Raindrops and the moon 5
Raindrops and the moon 5








「日夜交わって……って」

「何ですか?」

「いや。別に」


少し鉄格子に近づくと、夜神は顔を背けた。


「しかし流行病だと言うのに、よく伝染らなかったものだな。
 人に伝わるのが愚俗って、学者の癖に物を知らない」

「逆に、飛沫感染を避け、手をよく洗えば大丈夫という
 知識があったんじゃないですかね」




武士も諸子百家の事を少しづつ語り出しました。
問う事、理解する事、非常に聡明です。
兵法の理論も完璧でした。

お互い知識を交換し、一つとして納得出来ない部分がなく、感激して喜んで、
遂に兄弟の契りを結びます。
武士が五歳上だったので、兄としての礼儀を込めて学者に言いました。


「僕は長い間父母に会っていない。おまえの母上は僕の母でもあるので
 ご挨拶がしたいのだが、こういうのって、子どもっぽいかな?」


学者は非常に喜びました。


「母は私が孤独なのを気に病んでいるので、あなたの言葉を聞けば
 寿命も延びるでしょう」


学者が武士を伴って家に帰ると、老母は喜び迎えます。


「息子は才能もなく、学ぶ学問も時代に合わず出世できないのですが
 どうか見捨てず兄として教え導いてやって下さい」


武士は謹んで返しました。


「立派な男というものは義に重きを置く物で、功名や富貴は二の次です。
 僕は今母君の慈愛を頂き、賢弟の尊敬を得ました。
 これ以上の幸せがあるでしょうか?」


そうして喜んで、またしばらく逗留しました。

昨日今日咲いていた尾上の花も完全に散り、波を寄せる風を
涼しいと感じる、初夏になります。
ある日、武士は母子に向かって、


「僕が近江を出たのも、雲州の動静を見るためだった。
 一旦国に戻ってまた帰って来るよ。
 その後は下働きでも何でもしてご恩を返すから、今は行かせてくれ」


と言いました。
学者は、言います。


「ならば、兄上はいつ帰っていらっしゃるんですか?」

「月日が経つのは早いけれど、遅くとも秋は一緒に過ごそう」

「秋のいつの日です?出来れば約束して下さい」

「そうだな……九月九日、重陽の節句に戻ってくるとするよ」

「間違いないですね?菊の花と酒を用意して待っていますよ」


互いに情を尽くして、武士は西国に帰って行きました。




「どうしたんですか?月くん」

「別に」

「この、『情を尽くして』という日本語、私には分かりません。
 どういう意味か教えて下さい」

「……『情』というのは、『kindness』に似ている。
 お互いに出来る限り優しくして、みたいな事かな」

「へえ。私はまた、精を絞り尽くして、という意味かと思いました」


夜神は少し呆気に取られたような顔をした後、きつく私を睨んだ。




月日はあっと言う間に過ぎて、茱萸の下枝が色づき、垣根の野菊も
色鮮やかに咲く九月になりました。

学者は、九日にはいつもより早く起き出して粗末な座敷を掃除し、
黄色や白の菊を二三枝小瓶に挿します。
また、甕を傾けて酒席を設けました。

老母は呆れて


「兄上の八雲立つ国は山陰の果てですよ。ここから百里もあるのですから
 今日とも限らないでしょうに。来られてからでも遅くありませんよ」


と行ったが、学者は答えた。


「あの人は誠実な武士ですから、絶対に約束を破りませんよ。
 姿を見てから慌ただしく用意をしていたら何と思われるか、恥ずかしい」


そうして美酒を買い、鮮魚を台所に用意していました。
この日は快晴で見渡す限り一片の雲もなく、旅ゆく人も沢山ありました。

……今日は誰々が京入りするのに良い日だな
……今回の商売が上手く行く兆しだろう

そんな会話が聞こえます。
また、五十過ぎの武士が、二十歳過ぎの連れと歩いていました。

……こんなに天気が良いのに。明石から船に乗っていたら、今朝には
   牛窓に着いていただろうに、若い者は怖がって銭を多く使うわ
……殿が小豆島から室津に船で渡られた時、大変な目にお会いになったと
   お供した者が申しておりましたので、どうしても怯えてしまいました。
   そう怒らないで下さい。魚が橋の蕎麦をご馳走しますから

馬を引いた男が腹立たしげに、

……この死に損ないは、目でも叩いてやろうか

罵りながら、荷鞍を押し直して追っていきます。



そんな行き交う人を眺めながら待ちましたが、午後になって日が傾いても
待つ人は来ません。
沈む日に、宿に急ぐ足のせわしげなの見ると、外の方ばかり気になって
ふらふらとして来ました。

老母が、学者を呼んで


「人の心が秋のようだとは言いませんが、菊が咲くのは今日だけではないのです。
 帰って来ると信じていれば、時雨になろうとも良いではありませんか。
 今日は入って寝なさい。明日を待てばよろしい」


学者は拒めず中に入りましたが、何とか母をなだめすかして先に寝かせ、
もしや、と戸の外に出て見れば。

銀河さえ消え行きそうで、凍てつく月が私だけを照らして寂しい。
軒で吠える犬の声が澄み渡り、遠い波の音がここまで響いてくるようでした。

月の光も山端に沈みそうだったので、仕方ない、と戸を閉めようとした時。

何かが見えました。
ぼんやりとした黒い影の中に、人のような物が。

風が妙な吹き方をする、と見ていると……それは、あなたでした。

躍り上がりたくなるのを抑えて、


「私、朝早くからずっと待ってたんです。
 約束を守ってこうして重陽の間に来てくれて何と嬉しい事か。
 さあ、早くお入り下さい」


挨拶もそこそこにそう言って勧めるのですが、あなたはただ黙って物も言いません。
私は前に出て、取り敢えず座敷の前の縁側に座らせました。


「あなたがいらっしゃるのが遅かったので、母は待ちわびて、
 明日こそお会いできるかと寝てしまいました。
 今起こしましょう」


ところがあなたは頭を振ってそれを留めるだけで、まだ何も言いません。


「ああ、夜通し歩いて来て足が疲れたんですね。
 取り敢えず一杯どうぞ」


そう言って酒を温め、魚を勧めたのですが
あなたは袖で口元を覆い、その臭いを嫌っている様子です。
私は泣きそうな気分になりました。


「その、私が用意出来る程度なのでお口に合わないかも知れませんが。
 私の心ばかりのもてなしです。どうか……」


あなたはなお答えず、長い溜め息を吐いて、
しばらくした後言いました。


「……おまえの心のこもったもてなしを、僕が嬉しくない筈がないだろう。
 もう、騙す事も出来ないから本当の事を言うがどうか怖がらないで欲しい」


そうして少しだけ、顔を上げて


「僕は、この世の者ではない。
 穢れた霊魂が、仮に人の姿を見せているだけなんだ」






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