家族に伝えるタイミングや方法も、自分で決めたいと考えます。 夜神も、きっと同じです。 余命を思うと迷う暇もなく、私は捜査本部に向かいました。 「夜神くん、ちょっと良いですか?」 「なんだ?今、新たにキラの犠牲者らしい情報が入ってきたんだ」 「そうですか。ちょっとあちらでお話出来ませんか?」 「僕はもう容疑者じゃないんだろ?」 「はい。それとは関係ない事です」 「何。愛の告白でもするの?」 「違います。友人としてお話したいんです」 夜神は、笑顔の向こうで明らかに訝しんでいました。 当たり前です。 火口という紛う事なきキラが死んだ今でも、 私が、夜神=キラだと信じて疑わない事を彼は分かっている。 そこへ一人で呼び出したら、何らかのトラップがあると考えるのが普通でしょう。 二人で私室に行くと、案の定夜神は笑顔を消して腕組みをしました。 無意識の防御の姿勢です。 私を警戒している。 「で。話って何」 「本音で話しましょう。13日のルールはあなたが書き加えた物ですか?」 「は?何を言っているんだ?」 「あのルールだけなんです。あれさえなければ、 あなたも弥もキラという事で矛盾がない」 「全く……またそれか」 「キラだと、自白するなら今が最後のチャンスです」 「僕は戻る」 「待って下さい。本題はそれではないんです」 封筒を取り出してひらひらさせると、眉間に皺を寄せながらも 夜神は受け取ります。 「……」 彼は、見事に眉一つ動かさずに見終わりました。 「……で?」 「で、も何も。手錠を外した日の午前中に受けて頂いた 診断の結果です」 「結果が出るのが早すぎる。こんなものいくらでも偽造出来るだろ」 「コネと金を使って早くして貰いました。 偽造は、していません。と私が言っても信じて貰えませんよね」 「当たり前だ」 「それでもいいです。ガンセンターで精密検査を受けてくれませんか?」 「いつ?」 「今からでも」 夜神は腕組みを解くと、ゆっくりとソファに向かって歩き、 落ち着いて座りました。 大した物だ、と思います。 「……嘘だろ?」 「ですからそれを確かめる為に、」 夜神は手で私の言葉を遮り、こめかみを指で押さえて 何度か大きく息を吐きました。 「おまえがこんな嘘を吐くとは思えない……本当なんだな」 「医者が間違っている可能性はあります」 「いや、いい。健康診断でさえ一流の先生に受けさせるって言ってただろ? あの先生が言うなら、間違いないよ」 「……」 「……あと三ヶ月、か。という事は、保って半年だな。 僕は若くて進行が早そうだから、本当に三ヶ月、いや二ヶ月半と 考えて置いた方が無難だ」 「……」 通常、死の宣告を受けた者は、まず信じず、その次に怒り、 次に神や東洋医学などに縋って何とかならないかと足掻き 抑鬱を経てやっと受容に到ると言われています。 見ていると、夜神の精神は異常な速度でそのプロセスを経たようでした。 今見せている反応が本物ならば、ですが。 「どうした?」 「いえ……。受容が早いと思いまして」 「ああ、でも怒ったり落ち込んだりしている時間が勿体ないじゃないか。 おまえが僕の立場だったら、きっと同じように反応するんじゃないか?」 「何とも言えません……いや、そうかも知れませんね」 知識がある者程、早く受容に到るのが理性的で効率的だと考えます。 でも、人間の精神は、さほど単純な物でもないと思うのです。 「夜神局長には、私から伝えましょうか?」 「いや、やめてくれ。時が来たら自分で言うから」 「そうですか……」 「安心してくれ。父が、何故言ってくれなかったかとおまえを責める事がないように、 ちゃんと考える」 「それは良いのですが」 夜神の、穏やかな顔の向こう側に、一体何があるのか。 知りたいと思いました。 彼の、心の奥底まで、全てを。 「話を戻していいですか?」 「何だったっけ?」 「あなたが余命三ヶ月、という前提でも、自白してくれませんか?」 「……」 「記憶……戻ってますよね?」 火口が死んだ後。 弥を好きになったと言う夜神。 それまでとは逆に、私を監視する夜神。 いつから、とは断定出来ないが、手錠で繋がれていた頃とは明らかに違う。 まるで別人……。 それは、監視していた頃にも持った感想です。 つまり。 「僕が余命三ヶ月だとしても、キラとして捕まえたいわけ?」 「はい。期限が切られて焦っています」 「おまえは本当に、血も涙もないな」 「ありますがそれとこれとは別問題です」 彼は、元に戻った、キラとしての記憶を取り戻したとしか思えません。 私には未だに理解できないのですが。 その時、夜神は笑いました。本当に楽しそうに。 「なら、三ヶ月逃げ切れば僕の勝ちだな?」 「……それは、自白ですね?」 「おまえの受け取り方次第だよ。 まあ、ガンなら実際に動けるのはあと一ヶ月という所か」 夜神は両手を肘掛けに突くと、勢いをつけて立ち上がりました。 「戻るぞ」 「いいんですか?」 「何が」 「この三ヶ月……いえ、一ヶ月をどう使うか決めなくても」 「もう決まってるよ」 捜査本部に戻った夜神は、弥の24時間監視を主張しました。 彼女が犯罪者を裁いているという疑いを、完全に払拭したいからと。 「レム。ノートに書かないと絶対に殺せないんだよな? これでミサの疑いは晴れるな?」 『ああ』 その時。 異相ながら、死神が少し戸惑った表情をしているように見えました。 後から思えば、その時、あの死神は私を殺す直前だったのです。 死神に情があるというのは意外ですが、確かにあの時私を殺さなければ いずれ弥は捕縛されていました。 夜神の提案がなければ、ですが。 それから夜神は自ら弥を迎えに行き、事情を話して前と同じ部屋に 監禁しました。 仕事に行く時も、模木さんと女性捜査員をマネージャーとして付けます。 これで、トイレやバスの中まで24時間監視する事になりました。 それでも、犯罪者の裁きは続きました。 松田などはミサミサの容疑が晴れたと喜んでいましたが……。 夜神月は、監視されていない。 私が指摘しなければ誰も気付かないのは残念ですが、 デスノートの切れ端で人が殺せるとすれば、今の夜神月は殺し放題です。 勿論こんな事をするのは、余命僅かだと思うからでしょうが。 そこまでして弥を助けたいのか、と当時は驚きましたが、 後で思えば、それは…… 私を、レムに殺させない為だった。
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