I spy 4 「あ……」 プーミパットが思わず声を上げる。 人影は不審げに眉を上げた後、黙礼をしてすれ違おうとしたが、私が呼び止めた。 「アイスさん」 「……はい」 少年はあからさまに迷惑そうに、しかし足を止めてくれる。 会場の別の扉から出たのであろう、演奏中とは別人のように生気の無い顔だった。 「先程の演奏、お見事でした」 「……ありがとうございます」 私が右手を差し出すと、少年は目を伏せたまま不承不承握手をする。 都合の良い事ではあるが、私の名を訊きもしない。 あの引力を持った瞳が隠れていないかとその顔を覗き込んでみたが、どこまでも目を逸らされただけだった。 「イギリスではどなたに師事されているんですか?」 「……王立音楽院の、サリヴァン先生です……」 「ああ!会った事ありますよ。なかなか厳しい人ですよね?」 「はい……」 はかばかしくない返事。 年はやはり、十五、六と言った所か。 この位の年齢ならこの反応も不思議ではないが……しかし……。 「以前どこかでお会いしませんでした?」 「……」 もう一度少年の顔を覗き込んだが、一瞬目を合わせた後無言で首を横に振る。 「私の勘違いでしょうか」 「……イギリスで……ですか」 「いえ。パッポンで」 瞬間、俯いたままの少年の頬が刷毛ではいたように朱色に染まった。 これは。 「それはあり得ませんよラージ!」 しかしその時、プーミパットが大声で口を挟む。 私が睨んでいるのに気付かぬ顔で、 「この人はそんな場所に足を踏み入れる人ではありません。 というか、外出には常にお供がついていて行きたくても無理でしょう」 それはそうだろうが……。 ならば先程の反応は、思春期の少年が歓楽街の名を耳にした羞恥? それだけか? 「失礼」 アイスは、唐突に呟いて足早に去って行った。 「名前を訊かれなくて良かったですね、ラージ」 「まあラージは偽名なんでいいですが」 少年の前で先に私の名前を口にしたのはおまえだろう。 と、軽く詰ると、プーミパットは大きく口を開けた。 「あ!すみません!」 私はプーミパットの表情を注意深く観察した後、溜め息を吐く。 「大丈夫ですよ。訊かれても適当な事言うつもりでしたし」 「ジャドゥポーンを敵に回さないで下さい」 「アイスって、タイ語ですか?」 「いいえ……多分殊更暑い日に生まれたんでしょうね。 生んだ時母親がIce creamを食べたいとか考えてたんじゃないですか? ただ、タイ人は“アイ”と言います」 「そう言えばタイの人は単語の最後の“s”や“k”を発音しませんね」 ファックスの事をファックと言われて軽く驚いたのを思い出す。 それにしても“ai”……やはり、あのパッポンの少年のMagnetic eyeが思い浮かんでならない。 「しかし彼の何が引っかかるんですか? 言っておきますが、三日前にイギリスから戻って来たばかりですよ?」 ……まあ良い。後は夜神に任せよう。 私はイヤホンの音が拾い易い場所を探して、建物の外に出た。 一歩出た途端に、音声が鮮明になる。 「あの、どちらへ?」 「すみません。極秘捜査ですので、少し離れた所から見ていて下さい」 戸惑うプーミパットを戸口付近に残し、パーティー会場の大窓が見える場所に移動する。 庭の石像の台座に腰掛けて、携帯端末を取り出した。 『珍しい持ち手ですよね。ガーゴイル、かな?』 端末には、座っている紳士の胸から下と、両手を乗せたステッキが映っていた。 夜神の言葉に応えて、紳士はステッキを少し持ち上げる。 モノクロ画面でも、恐らく銀色であろう持ち手が、ぎらりと光った。 “そうだ、昔のイギリス人みたいな、銀の柄のついたステッキを持っていたわ” “何か動物……鳥じゃないのよ。人相の悪い猿、みたいな” 否応なしに、昨夜のフォンの言葉が蘇る。 これは……殺された官僚と一緒に、ゴーゴーバーに行った男、か? 『よく分かったね』 『いえ、よく知らないんですが。ガーゴイルって悪魔なんですか?』 『いや、悪魔というよりは、雨樋だな』 『え!』 『雨樋の端についた、魔除けの像。これはそのレプリカですよ』 『それは……知りませんでした』 『昨今では映画などで動き出したりしているからねぇ』 よし、どうでも良い話題でも取り敢えず食いつけ。 男の正体を探るんだ。 『しかし面白い。嘴がある所が、日本の河童というモンスターにも似ています。 そちらも水に関係あるんですよ』 『ほう』 『河童は巨大な亀の甲羅を背負っているので猫背なんですが。 ガーゴイルも猫背ですよね。指まで咥えている』 『そう……幼児に近いイメージなんでしょうかね? よく膝を抱えていたり指を咥えていたり頬杖を突いていたりするねぇ』 『最初は怖そうですが、中々親しみやすいですね』 『私のようでしょ?』 笑い声と共に差し出された柄には、小さな耳と幅広の嘴を持つ異形が、膝を抱えて指を咥えていた。
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