初恋 23 外に出ると、まだ湿気が激しく肌寒くなっていた。 湖畔の道は、昼間見てもまるで湖にせり出しているようでかなり危険だ。 よく夜中に誰も嵌まらなかったものだ。 いや、落ちても浅いから大丈夫、という事なのだろうが。 洋館のすぐ前では、二年生の先輩が釣り糸を垂れている。 僕は人が居た事に、密かに胸を撫で下ろした。 「釣れますか?」 「釣れたら晩ご飯ですね」 「いやぁ、昨日も坊主だったし、もし釣れてもせいぜいブラックバスだな」 そんな会話をしながら、儀礼的に少し様子を見ていた。 「食べられる魚が居るんなら、ボート出して必死で釣るんだけど」 「ボート、あるんですか?」 「ああ、使えるかどうか分からないけど、ほら」 指差された方を見ると昨夜は気付かなかったが、確かに二、三人乗り位の 小さなボートが繋いであるのが見える。 二年生に暇を告げ、ボートに近付いてゴム引きのカバーを外してみた。 オールもあるし、どうやら穴も開いていないようだ。 「乗ってみましょう」 「いや、勝手に乗って良いかどうか分からないし」 「減る物じゃありません。元通り戻しておけば良いんですよ」 「世界の影の支配者」から言われてしまうと、反論も出来ない。 仕方ない……。 まあボートに乗れば、件の先輩からいつでも見えるし 洋館の窓からも見られるんだから、変な事はされないだろう。 揺れるボートに何とか乗り込むと、流河もボートを揺らしながら 乗り込んで座板の上にしゃがむ。 向かい合って座って落ち着き、揺れが収まった所で、流河がオールで 岸を押した。 ギギ…… ゆっくりと滑らかに、小舟は広大な湖に滑り出す。 水はすぐに深くなったが、波がないせいもあって透過性が高く 底がよく見えて少し怖いくらいだった。 「ロマンチックですね。正にデートという雰囲気ですね」 「ああ……まるで空中に浮いているみたいだ……水がきれいなんだな」 「いや、きれいと言うよりは……」 流河がオールをそっと水に浸ける。 それでも波が立って、水底が歪んで揺れた。 「生命感がないです。今でも寒いくらいですから、 冬には全体に凍り付いてしまうんでしょうね」 「じゃあ、あの先輩も気の毒だけどやっぱり釣れないか」 「はい。魚の餌になりそうなプランクトンすら居ないので、こんなに水が きれいなんでしょう」 ギッ……ギギッ…… 流河がゆっくりと、しかし力強くオールを動かす度に、岸と洋館が遠ざかる。 映画のカメラワークを実際に見ているような、不思議な視界だった。 「……夜神くん、死蝋って知ってます?」 「ああ、死体が腐らず蝋化して、永久に姿を保ち続ける、というやつだろ?」 「はい」 何の話を始めるつもりだろう、と耳を傾けたが 流河は無言で櫂を動かし続けた。 少し、寒い。 上着を持ってくれば良かった……。 「……死蝋が出来るのは、こんな場所なんです 「……」 「菌の居ない、冷たい水の底に長い間居たら、人間の脂肪は 分解されず、蝋化します」 「なるほど。可能性はあるね」 「夜神くん、水の底を見てみて下さい」 「?」 「初代学長の親友が、今も恨めしげに水面を見上げているかも知れませんよ?」 「……」 よくある怪談だ、怖いという程の事はなかったが、実際肌寒くもあり 少しぞくっとした。 「やめろよ、馬鹿馬鹿しい。 それに波が立って、もう底は見えないよ」 先程から少し風が出て来て湖面がざわついている。 ……いや。 気付けば、洋館が何処にも見えなくなっていた。 洋館どころか、周囲の森や山も、何一つ見えない。 さっきまでは、薄ぼんやりとではあるが、見えていたのに。 「ああ、湿気が強くて霧が出て来てしまいましたね」 「珍しいな、こんな時間に。 危ないからもう戻ろう」 「どちらへ?」 「え?」 「私、正確に真っ直ぐ漕いできた訳ではありません。 今、自分が湖のどの辺に居て、どちらを向いているのか 全く見当が付きません」 「……嘘だろ?」 「気温が上がりさえすればすぐに晴れるでしょうから、ここで少し待ちましょう」 雲の中に居るよう、という程ではないが、確かに数メートル先しか見えない。 それでも海ではないのだから、どこかに向いて漕げば岸に着く筈で、 上がれない場所に着いたら反対方向に漕ぐ、という事を繰り返していれば その内岸に着ける筈だ。 「場所代われよ。僕が漕ぐ」 僕が膝を突いて流河の方に近付くと、流河は突然ニッと笑った。 「危ないですよ、夜神くん」 「そうっと移動すれば大丈夫だ」 「そうではなくて」 「?」 流河が突然、僕を船首の方へ押し倒した。 ボートが大きく揺れ、ばちゃ、ばちゃ、と水音が立つ。 手に少し水が掛かった。 それが驚く程冷たい。 「何、」 「我慢出来なくなりました」 「はぁ?!何が!」 「あなたを、体ごと私の物にするのは夜までお預けだと思っていましたが こんな風に二人きりになれたのは天の采配では?」 「待て待て待て!駄目だ、いくら何でも危ないだろ」 「あなたが協力してくれれば大丈夫です」 「そんな訳、」 実際、僕が本当にセックスをしたがっていたとしても、ボートの上でなんて あり得ない。 というか、夜までに何とかしようと思っていたのに、こんな……反則だ。 しかし流河は僕の言葉を無視して、僕のジーンズに手を掛けた。 「止めろよ!」 「暴れたら落ちますよ?」 ちらりと、水面に目を遣った後僕を見上げる。 確かにさっきの水の冷たさと、数メートル下の薄暗い水底を思い出すと 落ちたくはなかった。
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