獅子の翼 7
獅子の翼 7








「今日は“正面”から行きましょう」


と竜崎が言うのでどういう事かと思ったら、屋敷を出てすぐ左手の、川に向かった。
前回はよく見えなかったが、これがカナルグランデらしい。
川に入る石造りの階段を下りて、係留されたモーターボートに乗る。


「おばあさんの前では、おまえは何て言う名前なわけ?」

「エルでいいです」

「僕は?」

「別に。普通にヤガミライトでいいですよ」


沢山の船が行き来していて危なくないのかと思ったが、竜崎は軽やかなハンドル捌きで小さな船を進めた。
岸には、何故か昨日よりも派手な色が増えたような気がする。
個性的な衣装の集団……仮面?何かのコスプレ?

いくつかの漁船やヴァポレットを追い越し、屋根付きの回廊のような橋の下を通り、
やがて少し川幅が広くなる。

PCで目に焼き付けた地図を思い出し、そろそろ左手にサンマルコ広場が見えて来るのではないか、と思った所で、ボートは右に舵を切った。
川の両側に立ち並んだ、それぞれ個性的で壮麗な屋敷の中でも一際目立つ、壁面に金色のタイルでモザイク画が施された屋敷に近付いて行く。

そして玄関、というのだろうか、水路のトンネルのような入り口に吸い込まれて行った。


明るい外の景色から突然暗い屋内に入ってしばらく目が慣れない。
だが竜崎は軽く石畳の岸に飛び移ると、捻ったようなデザインの柱に船を舫った。

そこは天井の高いホールで、普段は閉じられているらしい川に面した青銅の扉が開けてあったようだ。
少なくとも歓迎はされている、のか。

僕が船から下りると、竜崎は黒い木の扉の横にあるブザーを押す。
どこかで、壮麗な建物に似つかわしくない「ビー」というような音がした。
やがてギギギ、と重い音をさせて扉が開き、白い襟の黒いワンピースを着た、人種不明の老齢の大柄な女性が現れる。


「来ました」

「……ようこそ」


竜崎が親しげに声を掛けたので、僕も慌てて近付いて手を差し出した。


「初めまして。エルにお世話になっています、ライトヤガミと言います。
 今日はお招きに預かり、」

「奥様にお伝えしますので少々お待ち下さい」

「……」


去って行く女性を涼しい顔で見送る竜崎を、握手して貰えず宙に浮いた手で軽く叩く。


「おまえ!おばあさんじゃないなら言えよ!」

「使用人がいる事は知っているでしょう」


しばらく待っていると、今度は縞のシャツを着たやたら陽気な老人が迎えに来た。


「やあシニョール!どうぞどうぞ。奥様がお待ちですよ」


老人に続いて扉をくぐり、階段を上るとそこはやたらごてごてした装飾品や、こってりした額縁の油絵の掛かったホールだった。
趣味はともかく、かなり金は掛かっているだろう。


「素晴らしいでしょう?
 代々この館と一緒に引き継いだ物もありますし、奥様ご自身も……」


説明したり、突然一人でカンツォーネを歌い出す老人に続き、今度は長いペルシア絨毯の敷かれた階段を上る。
そこはまるで、中世イタリア貴族の屋敷に迷い込んだような空間だった。

やがて、廊下の先の両開きの扉の前に立って。


「さあ!お待ちかねですよ?」


勿体ぶってウインクをし、一気に扉を開け放つ。


「ジェンティルドンナ!可愛い可愛いお孫さんのお越しです!」


そこは、それまで以上に色々な装飾品で埋められた広く明るい部屋だった。
正面の大きな窓の両側に水瓶を持った金色の女性像、ガラスのモザイクの大きな花瓶。
たわわに生けられた大きな花々。
ドア側の壁には貴族の扮装をした男性や女性の肖像画が何枚も飾られている。

だが、右手の壁際にはそこだけ異色な、シンプルな木目のベッドが置いてあった。
日本の病院の高級個室にあるような電動リクライニングタイプだ。

そしてその横には、これまた無粋なデジタル表示が出ている機械。
それに点滴のチューブがぶら下がったスタンド。
管は、ベッドの上で半身を起こした(ベッドに起こされた)人物の腕に繋がっていた。
先程下で出迎えてくれた黒衣の女性が、こちらに目もくれず神妙な顔で人物の血圧を測っている。

ベッドの上の竜崎の(恐らく)祖母は、真っ白い髪を短くカットした、小柄な老女だった。



竜崎の話から、もっと威圧感のある人物を想像していた。
脇に立っている黒衣の女性の方が、そのイメージに近い。

陽気な老人が出て行き、沈黙が落ちる。
やがて血圧を測り終わった女性は、ベッドの上の老婦人に小声で何か伝える。
それからてきぱきと計測器を片付けて、僕達の目を見ず小さく頭を下げて退室した。


「……で」


老婦人が、甲高い声で一文字発する。
どんなに気難しい人物でも挨拶くらいはあると思ったので、何かの聞き間違いかと思った。


「呼ばれたから来たまでです」

「そっちは」


日本語だ……良かった。
高く擦れた、しかし点滴で繋がれているとは思えない程力のある声。


「先日言った、私のパートナーです」

「……」


皺に埋もれそうな小さな目で、無表情にこちらを観察している。
どうした物かと思ったが、僕は沈黙に耐えられなかった。


「はじめまして。僕は夜神月と言います」

「……キヨコ=ヴァッレアーリだ」

「よろしくお願いします。ジェンティルドンナ」


ベッドに近付き、膝を突いてその手を取り、少し持ち上げる。
老婦人は、少しだけ頬を緩めたように見えた。


「おまえが孫だった方が良かったねぇ。だろ?L」

「はあ。そうですね」


竜崎はそっぽを向いたまま、憂鬱な表情で答える。


「私のパートナーが男性だった事に、驚かないんですか」

「嘘なのかい?」

「いえ。本当に彼を愛しています」

「なら私が何か言っても仕方ないだろう」


老婦人は震える手で、ゆっくりとベッドサイドに手を伸ばす。


「これですか?」


サイドテーブルに用意してあったらしい封筒を渡すと、受け取りはしたが不機嫌そうに人差し指を動かした。
慌てて一緒にあった眼鏡ケースから、老眼鏡を取り出して渡す。

老婦人はゆっくりと中身を取り出すと、初めて見るようにじっくり目を通した後、竜崎の方に差し出した。


「さっさとここにサインしな」

「今日はそれを断りに来たんですよ」

「……なんだって?」


竜崎はジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、漸くベッドに近付いた。


「耄碌してるんですね。忘れたんですか?
 前も言いましたが、私は、金に一切困っていません。
 ヴェネツィアにも何の思い入れもありません。
 この屋敷も、全く趣味じゃありません」

「ひよっこが我が侭言うんじゃないよ。先祖からの物を、継ぐのは義務だ」

「だとしたら余計に。
 私はこの月くんと一生一緒に生きていきます。当然子どもも出来ません。
 私が継いだとしても誰にも引き継げません」

「……」

「ここで絶えるんです。あなたの血も。私の血も」


こんな弱った老人に、何を言うんだとハラハラしたが。
老婦人も負けずに眼孔鋭く竜崎を睨んでいた。

やがて、矛先を逸らすようにこちらに顔を向ける。


「……あんた。家族は?」

「ええと、日本に。父母と、妹が」

「お父さんはもういません」

「へ?」


割り込んできた竜崎に、思わず間抜けな声が出る。
父が、もういない?

……そうか。記憶を失って五年以上。
地震もあったし、そのような事も、あるか。

あの剛健な父が弱ったり死ぬ所なんか、想像した事もなかったが。


「そうかい。なら、妹さんは結婚は?」

「長い事会っていませんが……年齢が年齢ですし多分してないかと」

「だがこれから結婚して子どもをもうけることはあるだろうね?」

「……多分」


老婦人は満足そうに頷いた後、竜崎に向き直った。


「ほれ。探せば継ぐ人がいるじゃないか」

「月くんの妹さんに?赤の他人じゃないですか」

「だが、おまえの義理の妹という事になるだろう?」

「あなたとは何の血の繋がりもない」


老婦人は物わかりの悪い子どもを前にしたように、顔をしかめて溜め息を吐いた。


「それがどうした。
 元々私とおまえだって何の血の繋がりもない」

「……はい?」


今度間抜けな声を出したのは、竜崎だった。


「おまえの母親は、私の夫、ルキーノの最初の妻の娘だよ」

「え……と」


竜崎は混乱したように親指の爪を噛む。


「その癖はおやめ!」


老婦人の鋭い叱咤が飛んだが、竜崎の耳には入っていないようだった。


「……私、以前DNA鑑定した時に23パーセント日本人だと、出たんですが」

「そりゃそうだ。前の妻も日本人だったからね」

「そう、なんですか……」


自分の祖母をクソババアなどと言っていた割りに、竜崎はややショックを受けているように見える。


「では、何故、私を探したのですか?
 あなたにも、日本に親族がいるでしょう。遠くとも」

「それは、おまえがこの人の孫だからだよ」


老婦人は、他の肖像画から離れてベッドの横に飾ってある、黒衣の人物の絵を見上げた。
昔の映画、ロミオとジュリエットで見たような、ヴェルベットの詰め襟で神父風の伝統衣装。

その細身の男性は、黒い髪を後ろに撫でつけ、同じく真っ黒な大きな目は……竜崎に少し似ているようだった。


「ヴァッレアーリ家の血を引いているからですか?」

「血なんか、これまでだって何度でも絶えてる。
 それでも、連綿と繋いで来たのは、愛情だよ」

「愛情!」


竜崎が馬鹿にしたように笑い混じりで繰り返す。


「あたりまえだ!」


老婦人は、その老体からは考えられない程大きな声で吠えた。


「あたりまえだろうそんな事は。血より大事なのは、愛情だ。
 おまえはこの人を愛し、この人は妹を愛してるんだろう」

「ええ……まあ」

「なら、それで十分だろう。
 一番残念な事は、生涯誰も愛さず、何かを遺したいと思える人が出来ない事だ」

「……」


あの竜崎が、圧倒されて言葉を返す事も出来ずにいる。


「おまえの事だ、どうせこの人がいなければ、誰も愛する事はなかったんだろう」

「……何でそんな事が」

「分かるさ!これでも、義理とは言えおまえの祖母だからね」


それから竜崎は、項垂れて相続書類にサインをした。






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