獅子の翼 2 思わず息を吸って、横に半歩逃げる。 「な、」 いきなり、殺される? 死を予期して「この数年の僕」という人格が逃げたからこそのこの状況、か……? 「ああ。すみません」 男が銃口を逸らしてカチリと音を引き金を引くと、先に小さな炎が点った。 ライター、か。 「……悪趣味だな」 「月くんが買ったんじゃないですか」 「玩具とは言え、銃口を人に向けるのが悪趣味だって言うんだ」 僕が買った……僕はここに、監禁されている訳ではないのか。 口から出て来る言葉は僕にしてはやや乱暴だが、すらすらと出てくる。 トイレを流した時と同じく、日常的な習慣は少し残っているらしい。 男も、僕の言葉遣いを不審に思った様子ではなかった。 「すみません……あなたが目覚めたのが嬉しくて、私とした事がはしゃいでしまいました」 僕に悪意を持つ人間ではない……。 頭は……良くは、ない……? 改めて見ると、ひょろりとした男は裸足で、黒い髪がぼさぼさしている。 その上猫背で青白い肌、目の下には隈があり、あまり健康そうではない。 裸足で……幼児のように、親指を咥えている……。 予断は危険だが、自閉症か、あるいは何か脳に障害が……? いやそれにしてはしゃべり方は滑らかだ。 もう少し話してみないと分からないが。 「僕は、何時間寝ていたんだろう?」 「四十時間です」 「!それは……凄いな。心配じゃなかった?」 「まあ、私も偶には軽く五十時間位寝ますし」 「……」 ある程度知的なしゃべり方……だが、相当な変わり者には違いなさそうだ。 それにしても。 僕ともあろうものが、しばらく喋ってもこの男の僕に対するスタンスが見当も付かない。 最悪、本名を調べてデスノートで殺せば良いが、取り敢えずは記憶を失っている事を悟られるのは回避しなければ。 声の印象通り年上のようだが、そんなに離れてもいないだろう。 手入れされていない髪、カジュアルで安そうな服、幼少時から躾の類いを受けた事がないであろう所作。 正直、今までもこれからも関わるタイプではないと思っていたが……。 僕に丁寧な言葉で話す割りに、どうやら僕より立場は上らしい。 言うに言われぬ……威圧感がある。 これももしかしたら、トイレのレバーと同じく記憶の断片なのかも知れない。 とにかく早急に知らなければならないのは、 ・この男と僕の関係 ・この男の名前 ・他に関わりのある人物はいるのか ・ここはどこなのか ・何故僕はここにいるのか リュークと話せさえすればある程度聞き出せるだろうが……。 数年経っている事を思えばそれも出来ない可能性も考えておかなければ。 とにかく、第三者と会えばこの男の名前は分かりやすいだろう。 その為には外に出たい、そうすればこの場所の事も分かるに違いない。 だがもしこの部屋に監禁されているか、あるいは何か療養しているならば。 そして僕もそれを承知しているとするならば、気軽に外出したがるのは不味いか。 言葉に気を付けなければ。 「……なあ。“久しぶり”に外に出たいな」 「はぁ。いいですね。一昨日帰ってきたばかりですけどね」 一昨日、帰ってきた……。 僕はここを拠点にして、他の場所で一泊以上したらしい。 なるほど。自由度が高いらしいのは有り難いな。 「四十時間寝ていたんだから、十分久しぶりだよ」 「そういう意味でしたか」 「お腹も減ったから、シャワーを浴びてからご飯を食べに行く」 その後、“あなたはどうする?”と言いかけて、慌てて言葉を飲み込む。 二人称は重要だ。一度間違えれば致命的に疑われる。 相手が僕の事をあなたと呼んでいるからと言って、僕も同じように呼んでいるとは限らない。 「……どうする?」 「私ですか?勿論行きますよ」 勿論、ね。 “あなたが目覚めたのが嬉しくて”と言っていたから、僕に友人かそれ以上の好意を持っているのか……。 あるいは、僕を監視するのが当然、という関係なのか。 やはり本心が測れない。 男が入って来た両開きの扉の向こうはもう一つの寝室で、その向こうにまた扉がある。 とても古い石造りの大きな建物だ。 角に石像や何かガラス工芸品が飾ってある広い廊下。 やはりホテルではなさそうで、他に人の気配はない。 階段を下りると、ホールの正面に大きな象嵌の両開きの扉が見える。 その扉を出ると、更に外側に鉄格子があり、その一部がやっと外に向かう扉らしい。 鍵を開けて外に出る。 目の前は道路というよりも、大きな木の植わった細長い公園のようだ。 左手にはすぐ開けた水場があって、どうやら部屋の窓から見えた川らしい。 小さなボートと、やや大きめのレジャーボートが係留してあるのが見える。 見てみたかったが、男は右に進んでいった。 すぐ突き当たりが石畳の路地で、どうやらここがやっと公道のようだ。 沢山の外国人が歩いている。 そこは狭くて高い建物に挟まれ、いくつも枝分かれした迷路のような路地なのに、小さな店が沢山あった。 現実離れした、ゲームか夢の中のような光景だ。 どの建物もすべからく古く、壁が剥がれたりラッカーで落書きされたりしている。 だがその殆どは、凝った石造りの細工やバルコニーを備え、美しいヨーロッパの古都を感じさせた。 ここはどうやら相当な観光地らしい。 男が前を歩いているのを良い事に、辺りをキョロキョロと観察する。 不思議な仮面が沢山ぶら下がった店。 銀細工の並んだショーウィンドウ。 の向こうの土産物屋の角に、絵はがきが沢山入った什器があった。 “Venezia” そのいくつかに、印字されたアルファベット。 やはり、そうか……。 ヨーロッパ……イタリアの、水の都。 確か中世には“アドリア海の真珠”と呼ばれた美しい町。 ここは正にヴェネツィアらしい。 自分の記憶ではヴェネツィアどころかイタリアにも縁はない筈なのだが……。 一体、どうなっているのだろう。 現実を知れば知るほど、皮肉な事に現実感が薄れていく。 「どこにします?」 その時、前を歩いていた男が突然振り向いた。 無言でも僕が着いて来ていると、疑いもしていない。 絶え間なく耳に入って来る英語、イタリア語の中で、突然聞こえた日本語に少し救われたような気持ちになった。 「どこでも……いや、旨いピッツァがいいかな」 「ならアルボレッティか……サン・バルナーバにも美味しいお店ありましたが、遠いですね」 「車拾ったら?」 「無理ですよ……」 出来れば見通しの良い大きな通りに出たかったが、男はいつまでも路地を歩いて行く。 だが、数分置きに教会のある大きな広場に出た。 それに面白い店が沢山あるし石造りの小さな太鼓橋をいくつも渡ったり川沿いを通るので、飽きない。 美しいが、奇妙な町だ。 遠いと言っていたサン・バルナーバには、結局十五分も掛からずに着いた。 通りに毎回名前が書いてあるので分かりやすい。 確かに車に乗る距離ではないな。 「前行ったお店にします?お釣りでユーロじゃない硬貨くれた所」 「ああ」 僕が止まっていると、男は背中を丸めたまま指を咥えた。 何か、待っている……? もしかして、僕達の関係性で言うと、必ず僕が先に店に入るのだろうか。 部屋を出る時の事を思い出す。 出口近くのローチェストの引き出しを無意識に開ける自分。 中には革の財布が入っていた。 男の物なのか自分の物なのか、それとも第三者の物なのか迷ったが……。 飾り気のないデザインは好ましい。色も恐らく僕の趣味だ。 それと、男のジーンズの尻ポケットに日常的に財布を入れているような擦れがなかった事から、自分の物である可能性が高いと判断した。 男の目の前で手に取ったが、妙な表情も見せなかったので、そのまま持って来たのだ。 しかし、そうなるとこの男は手ぶらだな……。 カード主義でどこかにカードを隠し持っているのかも知れないが。 それよりも……当初の「彼は僕の監視役、あるいは世話役的な人物」という予想に反して、僕の方が主導権を握っている可能性が高くなってきた。 困ったな。またしばらく病気になるか。 僕はコンマ一秒で色々振り払い、エントランスに本物のピザが展示してある近場の店に向かった。 男は安心したように小走りに着いてくる。 この行動で正解だったらしい。 「おや?ラ・ビッタじゃなくて良いんですか?」 「もういいよ。いい加減お腹が空いた」
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