基督と満月 1 「……ですから、『神』というものは物質としては存在しませんが、 その存在を肯定する事による placeboは期待できます。 また超自我(superego)の別名という側面もあり……」 このワイミーズハウスは、孤児院の形態を取ってはいるが 一般で言う学校のような役割も果たしている。 つまり、その実体は「全寮制の学校」に近い。 その「授業」の内容は他の学校とはかけ離れ、質も非常に高いのだが、 不思議な事にこの非合理的な慣習だけは昔から延々と続いていた。 即ち、この敷地の片隅の小さな教会での日曜の礼拝。 お祈りの後、ごく偶に神父による講話があった。 さすが我々の前に立つだけの事はあって、その内容は聖書ではなく 「神」や「宗教」という物の捉え方、その利用の仕方だったが。 しかし、私はそれでも一人ごちていた。 神は、存在する。 それも物質として。 前面の彩色硝子の前になおざりに掲げられた、貼り付けの男を見上げる。 乱れた黒髪を額に貼り付かせ、土気色で痩せぎすの貧相な男。 だが私にはその頭上に、非の打ち所のない、全てを見通す力が見えた。 それも「天にまします我らの父」などという反則的なものではなく 自分の手で掴み取った能力だ。 ……L。 この世を影から支配すると言われる実在。 世界を犯罪から守る、最後の切り札。 会った事はないが、その頭脳はそこらのPCよりも正確で精妙だろう。 その人格は、限りなく公正で情に流されず……恐らく正義感すらないのだろう。 そうでなければ年間何百もの依頼をこなせない。 その彼に対するこの感情に、名を付けるなら「崇拝」以外あり得ない。 「崇拝」されるのは、「神」だ。 だから、彼は「神」だ。 ……自分でも頭が悪そうな三段論法だと思う。 だがあの時一緒に話を聞いた者達は、少なからず似たような感想を持っていたと思う。 それから一年ほど経ったある日の昼下がり。 ロジャーが遊戯室の真ん中に小さな机を持って来て置き、その上に ノートPCを置いた。 何が始まるのかと観察しているとやがて、画面に大きく「L」の飾り文字が現れて 息を呑む。 「……知っての通りLは大変多忙だが、今日はみんなの為に時間を割いてくれた。 この機にLとおしゃべりしたい者はするように」 そういってロジャーは興味なさそうに後ろの椅子に凭れたが、 「え……マジ?」 「嘘!」 「本物?」 「んな訳あるか。何かの試験?」 ざわつく子ども達に、PCから合成音で一言。 『……私はLです』 皆がロジャーを見ると、小さく頷いたので皆、画面の向こうにいるのが 本当にLだと納得する事が出来たようだ。 それから皆、次々に質問を投げかけていた。 だが私は何も訊かなかった。 一つは、訊きたい事は誰かが訊いてくれる事。 もう一つは、個人的にはまだ本物のLかどうか疑っていた事。 最後に、自分がいつか彼の後を継ぐのだという、小さな自負心。 彼は現在の所は崇拝の対象ではあるが、いつか同じ土俵に立ち、 そして超えてやる、そんな目標とも道標とも言える存在でもあった。 ……ああそうか。 メロが私に冷たいのも、そういう事なのかも知れない。 今の私と同じような心境なら、複雑な心情ではあるが、 私を嫌っている訳ではないという事になる。 まあ、どうでもいいが。 いくつかの問答の後、私が、画面の中のLが間違いなく本物だと 確信した瞬間があった。 それは、 『いいえ。正義心ではありません』 Lが「L」である理由を訊かれて、はっきりと言い切った時だ。 彼は自分を目標とする子ども達を前に、躊躇いなく本心を吐露した。 ……私は彼の人格に改めて感じ入った。 それは、二つの意味で重要な発言だったからだ。 一つは、彼が我々を、全く子ども扱いしなかった、という事。 上からではなく、対等な人間として最大の礼儀を以て誠実に回答してくれた。 もう一つは、それを聞いた子ども達の反応を見て、 「正義」に幻想を抱いていない者を知る事が出来た、という事。 その結果によって、「L」になれる素質があるか否かをこっそり振り分ける事が 出来ただろう。 最大の礼儀と、最大の無礼。 二つが混在したLの言葉は……やはり神秘的だった。 後でロジャーが、Lの後継者になるのは恐らくメロか私だろう、と。 Lが言っていたと教えてくれた。 「まだ君たちの資料は何も渡してないんだがね。 壁際で菓子食ってたのと、隅で一人で遊んでたのが怪しい、と言っていたらしい」 私自身も、贔屓目ではなく客観的に、Lの後継者になるのなら自分かあるいは メロだろうと思っていたが、カメラ越しに見ただけで分かったようだ。 やはりLだと、私は小さく頷いた。 ワイミーズハウスでは、申請すれば金に糸目を付けず何でも買って貰えたが 「個人の持ち物」と言う物はなかった。 公正な視点を養う下地の一つとして、物資に対する執着を取り除く 目的なのだろう。 それは部屋に関しても同じで、我々は毎日部屋を変えられ、 当番制で相部屋になる事もある。 Lと対話した日は偶々、何ヶ月かに一度のメロと同室の日だった。 メロと私は折り合いが悪い。 私は普通に勉強しているだけなのだが、メロは度を超えた努力をしても 成績面で私に追いつけないらしい。 それで逆恨みされても困るのだが、彼は私に対して だんだん無愛想になって行った。 子どもの頃は仲が良かった事もあるし、世話になってもいたという事もあり、 その彼と長時間同じ空間に居なければならない夜は私もどこか気鬱だった。 「もう寝るぞ」 「はい。お休みなさい」 「……ああ」 それでも私が寝台に入ったのを確認してから、部屋の照明を消して。 幼い頃私の面倒を見ていた習慣が抜けないのだろうが、 彼はやはり「優しい」のだと思う。 私にとって「優しい」とは「甘い」とほぼ同義語なので、全く褒め言葉ではないが。 「メロ」 「……なんだ」 隣の寝台に声を掛けると、もぞもぞと動いてこちらに身体を向けた気配がした。 「聞きました?」 「ああ、聞いた。おまえか俺だって言ってたらしいな」 Lの後継者の話だと、言わなくともメロは察する。 まあ、我々の間で語るべき事と言えばそれくらいしかないが。 「俺はおまえに、負けない」 「そうですか」 「成績が良くても、おまえには取り調べをしたり追跡したりする力はない。 探偵としての素養は俺の方が上だ」 「そうですね」 「……」 無言でも、闇の中でメロが逆上した気配が感じられた。 長く一緒に暮らしていると、それくらいは分かるようになって来る。 「おまえはどうなんだよ。我こそがLの後継者、とは思わないのか?」 「思ってますよ」 「なら、」 「それをあなたに言っても始まりません」 「……」 更に怒りが、爆発しそうな雰囲気。 私は面倒な事になる前に自ら話を変えた。 「そう言えば、日曜の礼拝の時、偶に神父が来ていたでしょう?」 「ああ……あの痩せた男か。……もう来ないだろうな」 「でしょうね」 メロも、頭を切り換えたようですぐに静かな声で答える。 だが、もう来ないという事が分かっているという事は。 「……Lだろうな」 「ですね」 それは印象に過ぎない。 だが静かな語り口調、その内容も何となく昼間の「L」と同一人物に思えた。 メロも同じ印象を持ったとすれば、ほぼ間違いないだろう。 「私、迂闊ですが全く顔を覚えてないんです」 「ああ。俺もだ」 闇の中で、メロがふう、と息を吐く音がした。 黒い天井を眺めながら思い浮かべてみても、多彩な色硝子と 下から蝋燭の光で照らされた十字架男しか思い出せない。 その下に立つ神父は逆光も相まって、影しか記憶に残っていなかった。 「……寝よう」 「はい」 それから私は本当の暗闇の中に、身を投じた。
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