人形の家「私があんな邊鄙な處に居たゝまらなくなつたのもそのためです」2 突然拓けた場所は、周囲が小さな崖になった中々大きな湖。 こんな森の奥に、こんな物があるなんて。 ここで溺れていたら、絶対に見つからないな……。 また、殺されてここに沈められても、半永久的に発見されないだろう。 何となくぞくっとして身震いをし、木の枝を掴んで何とか這い上がる。 見上げた空は、薄橙色をしていた。 まずいな……。 日が、暮れてきた。 あのガラスの家を出てからどのくらい経っただろう……。 自分としては真っ直ぐに歩いたつもりだが。 今すぐ引き返さないと不味いのは分かっていたが、引き返しても 夕食までに無事に戻れるかどうか分からない、という心もとなさに またぶるりと震える。 そう言えば、空調で気付かなかったが、屋外は春とは言え ちょっと動きを止めると肌寒い。 立ち止まっていても仕方がないので取り敢えず歩いてみたが、 薄暗くなっている事もあり、行きに歩いた道と同じかどうか心許なかった。 これからどんどん暗くなって一層難しくなって来るだろう。 これは……。 下手に闇の中で動くよりも、今夜は野営を考えた方が良い。 本当は少しでも明るい間に出来るだけ進みたい気持ちだが、 野宿をするならその判断は早くしないと命取りになる。 僕は出来るだけ拓けた場所を探した。 出来れば中が広い洞窟などがあれば良いが、それは高望みだろう。 しばらく辺りを探索し、地面は斜めだが岩盤があり、 寝たり座ったり出来そうなスペースを見つける。 今夜はここに泊まろう。 辺りは既に夜だ。 火が必要だ。 乾いた木の枝や枯れ葉を集め、岩の上に置く。 確か、弓のような物の弦を木の枝に巻き付け、回転させると 効率よく発熱して火を起こせると、何かで見たな。 ショールを手探りで裂いて縒り、紐を作る。 木の枝に括り付けて弓を作り、乾いた木に巻いて何度も引いたが 火は点かなかった。 そこで、本格的に日が暮れて辺りが暗くなってしまった。 参ったな……。 見えない中で作業しているので、何が悪いのか分からない。 着火剤にした枯れ葉も、手で触った感じだけでは、乾いているのか湿っているのか 意外と確認できない。 見上げた空は少し明るいので月は出ているのだろうが 辺りは木や木の葉の影で本当に真っ暗だった。 火を起こすのは諦めて膝を抱えて座り、耳を澄ませる。 時折木の葉が擦れる音が、妙に不気味に聞こえる。 ぎゃあ、ぎゃあ、 遠くで何かが絞め殺されたような声がする。 そういう種類の鳴き声の鳥だろうが気味の良いものではない。 それにしても、寒い。 動くのを止めたせいもあるだろうが、実際日が落ちると同時に 急激に気温も下がっている。 岩についた尻から冷気が染みてくるようだ。 その内自分の体温で暖まるだろうと思っていたが、その気配はない。 地面に座った方が良いか……。 いや、下草や苔だらけで湿気が上がってどうしようもなさそうだ。 蛇や虫も怖い。 立って、動き続ける方が暖かい、か。 それとも寒さに耐えて体力を温存すべきか。 ここが日本と同じくらいの緯度だと仮定するならば、今は18時30分くらい、 日の出は5時30分くらい、11時間、この体勢で耐えられるか? 気温はこの後一方的に下がり続ける筈。 この軽装で、どの程度体温を保持出来る? ……死。 沢山の人間を死に追いやっておきながら、全く現実的ではなかった 僕自身の、死。 それが妙に迫って来る気がした。 まさか。 いや、人間、誰もが「まさか」と思いながら死ぬんだ。 僕の場合は日が出るまで何とか生きていれば良いというものではない。 その後、あのガラスの家まで自力で戻らなければ。 動けなくなった時、死が確定する。 いくらLとは言え、こんな所に転がった僕を短時間で探し出すのは不可能だろう。 服や靴に、GPSタグがついていない事を確認なんかするんじゃなかった。 確認していなければ、最後の一瞬まで、今にもLが来てくれるんじゃないかと 希望を持ち続ける事が出来たのに。 別にLに助けて欲しい訳ではないけれど。 ……って、「最後」というのが縁起が悪いな。 僕が死ぬなんて決まったわけじゃない。 ぶるりと震え、寒さに膀胱が縮まっているのが感じられた。 立つと、膝裏に溜まっていた暖気が逃げる。 自分の萎えたペニスに手を添えると、冷たさに飛び上がりそうになる。 用を足したら足したで、また体温を逃がしたのを実感してぶるりと震える。 ほう。ほう。 梟。か? 遠くで、何かが羊歯をがさがさと揺らす音。 まさか狼なんかいない、よな? 向いにある、一番近い木が、風もないのにざわざわと揺れる。 目が慣れてきて、白っぽく見える部分は、ヒトくらいの大きさだ。 影の具合で丁度上の方が頭っぽく見えて。 何か被った……ヘルメット?をかぶった、人間のようにも見える。 安っぽいジャンバー。 下卑た笑い。 ……渋井丸……拓男、か? その向こうの異様になで肩のヒト型の影は、音原田源九郎、 僕のすぐ横の影は、リンド・L・テイラーだ。 その他にも、暗闇の中に浮かび上がる、沢山の、影。 ぞくり、と背筋が凍る。 ……が、その時、Lの声が脳裏に蘇った。 『この世の全ては、いわばヴァーチャルです』 『目に入る物、耳に聞こえる物、感じる物、 全て電気信号であったり単なる空気の振動だったりするわけですね』 『そこに意味付けするのは個人個人です。 その中にもし普遍的な真実と言える物が存在するとするならば、 それは私の脳内にしかあり得ません』 ……そうだ、こんな事がある筈が無い。 これらは全て、僕の脳が僅かな情報を元に作り出したヴァーチャル・リアリティ。 例え、もし霊魂という物があると仮定しても、現実に生きる僕に、 何一つ手出しなんか出来る筈が無い。 「おまえ達、僕に仕返しに来たのか?」 耳を澄ますが、ただ風の音が聞こえるだけだ。 ほら。ただ、揺れているしか出来ない。 ただの木の影だ。 「無駄だよ。僕はおまえ達なんか全然怖くない。 僕はまだ生きている」 自分の声とは言え、久しぶりに聞いた人の声に、 少しの安堵と、一層かき立てられる孤独感がない交ぜになった 複雑な感情が呼び起こされる。 渋井丸は相変わらずニヤニヤと、笑い続けていた。 音原田は、茫洋と宙を見つめていた。 「死んだら相手をしてやるよ。……失せろ!」 言って強く目を瞑り、もう一度目を開けると 辺りは唯の夜の森だった。
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