初恋 22 だが流河も一歩も引かず、全く動じない。 「ハイネですか」 「……よく知っていましたね。 悪人は悪事を、道徳だの宗教だの愛国心で装飾する。 キラはそんな人間だと思いますか?」 「……」 流河は噛んでいた親指を外した。 「確かに。Patriotism is the last refuge of the scoundrelという言葉を キラが知らないとは思えません。 ただ、彼は非常な頭脳派であると同時に幼稚な人間でもあります」 「ほう」 「例えば社会の底辺に近い若者が、自らのidentityの不在を埋める為に 『愛国心』に縋ったりする事がありますよね。 その事と、キラが悪人の裁きに拘る事は、規模は違いますが実は全く同じ根底です。 しかし、キラ自身はそんな事は毛筋程も思っていない筈です」 「……」 「identity crisisという手垢にまみれた言葉もあるんですが、彼はなまじ優秀なだけに 自分がそんな月並みな心理に陥っている自覚が無い」 教授は面白そうに流河の話を聞いていた。 「私、何かおかしな事言ってますか?」 「いや、すみません。 私が感心したのは、あなたがキラを『彼』と、当然のように決めつけた所です」 流河は指摘に、気不味そうな顔をするかと思ったが 我が意を得たりと言わんばかりにニヤリと笑った。 「いいえ。彼も彼女も含めての、“彼”です。特に意味はありません」 「!」 コイツ……! 教授と話す振りをして、僕に当てこすっている。 思わず睨んでしまったが、流河は教授に顔を向けたままニヤニヤしていた。 「そうですか。当初の用心深さから一転したので違和感を覚えてしまいました」 「でしょうね」 「キラが頭脳派なのは認めましょう。 あまり大きな声では言えないが、幼稚な人間だという事も。 それで」 教授は基本的に微笑を絶やさない、物腰の柔らかい人物だが それが突然一切の表情を消し去って、真っ直ぐに流河を見つめた。 「これも大きな声では言えませんが、東大も、その頭脳に反比例して 悪い意味ではないが、幼稚な精神の持ち主も多いんですよ」 「うわぁ、先生酷いわぁ」 教授と流河の二人舞台のようだった室内に、久々にゼミ生の声が響く。 だが教授は意にも介さなかった。 「もっと酷い事を言って良いですか? 流河くん。もしかして、このゼミにキラが居る……と思っていたりしますか?」 「!」 「うそやろ?」 「いやいや、まさか……」 室内が、久々にざわめく。 皆、気味が悪そうに、ちらちらと流河を見遣っていた。 しかしこの教授も、相当勘の良い人だ。 流河はさすがに驚いたように目を見張っていたが、やがて静かに口を開いた。 「穿ち過ぎです、先生。確かにキラは頭の良い人間です。 東大生である可能性も、犯罪心理学を学んでいる可能性も無くは無いでしょう。 でも、だからと言って私にはどうこうする事は出来ません」 教授も、柔らかい微笑を取り戻す。 「そうですか。私はあなたが公安か、探偵のLの配下かも知れないとまで 考えていました。 もしそうならご遠慮願いたいな、と思ったのですが」 「今度は買い被り過ぎですね。 私は一介の苦学生、この度大叔父の遺産を相続したので、やっと 入試を受ける事が出来た只の成金です」 「……そういう事にしておきましょうか」 あからさまに嘘を吐く相手に、奨学金はどうしたなどとは問い詰めない。 どうやら教授も流河の正体を探るつもりだったらしいが、諦めたようだ。 漸く緊張が解け、皆がざわざわと雑談を始める。 教授と流河も、和やかな顔になった。 「しかし、キラの『愛国心』の下りは面白かったです」 「正確には『愛国心』ではないのですが……」 「ええ、分かります。大義名分という物ですね。 先程ハイネの話をしましたが、続きを知っていますか?」 流河は少し目を細めて、低く答えた。 「Sie greifen uns an, nicht aus schabigen Privatinteressen, nicht aus Schriftstellerneid, nicht aus angeborenen……」 ドイツ語には疎く、何を言っているのか殆ど分からなかったが その流暢な発音は美しい。 まるで吹き替え映画を見ているような、奇妙な光景だった。 「Knechtsinn, sondern um den lieben Gott, um die guten Sitten und das Vatiland zu retten.」 日本語を自然に話している時は日本人にしか見えなかったが 外国語を母国語のように操っているのを見ると、西洋人に見えて来る。 教授は微笑むと、殆ど音を立てない小さく上品な拍手をした。 「良い発音ですね。しかし宗教というのもやっかいです。 キラが特定の宗教を持っていなければ良いのですが」 「質の悪い愛国心と、質の悪い宗教は似ていますからね。 しかしそれは大丈夫です。既存の宗教とキラは相容れません。 彼がゾロアスター教やマニ教などでしたら話は別ですが」 「ああ、ツァラトゥストラですか」 それから教授と流河は、善悪二元論とキラの裁きについて、意見を交換していた。 彼等に語られる「キラ」は、僕にはまるで遠い存在のように感じられる。 しかし、流河が繰り返しキラの聡明さとイノセンティを語る度、 体の奥が痺れるような、不思議な感覚を味わった。 「おっと。もうこんな時間ですか。 休憩もせずに話しすぎましたね。今日はこの辺にしておきましょう」 難航した関西弁先輩の論文テーマが決まり、教授が腕時計を見たのを切っ掛けに、 皆立ち上がったり思い思いに伸びをし始めた。 気付けば雨は止んでいる。 教授が退室し、皆少しづつ部屋を出て行った。 「面白かったよ、流河」 「はい?」 「教授と流河の討論。 凄いね、教授と気が合うんじゃない?」 「……」 流河はぎろりと僕を睨んだ後、子供のように親指を吸った。 「……夜神くん以上に、合う人は居ません」 「あ……ああ、そう」 相手が世界一の探偵と思えば誇らしくない訳ではないが、 居心地が悪いな。 「ところで流河って本当はドイツ人なの?」 「……」 「ドイツ語の発音が良かったから、母国語なのかと思って」 「ああ……いえ、かすりもしません」 「そうなんだ」 ……僕は、卒業までに少なくとも流河以上にドイツ語をマスターしようと決めた。 いや……。 その頃には、流河は居ないんだったか……。 「所でこの後、夕食まで自由時間ですね。どうしますか?」 「さあ……もう馬に乗る程の時間はないだろうし。 外でも散歩するか」 流河と、寝室に下がるという選択肢はない。 昼間ではあるが、二人きりになったら何をされるか 分かった物ではなかった。 「そうですね。昨日の肝試しコースにでも行って見ますか」 それは、もう一度教会に行きたいという意味だろうか……不味いな。 いや、いくら何でも、教会で不埒な行為には及ばないか。
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