獅子の翼 3 クリスピーのピザは、本当に旨かった。 さすが本場だが、僕は毎日こんな食生活を送っていたのだろうか。 「ビールは?良いんですか?」 男の言葉に「昼間から?」と思ったが、周囲を見ると観光客は旨そうにビールを飲んでいた。 自分の認識では高校生だから勿論酒を飲んだ事はないが、男の口ぶりからすると強いのかも知れない。 「ああ。やめておく」 それにしても、平和な光景だな。 デスノートはどうなったのだろう? 今の所殆ど日本や英語圏の犯罪者しか裁いていないが、僕の計画では世界中の犯罪者を消す筈。 勿論イタリアも例外ではないだろう。 その割りには……いや、後ろ暗い所のない人間は気にせず観光でも何でもする、か。 それとも……考えにくいが、僕が考えを改めて、犯罪者のいない新世界を作る事を止めたのか。 あるいは予想外に効果が上がり、思ったより早く犯罪者がいなくなったのか? ここは既に、新世界なのか……? ……いや。 それならば、この町の厳重さはおかしい。 住んでいる屋敷も玄関の外に鉄格子があったし、路地の店も鉄格子かシャッターはあった。 夜になれば閉まるのだろう。 「ここも旨いな」 「はぁ……」 だが男はピザを一切れ取って二口ほど囓った後、手を付けない。 「食べないの?」 「食べませんよね」 「じゃあ何食べるんだよ」 「何を食べたらいいと思います?」 知るか!と言いたいのを抑えて考える振りをする。 「ここからだと近いのは……」 「そうだ。クレマディドージェに行きませんか?」 頭の中に「CREMA DI DOGE」というアルファベットが浮かぶ。 恐らくイタリアに滞在してある程度経っているのだろう。 自分の中にイタリア語の知識があるのが、助かりはするが不思議な気分だ。 ローマというだけあって、イタリア語はローマ字読みで行ける事が多いらしい。 DOGEは元首、CREMAは英語読みすればクレーマだから……「元首の」アイスクリームか生クリーム、か。 「僕が食べる物がないじゃないか」 「だから今食べておいて下さい」 ……また正解。良かった。 こいつとの会話は、一つ一つが思考時間0.2秒の小テストだ。 いくら僕でも受験前で研ぎ澄まされていなければ対応出来なかったかも知れないな。 だがそう感じるという事は、僕はこいつに対して全く油断していないという事……。 少なくとも完全な味方ではなく、また見かけよりかなり切れる奴、という事か。 それにしても、僕の受験はどうなったのだろう? あのまま行けば普通に東大に入ったと思うのだが。 こいつの正体を探る意味も兼ねて、少し攻めてみるか。 「そう言えば、おまえは大学は?」 「……はい?」 男は見るからに訝しげな顔をして、首を傾げた。 しまった。間違えたか。 もしかしてこいつも東大なのか。 「……まあ、いい経験でした」 「東大は、思ったより賢い奴は少なかったけれど、そこそこ楽しめた」 慎重に、自分の事を話しているようにも、同意を求めているようにも取れる物言いをする。 「そうですね」 やはり同じ大学か。 となると。 今朝バスルームの鏡で見た、二十代半ばの自分の顔を思い出す。 学生時代からの付き合いだとすれば、年単位の長い付き合いになるな。 こいつの、年上なのに慇懃無礼な敬語を思えば、浪人して年上だけれど、サークルかゼミで後輩だった、といった事か。 その後僕は、卒業して恐らく警視庁に入ったと思うのだが……。 それが何故、ヴェネツィアにいるのだろう? レジで小麦色の肌に金髪の、若い女の子に金を払う。 財布の中にはユーロ紙幣と金色と銀色の組み合わさったユーロ硬貨、それにチェント硬貨。 分かりやすい通貨で良かった。 さり気なくカード入れも見てみたが、カードや証明書の類いは何も入っていない。 「グラツィエ エラモルトブォノ」 「グラツィエ!チャオ!」 自分がイタリア語を操っているのにも驚いた。 何も意識しなくても、定型文として口から出て来る。 そう気付くと、周囲のイタリア語や英語も少しづつ聞き取れるようになって来た。 “今日中にドゥカーテ宮殿見られるかしら?” “三時のユーロスターで……” “明日の現代絵画の授業行く?” “ヴァポレットの予約ネットで出来たよ” “アルテロが財布を掏摸られたらしい” なるほど。 英語とイタリア語が分かれば、外国と言っても何も怖くないな。 誰かが「クレマディドージェ」の話をしてくれないかと思ったが、勿論そんな偶然はなかった。 また、犯罪者の連続死に関する噂話もない……。 店を出て、またしばらく路地を歩いたり橋を渡ったりした。 「どうしました?月くん。珍しく遅いですね」 前を行く男が、時折立ち止まって振り返る。 僕は目指す所も分からず、時折空を見上げてリュークを探したが、気配もなかった。 「いや……やっぱり長い間寝過ぎてちょっとふらふらする」 「そうですか。しばらく休みます?」 それにしても、本当に表情を読ませない男だな。 義務的に言っているのか、僕を心配しているのか、さっぱり分からない。 「そうだな……」 何気ない振りをして、橋のたもとの土産物屋の店先に置いてある、「Free!」と書いてある観光地図に向かう。 一休みする間の暇潰し。 の振りをして、この町の地形を知りたかったのだが、その前に男は僕の手を引いて橋を引き返した。 「では、戻りましょうか」 「いいよ。腹減ってるだろ」 「私は大丈夫です。今日の午後は、ベッドで休んで下さい」 そう言われては逆らう訳にも行かない。 僕達は最初に居た屋敷に向かった。 屋敷に着いて、今朝目が覚めたベッドルームに行くと日が少し傾いていた。 窓際からまた川を見下ろす。 最初に見た、ゆっくりと川を上っていく遊覧船が「ヴァポレット」だ。 色々な記憶が少しづつ蘇って来るのは有り難い。 赤と白のシャツを着た船頭が漕ぐ、細長いボートはゴンドラ。 脳裏に、陽気に歌う船頭と、頭上を通過して行く橋の裏の映像が浮かぶ。 どうやら僕は、この町に来た時に一通りの観光はしたようだ。 地理が分からない事がバレないようにしないと。 「夜に備えて、ゆっくり休んで下さい」 夜に、何かイベントがあるのか? 男は静かにドアを閉めて出て行った。 外のもう一つのベッドルームが、彼の居室なのだろう。 それにしても、デスノートはどこにあるんだ。 日本の自分の部屋が思い浮かぶ。 絶対に誰にも見つかってはならない。 そうだ、液体燃料と電線を使って、万が一誰かに見つかったら燃えてしまう仕掛けにしよう。 その為には机の引き出しを二重底にして……。 そこまで考えて、無意味だと我に返った。 現在の僕なら、どこにデスノートを隠すだろう? 日本に置いて来たとは考えられない。 あまりにも危険過ぎる。 隠すとしたら、やはりこの部屋だろうな。 そう思うと居ても立っても居られず、部屋にあるチェストの引き出しを、二重底に気を付けながら片っ端から開ける。 ない。 クローゼットの中にもなかった。 旅行トランクの中にも。 ベッドにも。 だが、収穫もあった。 自分のワードローブが把握出来た事、パスポートを見つけられた事。 そして、自分がこの一年で何カ国も旅しているのが分かった事。 僕が、「L=Lawliet」という名のイギリス人という事になっている事。 パスポートを見た時は、あの男の名が分かったと一瞬喜んだが、写真を見て愕然とした。 「L」はLightのLだろうが……Lawlietとは何だろう。 何より、何故イギリス人? 呆然としながらバスルームも探したが、ノートを隠せる場所も隠し扉も無かった。
|