Salvage 2 振り返らずに歩きつづけたが、音から推察すると どうも夜神月は四つ這いで着いて来ているようだった。 長い監禁生活で足が萎えたのだろう。 以前、弥と共に監禁した時は暇を見てストレッチをしたり 衰えないようにそれなりに気を使っていたようだが、今回はその気力も なかったと見える。 まあ、本来出られる見込みはなかったのだから当然と言えば当然か。 それにしても「これ」の中に、どの程度「あの夜神月」が残っているのだろうか。 「私なりに考えたのですが」 「……」 「デスノートに書かれても死なない人間というのが、ごくごく僅かですが存在します」 「……」 尻餅をつけとは言わないが、息を呑む程度のリアクションはあると思っていた。 だが夜神は全く反応しない。 夜神自身が生きている以上、その事自体は予想できただろうがそれにしても。 数秒だけ迷った後、私は話を続けることにした。 「二種類です」 「……」 「まず一種類目ですが。私の名が書かれたノートを見ましたね?」 「……」 「私のファーストネーム、アルファベット一文字で書かれていましたね?」 「……」 「あり得ません。幼い頃は一応一般的な名前で呼ばれていました」 「……」 「仮にLawrenceとしましょうか」 「……」 「私は自分の名前を『Lawrence=Lawliet』と認識していた」 「……」 「が、最初に役所に届けた名前なのか教会に報告した名前なのか、 とにかく死神界とやらに登録された名前は『L.Lawliet』だった」 「……」 「そんな事は私は知りませんでしたので、私が死ななかった理由について 別の推理を組み立てていましたが。 さっき壁に書かれたあなたの知る私の名前を見て、分かりました。つまり」 「……」 「私の例からすると、本当の……というか死神が認識している名前を 本人が知らない場合は無効、そういった制約があるのでしょうね。 死神にとっての『名前』の定義はまだ不明ですが」 「……」 「あとブエノスアイレスの強盗団で、一人だけ罪も軽くないのに死ななかった者がいました」 「……」 「よく調べてみるとその者は親が文盲で、戸籍の名前、教会に届け出た名前、 実際にずっと使われていた名前のスペルが全てバラバラでした。 条件に当てはまる可能性は高いです」 「……」 「つまり生まれつき、デスノートで殺され得ない人間も稀にはいるという事です。 それが選りに選ってこの私だというのは、些か都合が良すぎる気がしますが」 ここで、前方が少し明るくなって来た。 夜神は私の話を聞いているのかいないのか、一言も発しない。 応えるのは唸るような羽音のみ。 時折縺れるように足音が乱れる事もあるが、話の内容とは関係がなさそうだ。 後は階数にして三階分程の階段を上るだけだった。 だが今の夜神月に、果たしてその体力が残っているだろうか。 「あと少しで外です」 「……」 ゆっくりと階段を上り始めると、背後の悪臭も動き始めた気配がした。 私が促したから、ただ従っているのか。 そもそも私を認識しているのか。 外に出た途端、目の前に絞首台かギロチンが待っている可能性を考えないのか。 いや、その方がマシだと思っているのかも知れない。 私がゆっくりとした、しかし確実なペースで上っていくと 羽音はどんどん離れていった。 追いついて来ない、か。 振り向きたい。 だが、私は振り向くことが出来なかった。 柄でもないが、冥界に妻・エウリュディケを迎えに行ったオルフェウスのように 振り向いてしまったが最後、永遠に夜神月を失ってしまうような気がしたのだ。 いや、美しいエウリュディケというよりは、今の姿からすれば 腐敗して蛆をまつわりつかせていたイザナミか。 夜神月は日本人なのだしその方が相応しい。 太陽の、光。 外界。 むわっとした熱気も地下の臭気を思えば香しく、私は目の上に手を翳して 目を細める。 短時間地下にいただけの私がこれほど眩しく感じるのに、 数ヶ月もあの暗闇にいた夜神月が耐えられるのかと思った。 この太陽の下に、今の彼を引きずり出して本当に良いのだろうか。 泥人形として辛うじて人の形を保っていた彼の、魔法が解けて 砂塵になって崩れ去ってしまうのではないか。 ……馬鹿馬鹿しい。 さっきから私ともあろう者が、この土地の空気に毒されてしまったらしい。 おとぎ話のような事ばかり考えている。 どこの国に行っても一流ホテルに泊まり、ヨーロッパ並のサービスを受けていたので こうした辺鄙な場所には初めて来た。 それでも自分なら何とでも出来ると思っていたし、実際そうしている。 でも、何とも言えないこの、計算出来ない土着的な空気感。 しかしまあ、今の夜神月には都合の良い場所だ。 町中では彼を外に連れ出すことなど出来ない。異臭騒ぎが起きる。 私が現実世界に頭を戻し、振り返るとすぐ目の前に薄黒い影が立っていた。 いつの間に……。 外の風が蠅と臭気を吹き飛ばして気配に気付くのが遅れた。 明るい日の光の下で見る夜神月は、一層凄まじかった。 ホームレスなどという生やさしい物ではない。 日本の妖怪に、確かこんなのがいた。 絵では臭気が伝わらないので遙かにマシだが。 最早どこが顔なのか判然としない程だったが、漸く見つけた鼻はやはり 鋭角的に尖り、やっと僅かに面影を見つける。 その上に並んでいる筈の鳶色の瞳は目やにで固まり、堅く閉じられていた。 「……取り敢えずこちらへ」 雑巾を脱がせ、井戸の側に用意しておいた大きな盥の中に座らせる。 水を掛けると、一旦納まっていた臭気がまた臭い立った。 息を止めながらたわしでこすり、何度も水を捨てている内に肌が白くなってくる。 長期間あれほど不衛生な環境にいたのに、その肌は奇妙なほどみずみずしさと 滑らかさを保っていた。 堆積した垢が、蛹の殻のように皮膚を守っていたと見える。 難題は髪だが、地元の油粘土くさい石鹸を使って何度も何度も洗う内に やっと泡が立つようになってきた。 指で梳くと、肩胛骨に掛かるまで伸びた髪が、だんだんと解けて 艶を取り戻す。 そこまで目を閉じたまま、彫像のように無反応だった夜神月だったが、 髭をある程度短くするためにハサミをシャキッと鳴らすと、僅かに後ろに反った。 反射かも知れないが、まだある程度人の精神の形を保っているな。 そんな事を思って今度は剃刀を当てる。 何が肌に触れたのか分かったらしく、動くと逆に危険だとばかりに 硬直した。 髭を剃る。 顔中を洗う。 また髭を剃る。 げっそりと頬の肉が落ち、顎が尖っていたが 現れた顔は間違いなく、夜神月だった。 なのに私は、彼はこんな人だったかと、まじまじと見つめてしまう。 細くなっても均整の取れた体。 白い肌。 閉じた瞳の、睫毛の長さ。 今まで見た中で一番長く伸びた栗色の髪が、乾いた風にさらさらと靡く。 夜神月は、これほど、美しい人だっただろうか。 初めて会った頃も、いかにもモテそうな容姿だったが。 あの頃より年齢を重ねた今の方が格段に美しい。 でもそれは宗教画や仏像の美しさ。 常人には体験し得ず、また耐え得ない様々な経験が、彼の精神を どこか美しい場所に飛ばしてしまったのかも知れない。 それが内面から滲み出ているとしか思えない。 私が夜神月に見とれていると、不意にその瞼がゆっくりと上がった。 まっすぐに、私を見つめるその瞳に、浮かんだ色を私は解析出来ない。 ただ今この瞬間を、永遠に保存しておく方法はないものかと思った。
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