I Spy 1
I spy 1








翌日夜神は中々ベッドから起き上がらなかった。


「月くん。そろそろシャワーを浴びないと間に合いませんが。
 気分は如何ですか?」

「最……悪」


漸くふらふらと立ち上がり、バスルームに向かう。


「……尻の穴が、閉じない」

「大丈夫です。最初は痛いでしょうが、無理矢理括約筋を締めていればすぐに回復します」

「本気にするなよ。嫌味も通じないのか。本当に気持ち悪いのは、……」


夜神は突然口を押さえ、バスルームに飛び込んで洗面台を抱え込んだ。
げぇげぇと吐いているのを聞きながら、昨夜の痴態を思い出して勃起しそうになる。
私は意識して事務的な声を作った。


「月くん。今日はカメラ付き眼鏡を着けていって下さいね。
 レンズが付いているのは、フロント左縁と、右の蔓です。
 対象の左に立つよう心掛け、また背後を映すよう指示した時は右を向いて下さい」


夜神が見ている映像は、衛星を経由して私のPCに飛ぶ。
粒子の粗い白黒画像だが、状況は分かるだろう。


「あとは、盗聴器を付けて、イヤホンも左の耳に入れて行って下さい。
 勿論その首輪を外すのも禁止です。まあ自力では外れませんが。
 分かりましたね?」


常に着けさせてある手錠型ネックレスには、新たなGPSが組み込んである。
夜神は返事をする代わりにバタン、と音を立ててドアを閉め、シャワーの音をさせた。




バスルームから出て来た夜神は、既に背筋を伸ばしていた。
さすがと言ってやって良いだろう。
Tシャツを着て、眼鏡だけが高級そうなのが怪しまれる、と言って、例の四十ドルのロレックスをする。


「これで、眼鏡まで安っぽく見える。
 金がないのに見栄張って頑張ってる風だろ?」

「やらかした買い物を何とか役立てたい気持ちは分かりますけどね……」


夜神は不機嫌そうに頬を染め、軽く手を振ってあっさりと出て行った。
彼に与えた最初の仕事……「教授」の元へ送り出した時を思い出して、少し苦い気持ちになる。
夜神が裏切ったのではないか、あるいは殺されたのではないかと、気を揉んだ日々。

だが、今回はさすがに妨害電波を出される事もないだろう。
私は部屋に居ながらにして、ワイミーと夜神の行動を監視出来るわけだ。

ホテルを出た夜神は、徒歩で待ち合わせ場所のルンピニ公園に向かった。
昼間だと言うのに、さんざん客引きに合っていて、閉口している顔が目に浮かぶ。
左腕に填めたロレックスに目を遣りながら急いでいると、


『ジャン、こちらだ』


待ち合わせ場所に着く前に、先方が車で夜神を見つけたらしい。
夜神は愛想の良い声で応えると、車に乗り込んだ。


『今日は眼鏡なんだね。随分と知的に見える』

『ええ。少しでもそう見えるようにと』

『冗談を。
 昨夜話し出してから気付いたんだが、君は本当はゴーゴーボーイじゃないんだろう?」


ちっ。もうバレたか。


『……分かりましたか』


夜神は殆ど考えずに認めた。
良い判断だ。


『ああ。タイ訛りもアメリカ訛りもないきれいなクイーンズイングリッシュだし、頭も良い。
 髪もこの国にしては珍しい色に染めていて……顔立ちは東洋系だが、もしかして、タイ人ですらないんじゃないか?』

『お見事です。台湾から遊びに来ている学生です。
 もうすぐ卒業ですから、ゴーゴーボーイに混ざってハメを外しています』

『そうか。ラージはどうだった?寝たんだろう?』

『それがあいつ、相当な変態で。うんざりしました』


……。

それからワイミーと夜神は、ホテル上階のレストランでタイ料理を堪能した後、高級デパート、サイアムパラゴンへ向かった。
正にデートコースだな。


「月くん。さりげなく右を向いて下さい。
 尾行などはありませんか?」


私の指示に従って夜神が横を向くと、サイドのカメラにスーツを着た白人が二人、少し後からデパートのエントランスに入って来るのが映っていた。


「あまりにもあからさまですから、ボディガートですね。心配しなくて良いと思います」

『ワイミーさんは、』

『キルシュと呼んでくれたまえ』


!……その偽名は、偶然、ではなかった?


『キルシュ、ワイミー?』

『おや。聞き覚えがあったかい?』

『……確か、有名な発明家でそういう名前の人が』

『ほう!キルシュ・ワイミーを知っているとは、なかなか博識だね』

『偶々です』


偽名だと、あっさり認めた。
しかし何故その名を選んだのか、


「食いついて下さい、月くん」

『という事は、偽名なんですね?』

『ああ、済まない』

『別に良いですよ。ジャンというのもニックネームですから。
 本名、訊かない方が良いですか?』

『いや、いいだろう。どうせパーティでバレるしね。
 本当はアンドリュー・ワイズと言う。
 君も、パーティで紹介するから本名を教えて貰えるかな?』

『ヤンです。楊月亮。月が美しい、といった意味です』

『正に名前通りだね。なるほど、それでジャンか』


ワイズはタイ語にも通じているらしい。
弁護士資格を持っているのだから当たり前か。
そんな事より。


「月くん。偽名の由来を」

『そう言えば、キルシュ・ワイミーってもう亡くなってますよね?
 お知り合いか何かなんですか?』

『ああ、直接知り合いではないが……まあ、餌、だな』

『餌?名前で何かを釣るという事ですか?』

『お。グッチだ。ここで良いかね?』


それ以上は話題を続けられる雰囲気でもなく、二人は実の親子のように楽しそうにスーツを選び始めた。
結局シャツや靴やネクタイまで買って貰っている。


「さすが、貢がせるのも上手いですね、月くん」


先程の変態発言の仕返しではないが、お互い言い返せない状況というのはなかなか面白い。
それから彼等はお茶を飲んで昨夜のゴーゴーバーの噂話をしていた。


『アンドリューはあの店に結構行ってるんですよね。
 いつもはどんな方と行くんですか?』

『まあ、仕事仲間かな。気の置けない仲であったり、あるいはそうなりたい人物を連れて行くね』

『やはりイギリスの方?』

『まあ、色々だ。ああ、もうこんな時間だ。
 パーティーまで中途半端に時間があるが……どうする?ホテルに来てそれを着るかね?』


パーティ開始まで三時間、着替えだけ、とは考えにくいな。
それだけあればシャワーの時間を入れてもたっぷり楽しめるだろう。


『ありがとうございます。お言葉に甘えます』


画面にワイズの顔が迫って来る。
どうやら頬にキスをされたらしい。
マイクからは、夜神の小さな笑い声が聞こえてきた。




まあ……ワイズを誘惑しろと言ったのは私なのだが。

ワイズの部屋に到着した夜神が最初にした事は、眼鏡をサイドボードの上に置く事だった。
気を利かせたのだろう、部屋全体が見渡せる。
画面の中では夜神が、ドレスシャツやスーツの入った箱を持って踊るような足取りでバスルームに向かった。

ワイズはサイドテーブルの上にあったブランデーボトルを傾け、少しだけグラスに注ぐ。
それから何やら書類を見ていた。


『聞こえるか、L』

「ええ、聞こえていますよ」


マイクをオンにして答えると、小さく息を吐く音が聞こえる。


『ワイズは大丈夫か?こちらに向かっていないか?』

「今の所は窓際で何か読んでいるので大丈夫です。
 今は何をしていますか?」

『スーツの襟に盗聴器を装着してる。この後どうする?』

「セックス、ですかね」

『……偽名については暫く聞けないぞ。しつこすぎる』

「では、被害者の官僚達について聞いて下さい」

『分かった』


“努力する”に留めず、“分かった”と言い切る所が彼の頼もしい所だ。


『それから、冗談でも貢がせただなんて人聞きの悪い事を言うな』

「まあ、私もあなたにはさんざん貢いでいる身ですし」

『……』

「昨夜は"うんざり"させてすみませんでした。今夜は改善します」

『仕返しか?ガキだな。それとも今夜はそちらに戻れ、という意味か?』

「そうですね。ただ、ワイズからもう少し引き出せそうでしたら泊まって貰っても構いません」

『……了解』


それから夜神はイヤホンを外して隠し、シャワーを浴びた。


『すみません、アメニティの髭剃り使ってもいいですか?』

『ああ、構わないよ』


眼鏡カメラの前に現れた夜神は、細身の光沢のあるドレススーツを身に付けていて、何やら……素人には見えなかった。


『おお、やっぱり似合うね』

『ありがとうございます』

『こちらで着替えれば良かったのに。バスルームに着替えを持ち込むのは台湾式かね?』

『いえ……』


夜神が何か言おうとした所で、ワイズが立ち上がってその細い腰を抱き寄せる。
昨日も思ったが、年の割には相当の長身だ。
幅もあるので夜神が二回りほど小さく見えた。


『肌を見せる事を拒否されているようで、傷つくな』

『そんなつもりでは……ありますね』


ワイズはくふっ、くふっ、と、咳のような笑いを漏らす。


『実はセックスの後は寝てしまうタイプなので、正直パーティの前にはちょっと』

『まあ、無理強いはしないよ。これでも紳士の国の生まれなんだ』


そう言いながらもワイズは、太い指で夜神の顎を持ち上げる。


「!」


そして、深々とキスをした。
この私の目の前で……。
唇の隙間から、太く意外にも真っ赤な舌が、うねうねと夜神の口内に侵入しているのが見える。
夜神はただ身を竦めてそれを受け入れていた。

長い長いキスが終わると、夜神が俯く。
その顔を、ワイズが覗き込んだ。


『ジャン、まさか、キスが初めてという訳じゃなかろうな?』

『違います……が、その、とても久しぶりだったので』


キラとして死ぬ前。
夜神の周囲には、常に女性が居た。
キスに慣れていないという事はないだろうが、キラとして死んで以来久しぶり、か。
私も一度だけ軽く唇を触れたことはあるが。


『初々しいな。まるで東洋の女の子みたいだ。嫌いじゃないよ』

『……本当にあなたには嘘は吐けないな。そう、実はそんなに遊び慣れてる訳じゃない』

『知っていたよ。だからこそ、君を誘った』


……なんだこれは。
まるで恋愛映画のワンシーンのように、事態は進行していく。
出演者が年配の恰幅の良い男性と、いかがわしさ満載の若者でなければ、だが。

それから二人は指を絡め、ボディガードに守られて王宮に観光に行った。
とにかく夜神が随分気に入られているのは確かだろう。

私は、携帯端末を取り上げた。






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