人形の家「此奴、今日はいけないといふ物を食べたな」1 夜になり、僕がペペロンチーノとサラダを作って二人で差し向かいで食べ Lが洗い物をした。 今は新鮮な野菜がストックしてあるが、何日毎に補充してくれるのだろう。 「ワインがありますね。飲みますか?」 「いや……僕は未成年だし」 「この場では、そんな事関係ありませんよ」 「飲んだ事ないし、やっぱり良いよ」 猫背でワイングラスを掲げたLが、何故か目を見開いてニヤリと笑う。 「そういった生真面目な所は、やはり『月さん』ですね」 「……」 今までは、Lが僕の中に「朝日月」を見い出す度に心の中で嘲笑っていたが こんな状況になってみるとおぞましい。 「いや……いいよ。一杯頂こう」 「そうですか」 Lは二本の指で足を摘んだワイングラスを僕の前に置き、 瓶の頭にコルク抜きを刺す。 間抜けな音を立てて開栓されたボトルからは、甘いような酸いような香りが ほのかに漂った。 「本当に初めてなんですか?」 「ああ」 「それは運が良い。これはシャトーラトゥールの中で最高と言われている物で 最初にこんなに美味しいワインが飲める人なんてそうそう居ません」 「……」 「私は、あなたの初めてなら何でも欲しい。 人生最初のアルコールを注ぐ事が出来て光栄です」 「……」 Lは、男の僕には用はないと言う。 だが現在目の前に居る僕は男で、それなのに、こんな。 「女優を口説く演出家」であった時に戻ったかのように、Lが気取った仕草で グラスを持ち上げるのを、僕はただぼんやり見ていた。 「月さんが本物の女性になる日に、乾杯」 「……」 何とも腹立たしようなやるせないような奇妙な気分になって、 グラス一杯を一気に干す。 目の前で、Lが少し仰け反って目を見開いた。 「本当に、ワインの飲み方知らないんですね」 ああ、知らないよそんな事。 センター試験には出ないからね。 「……なら、教えてよ」 軽い目眩に襲われながらことりとグラスを置き、出た言葉は我ながら舌足らずだ。 これが酔いというものか。 こんなに急激に酔う物なのか? 「まず、グラスをじっと見つめます」 「うん?」 「それから鼻を近づけて匂いを嗅いだ後、零さないように揺らして もう一度嗅ぎます」 「うん」 「その後、ほんの少し口に含んで軽くうがいをして舌への刺激と匂いを感じます」 「……おまえの説明って何となく汚いよね」 「一口飲んだ後、目の前に人がいたら何か言います。 『芳醇な香り』とか何とか言っておけば良いです」 それって……正しいんだろうか。 まあ、嘘を言われていたとしても今後使う事のない知識だから関係ないが。 回らない頭。 つい、テーブルに肘をついてしまう。 頬が熱い。 「……ライトくん。酔うのが早いですよ」 「……」 「寝るなら寝室に行って下さい」 「うん……」 少しだけ。一分だけ。 ぼんやりさせて。 と思っていたら、突然肘の支えがなくなり、僕の体は横に倒れた。 反射的に手を突くべきだというのは分かっているのに、何故か体が動かず 肩から床に崩れる。 しばらくは脳味噌が頭蓋の中でぐるぐる回っているような気分だった。 「仕方ないですね」 目の前の椅子が動き、床に付いた頭に直に振動が響く。 スニーカーを引っかけた足が、ずる、と動いて近付いて来た。 「ほら、しゃんとして下さい。掴まって下さい」 「……放っておいてくれ……」 「そうですね、そうしても良いんですが。 今のあなたはあまりにもセクシーなので、特別にベッドまで送ってあげます」 「セクシーとか……言うな……」 ああ……「面倒臭い」という言葉は嫌いだ。 だが、今は何もかもが「面倒臭い」。 喋ろうと思っても、我ながらろれつが回っていない。 醜態を曝すくらいなら、もう喋らない方がマシだ。 僕は殆ど背負われるようにして、寝室に引きずって行かれた。 Lは始終淡々としていて、僕の体をベッドに投げ出した。 もしこれが「朝日月」ならば、さぞや鼻の下を伸ばしただろうに。 林の木々の隙間から、丸い月が見えた。 「では、靴は自分で脱いで下さい。おやすみなさい」 「待てよ……」 「何ですか?」 「おまえ、僕がセクシーだって、言ったよな?」 「はい」 「抱かないのか?」 Lは少し目を細めて溜め息を吐いた後、こちらの向き直った。 「何度も言っていますが、私はゲイではありません。 男を抱く趣味はありません」 「……抱いたくせに」 「女性だと思っていましたから。 今は男性だと知っているので、無理です」 「真実は、おまえの脳内にしかないんじゃないのか」 「ライトくん、本当は酔ってないんですか?やけに頭が回りますね」 「酔っていてもいなくても、どちらでも良いだろ」 「はぁ……というか、抱いて欲しいんですか?」 「馬鹿な!」 叫んでから、自分の言動がそう誤解されても仕方ないと思い至った。 「……ごめん、やっぱり酔ってるみたいだ」 「ですね。行って良いですか?」 「ああ……おやすみ」 「おやすみなさい」 Lが出て行った後、頭皮や扁桃腺の辺りがどくんどくんと波のように脈打っていた。 それでも月光の差し込む夜の林の風景は優しく、悪くない、と思った。
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