恋煩 1 「夜神くん。一つレースをしませんか?」 「レース?駆け比べか?」 「はい」 乗馬クラブで借りた、不機嫌に鼻を鳴らす青鹿毛の首筋を撫でながら頷く。 それは、勝ちも負けもしないレースの筈だった。 キラ事件が勃発して数ヶ月後。 私は日本人学生、夜神月がキラなのではないかと疑い、あらゆる手を尽くしてここまで近付いていた。 同じ大学を受験し、同時に新入生挨拶をし、同じゼミを希望して。 そんな事をして調べれば調べる程、話せば話す程、彼がキラだという確信が強まって来ている。 そう、あとはもう、証拠を掴んで逮捕するだけ、という所まで。 そして強引に着いて来た、東大のゼミ合宿。 私は彼が何か尻尾を出さないかと、片時も離れず監視をしていた。 外出先では恐らくキラの裁きはしないだろうが、この三日間で絶対に自白を取りたい。 三日目にはCIAに彼を引き渡す手筈になっているからだ。 自白が取れても取れなくても捕縛はするが、出来れば証拠を掴んでからが望ましいだろう。 つまり、夜神自身は知らないがこの三日間が彼の人生最後の自由時間になる筈だった。 『確かに私は他人の肌の温度を知りません。 自分以外の人間の、唇の感触を知りません』 『だからあなたが教えてくれたら、鴨の雛みたいにあなたの後を着いていくしか 能が無くなるかも知れませんね』 奴の心の鍵を開くきっかけになればと、ふと思いついて言った時。 彼から返ってきた言葉は、 『例えキラでも?』 『……!』 だった。 ……キラであれば、咄嗟には絶対に出て来ない言葉だろう。 普通の神経をしていたら。 だがこいつは。 ますます面白い……。 夜神は、セオリー通りの誘導や取り調べには絶対に引っかからない。 ならば。 何としてでも、おまえの心をこじ開けてやる。 そして、おまえがキラだという証拠を手に入れる。 「今の状態から、スタートします。 そしてあなたが私から逃げ切ったら……つまり、先に教会の祭壇に辿り着いたら 私は永久にあなたを諦めます」 二日目の自由時間での乗馬だった。 邪魔な余人は別の道に別れたので、これは夜神に仕掛けるチャンスだ。 一馬身ハンディを与えているのだ、拒む理由もないだろう。 だが何度撫でても馬の機嫌は直らない。 賢い生き物だから、これからされる無体が予想出来るのかも知れない。 「……マジ?」 「はい。その代わり私があなたを抜かし、先に辿り着いたら、 あなたは私の物です。どうですか?」 昨日から何度も、夜神とその肉体に執着していると、伝えていた。 離れれば困るのは彼も同じなので、夜神は私をはっきりと振る事が出来なくて困っている。 揶揄っても面白い相手だ。キラは。 だが今回の騎馬合戦は、実際は勝ちも負けもない。 目的は、別にあった。 ゼミの合宿場所がここだと知ってから、私は建物の間取りや辺りの地形、行き帰りの交通機関を人を使って入念に調べさせた。 そしてそれは、すべて頭の中に入っている。 この脇道の事も調査済みだ。 元々林道だったが今は人が入る事は年に二度の手入れの時しかない。 森を通り、湖の畔の朽ちた小さな教会を経由して、合宿所に通じている。 今は馬一頭の幅しかないが、この先は道幅が広くなり、その後倒木のある場所がある筈だ。 レースはそこで終わる。 乗馬には自信がある、道幅が広くなった所で私が抜かし、先に倒木に辿り着く。 そして、わざと落馬して見せる。 後から来た夜神はどうするだろう……? 恐らく「優等生」の「友人」の顔をして、下りて私を介抱する筈だ。 そして私を見くびり、油断する。 私は彼に恩を感じた振りをして、心を許した振りをしてもっと彼の隙に付け入れば良い。 「僕を諦めるというのは……キラ呼ばわりも止めるという事か?」 「それは。あなたはキラですし」 しかし本当に望ましいのは、「キラ」の顔を露出させて馬の足で私を踏み殺そうとする事だが……。 まあ、仕留め損ねた時のリスクを考えればそんな暴挙に出る確率は低いが。 万が一咄嗟にその「顔」を見せてくれれば、公的な逮捕の決め手になる。 私にもしもの事があっても、靴につけたGPSと盗聴器が、彼の犯行を証明してくれるだろう。 「確たる証拠が出るまで僕をキラ呼ばわりしない、 付き纏って尋問したりしない、それも出来るなら乗ってやる」 いずれにせよ、このイベントで多少なりともキラに近づける筈だ。 持ち時間は三日間しかないのだ。 多少荒っぽい手段も辞さない。 「……分かりました」 「絶対に負けるつもりはない、という事だな?」 「その通りです」 「僕だって負けるつもりはない。それで良いか?」 「はい。お互い持てる力を振り絞りましょう」 夜神の横顔は、これまで見た事がない程緊張しているように見えた。 本気なのだろう。 負ける気はしないが、私も少し真剣に騎乗した方が良いかも知れない。 ……スタート! 合図と共に、思い切り拍車を入れたが、夜神も全く同時に飛び出した。 一馬身差はそのままに、私の目の前を駆けていく。 上手いな……。 報告にあった、詳細な地図の道の上を疾走する。 艶やかで逞しい栗毛の尻と、風に靡く先が少し白い尾。 その上には、腰を浮かせ膝で鞍を挟んだ夜神のタイトなジーンズ。 ひらひらとシャツをはためかせて、まるで空中を飛んでいるようだ。 馬も人も、引き締まった尻をしているな、などと無駄な感想を持った後、私は鐙を蹴った。 手綱も、何度も捌く。 鞭があれば、もっと容易いのだが。 馬を走らせるには、馬が嫌がる事をする事だ。 それも、振り落としてやろうと憤るぎりぎり寸前まで。 道幅が広くなると、栗毛の横に鼻先を拗込む事に成功する。 夜神の栗毛が私の青鹿毛に近付かれる事を嫌って、勝手に避けてくれるのであとは早かった。 一気に抜かし、更にスピードを上げる。 すぐ後ろから、地響きのような蹄の音が聞こえて来るが……。 もう、倒木だ。 馬も気付き、躊躇うように足音が乱れる。 直前で思い切り手綱を引くと、青鹿毛は苦しげに嘶いて大きく前足を上げた。 バランスを取りながら、落馬しても危険がなさそうな方向を探していると。 すぐ後ろから、スピードを落とさない夜神の栗毛が。 不味い。 夜神の方が落馬するか? まあ、それも心の障壁を取るには悪くないイベントだが、万が一死なれでもしたら。 などと一瞬の内に考えていると、どん!と、一際大きな衝撃が走る。 そして。 夜神と馬は、宙を飛んでいた。 馬鹿な……。 素人に跳べる高さではないぞ……。 音が消え、全てがゆっくりと、スローモーションで進んでいく。 鐙に突っ張って、でも少しだけ撓めた膝。 脇目もふらず、私の方など一顧だにせず、真っ直ぐ前を向いた彫像のように静かな横顔。 栗毛の、脇腹に浮き出た血管。 扇形に広がった長い尾。 馬からも人からも、飛び散る汗が木漏れ日を映して時折光りながら地面に落ちていく様子までもが、超高速度カメラで撮影したようにはっきりと見て取れた。 「やが、」 ……キラ! 私の馬が、前足を地面に着いた直後、どどどっ、という地響きと共に夜神の馬が倒木の向こう側に着地した。 時間の進み方が、戻る。 夜神は一切振り返らずに、風のように走り去って行く。 ぎり。 その後ろ姿を見送っていると、頭蓋の中で硬い物が大きく軋む音がした。 奥歯が痛む。 私は下馬せず、急いで馬の手綱を引いて転回させた。 十メートル程戻って助走をつける。 この位なら、私にも跳べる。 気迫が伝わったのか、青鹿毛は素直に跳んだが、ばき、とどこかの枝が折れた音がした。 夜神は、どこにも当たらなかった。 ……やはり彼は、天才だ。 「ちっ」 舌打ちをしながら、我ながら狂ったように鐙を鳴らす。 絶対に、許さない。 絶対に、負けない。 夜神の力を見くびっていた、数分前までの自分を殺してやりたい。 ……タイムロスは、十三秒ほど。 大きな数字だが、埋められない訳ではない。 その為には。 すぐに冷静な思考を取り戻せた事に、安堵した。 まだ手がない訳じゃない。 夜神の油断に賭けるしかないのは口惜しいが。 教会の前の小さな広場に出る直前、鐙から足を軽く抜く。 案の定夜神はまだ馬を繋いでいる最中だった。 私を見て何か口を開きかけたようだが、気にせず鞍の上に足を置く。 「え?」 小さな声を聞きながら思い切り鞍を蹴り、教会の入り口に向かって飛び降りる。 衝撃を吸収する為に地面で一回転した後、そのまま入り口に走り込んだ。 「ちょっ!」 やっと我に返ったのだろう、後ろから夜神のばたばたと煩い足音が聞こえる。 祭壇に手を掛ける直前に、タックルされたが、もう負ける事はない。 私は心を落ち着けて、バーリトゥードの試合動画を思い出しながら抜く。 片足が、抜けた。 勝った……! 夜神を引きずりながら立ち上がって祭壇に触れ、振り返ると、夜神の口が「うそだろ」の形に動いた。 嘘では、ない。夜神月。 Lは、どんな小さな勝負でも、どんな手を使ってでも、勝たなければならない。 そういう生き方を、しているのだ。
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