月百姿 10
月百姿 10








キラ事件が終わって十年。

あれから何度も大きな事件を扱ったし、解決もして来たが、あれ程興奮した事はなかった。
年の所為もあるだろうが、男漁りも格段に減っている。

私は、事件を解決する機械。
それ以上でもそれ以下でもない。
十歳になる前からそう自分を定義付けて生きてきたが。

それでもやはり、世界が色褪せて見えるのは、詰まらない物だ。
二十代半ばのあの頃。
確かに私は、人生の頂点に居た。

命を張るような無茶もしたが。
今思えばあの時、キラ事件に殉じてこの世から離脱していたら最高の人生だったかも知れない。

事件の調べ物の合間にそんな事を考えていると、


「L……そろそろ身辺の整理をして下さい」


ワタリに声を掛けられ、まるで心の中を見透かされたような気がして内心狼狽えてしまった。

……そろそろ身辺の整理をしなければならないのは、おまえの方だろう。

十年前ならそんな軽口も叩けたが。
この十年で二回も手術をし、年相応の不調を私に隠しているらしい老人に言っては洒落にもならない。


「そんな時期か」

「はい。衝動買いも結構ですが、処分が難しくない物にして下さい……」


流石に私も、あまり彼の手を煩わせる訳にも行かなくなって来た。
と言っても私は殆ど物を買わないのだが。
常に身軽で居る必要があるので、不要な物は二年に一度くらいの頻度で処分している。

この一年で買った、座り心地が良さそうに見えてそうでもなかった椅子は捨て、乗らなかった高級車は売って貰おう。
PCは、古い方は情報を吸い出して破棄しなければならないが……これが中々面倒だ。
必要不要の取捨選択は私自身がしなくてはならないし、絶対に復元出来ないよう徹底的に消去しなければならないからだ。

そんな調子で手放しているので、何年も身辺に置いてあるのは、ある事件でやたら懐いて来て面倒で連れ帰って来た猫と、一組の画集くらいだった。

画集……ではなく、「画帖」か。
大きな本のような体裁だが、屏風状に開く事も出来て、間に薄い蝋紙が挟んである。
そして一頁に一枚づつ、浮世絵が丁寧に貼り付けてあった。

そう。
夜神を監禁する前、一度だけ一緒に出かけた時に購入を決めた物だ。
結局、装丁や輸送の関係で届いたのはキラ事件が終わった後になってしまったが。

届いた後、一度確認の為に捲ったが、それ以来箱に入れて放置していた。
湿度が、保存状態が、などど言いながら管理をしてくれていたのはワタリだ。
それでいて、手放す気にもなれず今まで置いておいたが。
重い物でもあるし、持ち歩いていても仕方がないか……。


「ワタリ。『Light』を檻に入れておいてくれ」

「はい。しかし……」

「そろそろ『月百姿』を処分する。最後に一目見ておこう」

「ああ、猫に引っかかれては価値が激減ですね」


どこにでも居そうな茶色い縞猫は、元々「Light」という名前だった。
勿論、夜神とは全く関係無い。
まだ目が開かない内に棄てられたとの事で、拾い主が不憫に思って付けた名前らしい。

老境に入って近頃頓に太々しくなった猫は、老紳士に抱きかかえられて不満げに去って行った。

それを見届けて、絨毯の床に画帖の箱を置く。
取り出して分厚い表紙を捲ると、日本語と英語で解説した紙が入っていたが、読まずに頁を捲った。


『……構図が面白い絵が多いけれど、これはなかなか格好いい』


夜神の、よく通るのを無理に顰めた声がすぐ側で聞こえるような気がする。


『“内劣りの外めでた”を知らないとでも思っているのか』


蔵人に騙されて、したくもない出家をした花山天皇を。
アイバーの口先三寸で自首を決めたおまえが馬鹿に出来るのか。


『壇ノ浦だな。という事は自害直前か』


おまえはあの日の明け方。
手首を切るまで、こんな風に毅然としていられたのか?


頁を摘んでゆっくりと見ていると、否応なしに夜神の感想が思い出される。
あの美術館の空気、空調の音、人々の静かなざわめきまでもが蘇るようで、その事に苛立ちながら私は頁を捲り続けた。



「月百姿」には、歴史上の場面をその時の月と共に描いている物以外にも、芝居やお伽噺と月、市井の人々と月の類もある。
だが今何故か目に付くのは、「月が描かれていない」絵だった。
「月百姿」で「月」が不在というのも不思議な話だが。

例えば貴人が月に関する和歌に詠んでいる場面。
畳に映った、庭の松の月影を見つめる女性。
小波の立つ水面を避けるように手を掲げた若い女の絵は、月は直接映ってはいないが、そこが月光の反射で眩しい事を察せよという事だろう。


頁を捲っていると、やがて「信仰の 三日月」と題された一枚が現れた。
これも月が無いが、夜神がいたく気に入っていた絵だ。

他の絵のように構図や色彩が凝っている訳ではない。
薄墨色に塗りつぶされた背景の真ん中に、肖像写真のように一人の鎧武者が無造作に立っているだけだ。
ただその兜の前立ては、三日月の形をしている。

気になって側にあったノートPCを引き寄せて検索してみると、この人物は滅亡した主家を再興させる事に人生を賭け、死んでいった悲運の武士との事だった。
亡き主君に対する挺身を「信仰」と表現したのか……。

「信仰」の意味が特定の対象を信じて疑わず、自らの人生や命を賭けてしまう事だとするならば。
弥海沙の夜神に対する感情は、明らかに「恋愛」というよりは「信仰」だった。
いや、弥でなくとも信仰と言える程の信念を持った人物は、強い。

私でも決して勝つ事が出来ない程に。

もしかしたら、夜神は。
当時既に、キラであり続ける事に疑問を抱いていてそこをアイバーに突かれたのかも知れない。
この己の正義を信じる迷いのない姿に、彼は惹かれたのかも知れない。

左手を刀の柄に掛け、右手で十文字槍を緩く支えて一点を見つめる厳しい目が、夜神総一郎と似通っているようにも思えて来る。



しばらく見つめた後、いくつか頁を捲り、私は思わずまた手を止めた。
夜神と見た時は特に感想も無く通り過ぎた一枚だが。


「心観月……?」


その題名に、つい首を傾げてしまう。
恐らく戦場であろう、打ち捨てられた幟や槍や矢が散らばる中、兜を被らない鎧武者が刀を抜く暇も無く背後から切りつけられていた。

月に関係がありそうに見えなかったので、またPCで検索してみると、「手 友 梅」という人物らしい。
盲人だてらに戦場に出て命を落としたという事だ。

鎧に差してある竹竿には、辞世の句の短冊が挟んであったと記されている。


『暗きより 暗き道にも 迷わじな、心の月の 曇り無ければ』


目が見えなくとも、心の眼で見れば敵の姿も見える、という意か。
しかしながら、そんな精神論が通用する筈もなく、あっさりとやられている場面のようだが。
それでも有名な伊達政宗の辞世の句は、この句を下敷きにしているのかも知れない。


『曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く』


……私には日本古来の精神論など理解出来ない。

だが心の月……恐らく信念……を持って死すら恐れずに突き進む事が。
あるいは、実際に死ぬ事が、潔く、見上げるべき行いとされているようだ。

しかし我々西洋人からすれば、自ら命を捨てるような行為は愚かとしか言いようがない。
この世から逃げる為に自死を選ぶのは、まだ理解出来るのだが……。

信念の為。

人の命とは、そこまで軽い物なのか……?


真っ赤な浴槽が、瞼に浮かぶ。

夜神は、「この世から逃げる為」自害を選んだのだと思っていたが。
もしかして、違ったのか……?

信念を、守る為?
無粋な尋問を受けて、「キラの信念」を詳らかにする位なら。


自らの命と共に、闇に葬り去るかも知れない。
夜神なら。



……何を今更一人でムキになっているのだ、私は。

心の月。
心観月。

言葉が妙に心に突き刺さってしまった。
月の無い、月百姿をもう一度見る。

手 友 梅。
幸盛。

おまえたちは、月が無ければ、結局闇夜だとは思わないのか。
目が見えなければ、月は無いも同然だとは思わないのか。

そこには唯、「気配」しか無いと言うのに。


何故、そんなに在り在りと、月を観ることが出来るのだ。


私は。

ずっと、ずっと……闇の中に、居たのだ。
そこが闇だと気付かずに。

こんな最悪な気分になるのなら、最後まで……知りたくなかった。


この世に「月」などという物が存在する事を。






  • 月百姿 11

  • 戻る
  • SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送