満ちてきたのか足元濡らす 1 メロからもマットからも、連絡は来ていない。 という事は夜神は、ミカミも伴っていないし、突然発砲して来る事も ないという意味だろう。 デッキチェアの上でいつも通りの座り方で待つと。 幾重かのガラスの向こうに、黒いシルエットが現れた。 そしてフロントに一歩入って扉が閉まるのを待ち、薄暗がりの中、 ゆっくり、ゆっくりと明かりの方に近づいて来る。 やがて、プールの中の僅かな明かりに照らされた、その、顔。 昔のように、短く綺麗に切られた髪。 顔立ちは若いままだが……青い光のせいかやけに肌の色が白い。 それに少し、眼光が鋭くなったか。 仕立ての良さそうなタイトなダークスーツを着ている。 それが似合っている。 最後に会った時は、まだ少年と言っても良いような様子だったが。 収容所の中でも、それなりに年齢を重ねたという事だ。 それにしても、この時間だ。 元々スーツを着ていたという事はなさそうだが、 メロの襲撃を躱した後、悠々と着替えたのだろうか? 私と会う為にわざわざ? などと、どうでもいい思考ばかり巡らせながら。 「久しぶりです月くん」 声を掛けると、想像以上に反響した。 夜神も弾かれたようにこちらを振り向き、少し目元を和らげる。 「……変わらないな、竜崎」 「月くんは、少し大人になりましたね?」 「ああ……収容所では、色々と、あってね」 「はい」 「そうか。監視カメラ映像を見たんだったな?」 「はい」 夜神はズボンのポケットに手を突っ込み、俯くと やや自嘲的な声で続けた。 「どう思った?」 「……」 「軽蔑した?」 「……」 「……それとも、興奮したか?」 「……」 「……」 ……なんという事を。 訊くんだ、夜神月。 らしくない、不躾な質問。 だが私はその内容よりも、それを聞いた自分の動揺に驚愕した。 そして否応なしに思い出してしまう。 不鮮明な白黒モニタの中の 夜神月の、姿態。 夜神月の、嬌声。 夜神月の、不遇。 ……あの時、確かに私は。 「ええ。興奮しましたね」 静かに答えると、夜神は視線が交わるぎりぎり寸前まで顔を上げて、 僅かに目を細めた。 なんという。 なんという、目をするんだ、夜神月。 キラと疑われていた時も、手錠で繋がれて殴り合いをした時も。 どんな時も常に、どこか超然とした、醒めた視線を忘れなかったおまえが。 なんて、嬉しそうな目を。 「おまえの事、忘れた事なかった」 「……」 「ずっとおまえの事を、考えていた」 言いながら、先程と同じく非常にゆっくりとしたスピードで、 プールサイドをカツ……カツ……と一歩づつ私の椅子に近づいてくる。 「私もですよ夜神くん」 私の視線は、すぐ目の前に来た夜神の、ズボンの前に注がれる。 それから、片足を椅子の下に下ろした。 続いて、もう片方の足。 これで立ち上がる事が出来る。 立ち上がれば、夜神とほぼ同じ顔の高さになり、 どうしようもなく視線が合うだろう。 合ったら、その時全てが終わる。 それが分かるから、出来るだけ引き延ばしたくなってしまうが。 それは許されない。 私はLだから。 そんな事を一瞬で考え、躊躇いに気づかれる前に立ち上がる。 ……夜神。 目の前に立ちふさがった彼は、 相変わらず。 相変わらずだ。 ロンドンの夜景と、水面と共にゆらゆら揺れる青い光と、キラの顔。 記憶があってもなくても。 まっすぐに人を射る、この透き通った眼差し。 不覚にも、震えそうになる。 その時、素早くズボンのポケットから手を出した夜神が、 私の首を絞めながら勢いよく押した。 やはり武器は持っていないか。 素人にメロの銃を奪えとは言わないが、せめて小さなカッターナイフ一つ 持っておけばだいぶ有利になるだろうに。 そんな事は決してしない、彼は。 揉み合う内に我々の身体は半円を描き、背後が水面になる。 私は意図的に後ろに倒れ、夜神の腕を掴んで引き寄せた。 水に落ちる寸前、身体を捻ると、ばさ、と何か音がした気がする。 そんな事を考える間もくれない、頬を叩く衝撃、ごぼごぼと、突然奪われる聴覚。 と、酸素。 突然辺りが明るい。 思ったよりも深い。足が着かない。 だが同時に、首を絞めていた手も外れた。 水中で素早く拳を握って夜神の顔にヒットさせたが、即足で腹を蹴られる。 だがあまり痛みはない。 お互い、水の抵抗で打撃が吸収されたのだろう。 体勢を立て直す前に夜神がスローモーションで襲いかかってきたので、 スローモーションで身体を捻って攻撃を避ける。 息を止めながらも無表情な、陰影の消えた顔は人形か絵のようだった。 髪が海藻のように、次の瞬間には宗教画のように、重力を無視して 不可思議に靡く。 きっと私も同じように見えているのだろう。 全く。 Lとキラが、こんな。 よくもこんな、間抜けな殴り合いをするものだ。 息が……。 酸素が、足りない。 少し意識がブレ始める。 水中で格闘すれば、さすがにいつも通り息が保つわけもないか。 一瞬、夜神が先に落ちる事に賭けてその身体を押さえ続けようかと思ったが、 そんな事をしても共倒れだと気づく。 水面に逃げると夜神も追ってきて、私が顔を出した一瞬後に隣で水音と 大きく息を吸う音がした。 そしてその息を吐く間も置かず、私を押さえ込もうとするので。 「キラ」 そう言ってネクタイを掴んで思い切り引き寄せ。 その口に自らの口を押しつけると歯と歯がぶつかった。
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