Salvage 1 長い長い石畳の地下道を進むと、前方に微かにオレンジ色の光が見えてきて 私はLEDの懐中電灯を消す。 悪臭がきつくなり、とてもではないがまともに息が出来ない。 シャツの袖を伸ばして布を鼻に当て、携帯用酸素ボンベを持ってくれば良かったと 後悔した。 突き当たりの角を曲がると、むわっとした臭気が殴りかかるように襲ってくる。 そのすぐ目の前が目指していた小部屋だった。 部屋と言うよりはクローゼット程の広さで、入り口……というよりは こちら側の壁全面が鉄格子になっている。 『彼は、五体満足ですよ』 ニアの含みを持たせた口調から、並の監獄ではないだろうとは思っていたが。 奥の角には元食べ物が、黴と生臭い汁にまみれて積み重なっている。 下の方は原型を留めていない何とも言えない物体になっていて 蛆と小バエがびっしりとたかっていた。 これが悪臭の大きな原因の一つだ。 その真上の天井には煙突のように黒い穴が空いている。 ニアが依頼した地元住民が決まった時間に食べ物を落としに来るのだろう。 彼が受け取ろうが取るまいが、食べようが残そうが、機械的に送り込まれる食料。 その内容も、件の地元住人に一任されているのだから良い食材とは思いがたい。 むしろ、言われたとおりに落とし続けているだけでも律儀な方だ。 壁にはちょろちょろと一筋の水が流れ、黒いような赤いような 藻のような苔のような物が生えている。 その水が、彼の唯一の飲料水。 『あと三ヶ月もすれば、自然に死にます。 それなのに今更、ですか?』 空気と食べ物があるだけでは人間は生きていけない。 劣悪な環境の中で自然に壊れ死んでいくのをただ待つのを、 ニアは『死刑ではない』と言う。 『世の中には罪もないのにもっと過酷な環境の中で野垂れ死んでいく人もいます。 凶悪な大量殺人鬼には、温すぎる措置だと思っています』 食べ物の反対側の壁際には、糞尿がこびり付いている。 これも悪臭の原因でこちらにも謎の羽虫が黒い霧のように集っている。 一応溝があってその向こうには下穴に通じる穴が空いているが そこに排泄した物を押しやるのは、彼の手足しかない。 その下穴から時折吹いてくる冷たい風は、都会に住んでいる人間なら 軽く気絶させる事が出来る程の臭気をはらんでいた。 「月くん」 そして真ん中には、巨大な雑巾にくるまって踞る、最大の臭いの原因。 獣も裸足で逃げ出しそうな、夜神月がいた。 というか、知らない人間が見れば絶対夜神月とは分からない。 固まり縺れながら伸びた何色とも分からない髪。 顔中を覆ったこれまた不潔な髭。 雑巾の上からでも分かる、痩せこけた体、異様に尖った肩。 私ですらこれは本当にあの夜神月か?と思ってしまうが そうでない人間がこんな閉じこめられ方をしている訳はないので間違いないだろう。 それによく見れば周囲の壁は、びっしりと細かい文字で埋められている。 偶々食べ物についていた骨か串でも使って書いたのか。 引っ掻いて記されたそれらは、おびただしい数の人名だった。 彼が、デスノートで殺してきた人間達だろう。 これだけの情報量を覚えていた事に感心するが、それを再度ここに 狂気じみた執念深さで書き記したその内面を想像すると薄ら寒くなる。 それも、ここに閉じこめられた初期の話だろうが。 右下の隅に、他と変わらぬ大きさで書かれた私の名前を発見して思わず頬が緩んだ。 「月くん。私が分かりますか?」 夜神月は、やっとぴくりと震え、ゆっくりと顔を上げた。 真上に小さい電球が一つあるだけなので、その目元は全く見えない。 ニアは本当は灯りもいらないと思ったらしいが、 それでは食べ物の摂取が困難になるので間接的に殺してしまう事になると、 妥協したらしい。 『どんなに酷い悪人であろうと、自分の手を汚して死なせるのは嫌です』 ここまで残酷な事が出来る人間が、面白い事を言うと思ったが ニアなりに、筋が通っているのだろう。 彼は一般とは違う意味で潔癖性だ。 「月くん。ご存じのように私はきれい好きではありませんが、 不潔なのは苦手です」 「……」 「出してあげます。嬉しいですか?」 預かっていた鍵で、鉄格子についた錠前を開ける。 夜神月が何度となく糞便にまみれた手で掴み、揺すったであろう鉄格子に 出来るだけ触らないように少し開けたが、夜神は動かなかった。 「手を引いて上げるつもりにはなれませんので、外に出たかったら私に着いてきて下さい」 私が背を向けても、夜神月が動いた気配はなかった。 もう彼は、壊れているだろうか。 それならそれで仕方がない。 無理矢理引きずり出すよりも、ここで静かに朽ちて行く方が彼の為でもあるだろう。 あの頭脳を失った夜神月に、興味も用事もない自分に少し言い訳をしながら ゆっくりと歩き出すと、背後でぶうん、と大量の蠅が飛び立った音がした。
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